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咸豊同治期

(1636~1912)]
後金,清初,康熙期,雍正期,乾隆期,嘉慶道光期,咸豊同治期,光緒宣統期),チベット,コーカンド政権
太祖(ヌルハチ)-太宗(ホンタイジ)-順治帝(福臨)-康熙帝(玄燁)-雍正帝(胤禛)-乾隆帝(弘暦)-嘉慶帝(顒琰)-道光帝(旻寧)-咸豊帝(奕詝)-同治帝(載淳)-光緒帝(載湉)-宣統帝(溥儀)
馮雲山(?~1852)
  広東省花県の人。道光二十三年(1843)、洪秀全とともに拝上帝会を創始した。翌年、広西に布教し、桂平県にいたって会衆二千人余を集めた。楊秀や蕭朝貴らを幹部として育て、「十款天条」と各種儀式を制定した。二十八年(1849)、官憲に捕らえられて、獄中で天暦を制定した。のち会衆の助けにより脱獄した。三十年(1851)、田村の蜂起に参加した。永安で太平天国が建てられると、南王・副軍師となり、五王のひとりとなった。全州で砲撃を受けて重傷を負い、また蓑衣渡で江忠源の軍に敗れ、息を引き取った。
馬瑞辰(1782~1853)
  字は伯。安徽省桐城の人。嘉慶年間に進士に及第した。翰林院庶吉士に任ぜられ、工部営繕司主事となり、工部員外郎に上った。のちに江西白鹿洞書院・山東嶧山書院・安徽廬陽書院で講義した。『毛詩伝箋通釈』。
湯貽汾(1778~1853)
  字は若儀、号は雨生。江蘇省武進の人。武官職を歴任した。太平天国軍が南京を陥すと、投水死した。山水・花鳥画にすぐれた。『琴隠園集』。
江忠源(1812~1854)
  字は常孺、号は岷樵。湖南省寧の人。郷試に及第した。地主の団練を率いて、雷再浩の農民叛乱を鎮圧した。のち知県に上り、知府・道員を歴任した。咸豊年(1851)、太平天国の乱が起こると、勇を率いて戦った。翌年、湖北按察使となり、太平天国の勇将・馮雲山を蓑衣渡で敗走させて名を上げた。功績によって、安徽巡撫に上り、廬州に鎮した。四年(1854)、太平天国軍が廬州を攻めたとき、投水死した。『江忠烈公遺集』。
劉文淇(1789~1854)
  字は孟瞻。江蘇省儀征の人。家は貧しく、母方の叔父の凌曙に従って学んだ。劉宝楠とともに揚州二劉とならび称された。『左伝』杜預注を批評して『春秋左氏伝旧疏考証』を著した。『揚州水道記』、『渓書屋文集』。
琦善(?~1854)
  字は静安。満洲正黄旗の出身。第一等侯爵の位を襲封した。嘉慶二十年(1815)、河南按察使となり、汝寧・光州の農民叛乱を鎮圧した。道光四年(1824)、山東巡撫となり、馬進忠らの反蜂起を鎮めた。十六年(1836)に協弁大学士となり、十八年(1838)に文淵閣大学士に任ぜられた。二十年(1840)にアヘン戦争が勃発したとき、直隷総督の任にあり、英軍との交渉にあたった。林則徐にわって広東の欽差大臣となる。広州の戦備を解くなど妥協策を採って、翌年失脚した。のち復帰して駐藏大臣・四川総督などを歴任した。咸豊三年(1853)、欽差大臣となって江北に鎮し、太平天国軍に対する防備にあたった。のち揚州近郊に直隷・陝西・黒龍江などの各省の軍を率いて江北大営を築き、太平天国軍に対峙した。翌年、軍中で病没した。
劉宝楠(1791~1855)
  字は禎、号は念楼。江蘇省宝応の人。幼くして叔父劉台拱に学び、劉文淇とともに揚州二劉とならび称された。道光年間に進士に及第した。直隷文安知県に任ぜられた。はじめ『毛詩』、『鄭礼』を考証し、のちに『論語』を研究した。『論語正義』を撰して、完成しないうちに没した。『釈谷』、『石例』。
包世臣(1775~1855)
  字は慎伯、号は倦翁。安徽省涇県の人。嘉慶年間に郷試に及第した。若いころは貧窮して、家塾の講師となったり、軍の幕僚をつとめたりした。道光十九年(1839)、江西省喩の知県に任ぜられたが、のちに弾劾を受けて官を去った。農政・治水・治塩・貨幣・軍戦などの諸問題を幅広く論じ、著作をものした。アヘン戦争のときは、アヘンの禁絶と英軍への抵抗を雄弁に主張した。詞や書にもすぐれた。『中衢一句』、『藝舟雙楫』。
羅大綱(1811~1855)
  広東省掲陽の人。天地会に参加し、沿海一帯で反活動をおこなった。道光三十年(1850)、天地会会衆を率いて拝上帝会に参加。洪秀全の挙兵に加わった。全州・岳州・南京戦などに参加。咸豊四年(1854)、西征に参加。翌年、戦傷を受け、それがもとで没した。
源(1794~1856)
  字は黙深。湖南省邵陽の人。嘉慶十九年(1814)、父とともに上京。劉逢禄に師事して公羊学を学んだ。龔自珍や林則徐らと交友した。アヘン戦争中は、浙江巡撫・裕謙のもとで英軍と戦ったが、敗戦して南京条約が結ばれると、発憤して『聖武記』、『海国図志』を著した。道光二十四年(1844)、進士に及第した。江蘇省の東台・興化・高郵などの知事を歴任した。咸豊三年(1853)、太平天国軍が揚州に迫ると、団練を率いてその鎮圧に当たった。五年(1855)、官を辞し、公羊学・今文学を研究して、著述に専念した。ほか『皇朝経世文編』。
楊秀(?~1856)
  もとの名は嗣竜。広西省桂平の人。道光二十六年(1846)、馮雲山のもとで拝上帝会に参加した。天父下凡(エホバの言葉を会衆に伝えるという)をつとめて、洪秀全に次ぐ実力を持った。三十年(1851)、田蜂起に参加し、左輔正軍師に任ぜられ、中軍主将をつとめた。太平天国の成立により永安において東王に封ぜられた。全州占領のときに、馮雲山負傷の報復として屠城を行って汚点を残した。天京(南京)占領後は、洪秀全を押さえて専権を振るった。西征には成功したが、北伐には失敗した。天王・洪秀全の追い落としを謀ったため、北王・韋昌輝に粛された。
韋昌輝(1823?~1856)
  もとの名は韋正。広西省桂平の人。地主の出身。道光二十八年(1848)、馮雲山のもとで拝上帝会に参加した。三十年(1851)、洪秀全の田村挙兵に加わり、副軍師・右軍主将となった。咸豊年(1851)、太平天国の成立により北王に封ぜられた。南京占領後に洪秀全をしのぐ実力をつけた東王・楊秀を粛した。次いで翼王・石達開と対立し、内訌を起こした。東王配下の残党に捕らえられて処刑された。
任熊(1823~1857)
  字は渭長、号は湘浦。浙江省蕭山の人。家は貧しく、村塾の師に従って画を学んだ。道光二十二年(1842)、銭塘にうつり、范湖草堂に三年とどまった。姚燮の推薦によって画名が広まった。蘇州・上海などを転々として、画を売って生活した。人物・山水・草虫などさまざまな画を描いたが、とくに神仙仏道の画にすぐれた。任薫・任頤とともに三任と称された。「人物山水冊」、「姚燮詩意図」、「十万図」など。
朱駿声(1788~1858)
  字は豊芑、号は允倩。江蘇省県の人。嘉慶年間に進士に及第した。若くして銭大昕に学び、経史の考証校定にあたった。咸豊年(1851)、『説文通訓定声』を献上して、咸豊帝に賞讃され、国子監博士の位を授かった。『六十四卦経解』、『尚書古注便読』、『左伝旁通』、『伝経室文集』。
耆英(1787~1858)
  愛覚羅氏。字は介春。満洲正藍旗の出身。はじめ宗人府主事となり、理事官に進んだ。道光五年(1825)、内務府大臣に任ぜられた。九年(1829)、礼部尚書・都統に上った。十八年(1838)、盛京将軍となった。二十二年(1842)、広州将軍となり、まもなく奕経が浙江で敗れたため、杭州将軍となった。伊里布とともに全権表となり、南京条約の締結交渉にあたった。両江総督に任ぜられた。翌年、欽差大臣となり、広東で通商章程を談判し、虎門で中英五口通商章程を締結した。二十四年(1844)、米国と望厦条約を、仏国と黄埔条約を結んだ。二十八年(1848)、文淵閣大学士に任ぜられた。三十年(1850)、咸豊帝が即位すると、罷免された。咸豊八年(1858)、桂良らとともに天津におもむいて、英仏連合軍と交渉した。まもなく勝手に北京に帰ったため、罪を得て死を賜った。
邵懿辰(1810~1861)
  字は位西、浙江省仁和の人。道光年間に郷試に及第した。道光二十一年(1841)、内閣中書に任ぜられた。起居注主事に累進し、刑部員外郎などをつとめた。咸豊十年(1860)、浙江巡撫王有齢に従って杭州に入り、太平天国軍と戦った。翌年、城が陥落して殺された。今文経学者として、儒の経典注釈に通じた。『礼経通論』、『尚書通義』、『孝経通論』。
胡林翼(1812~1861)
  字は貺生、号は潤芝。湖南省益陽の人。道光年間に進士に及第した。翰林院庶吉士となり、翰林院編修に任ぜられた。道光二十八年(1848)、貴州安順・鎮遠の知府を歴任し、苗族と李発の乱を鎮圧した。咸豊年(1851)、黎平の知府となり、団練を組織して域内の農民叛乱の鎮圧にあたった。湖北・湖南で太平天国軍に抗して転戦した。五年(1855)、湖北布政使に任ぜられた。湘軍と合流して陽・口を攻めたが、失敗した。翌年、武昌を攻め落とし、湖北巡撫に任ぜられた。七年(1857)、廬州に援兵におもむいた。翌年、九江を落とし、黄州にうつって曾国藩とともに安徽を攻略した。十年(1860)、太湖に進軍した。翌年、武昌救援に戻ったところ、病にたおれ、喀血して死んだ。『胡文忠公遺集』。
粛順(1816~1861)
  愛覚羅氏。字は雨亭。満洲鑲藍旗の出身。鄭親王端華の弟にあたる。道光十六年(1836)、三等輔国将軍に任ぜられた。御前大臣・理藩院尚書などを歴任し、戸部尚書・協弁大学士・侍内大臣となった。厳刑峻法の統治を主張し、咸豊朝の朝政を主導した。曾国藩・胡林翼・左宗棠らを重用し、太平天国の乱の鎮圧にあたらせた。アロー戦争中にしかけられたロシアの領土要求をしりぞけた。咸豊十年(1860)、咸豊帝に従って熱河に逃れた。翌年、辛酉政変で西太后や奕訢らに権力を奪われ、処刑された。
黄式三(1789~1862)
  字は薇香。浙江省定海の人。群経に通じ、とくに三礼に長じた。『論語後案』、『詩叢説』、『史説』。
何秋濤(1824~1862)
  字は愿船。福建省光沢の人。道光年間に進士に及第した。刑部主事となり、のちに員外郎となった。保定の蓮池書院で講義した。モンゴル・疆・東北の地誌研究にあたり、『北徼匯編』を撰した。『王会篇箋釈』、『校正聖武親征録』、『篆隷源流』。
張祥河(1785~1862)
  もとの名は公璠。字は卿、号は鶴在。江蘇省婁県の人。張照の従孫にあたる。嘉慶二十五年(1820)、進士に及第した。内閣尚書をはじめとして、戸部主事・戸部郎中・山東督糧道・河南按察使・広西布政使・陝西巡撫などを歴任した。文事にすぐれ、治は安静を尊び、民を煩わしめなかったという。咸豊八年(1858)、工部尚書に上った。十一年(1861)に致仕し、翌年に没した。画は山水は文徴に私淑し、花卉は徐渭・淳を追ったという。また名蹟を多く収蔵した。『四銅鼓斎論画集刻』、『小重山房集』。
ウォード(1828~1862)
  名はフレデリック・タウンゼント。名は華爾。アメリカの人。若いころから各国を流寓した。1859年、船員としてサンフランシスコ・上海間の就航船の一等航海士となった。1860年、揚坊らの委嘱により外国人水夫の傭兵隊を率いて、太平天国軍と戦った。1862年、英仏軍と協力して功を立て、朝より常勝軍の名を受けた。のちに寧波の争奪戦で戦死した。
桂良(1785~1862)
  瓜爾佳氏。字は燕山。満洲正紅旗の出身。玉徳の子。捐納によって官途につき、道光十四年(1834)に河南巡撫に任ぜられた。十九年(1839)に湖広総督となり、まもなく雲貴総督に転じた。咸豊二年(1852)に兵部尚書となり、翌年に太平天国の北伐軍が直隷に迫ると、保定に鎮して防御にあたった。直隷総督となった。七年(1857)に刑部尚書となった。翌年、英仏連合軍が大沽砲台を占拠すると、花沙納とともに欽差大臣となって交渉にあたり、英仏露米との間にあいついで天津条約を締結した。のち上海で米英仏との間に通商章程を結んだ。十年(1860)には、英仏軍が天津を再占領すると、講和を議するためおもむいたが、協議が成らなかった。英仏軍が北京に侵入すると、奕訢が英仏露との間の北京条約を締結するのを助けた。翌年、総理各国事務衙門が設立されると、奕訢を助けて各国との折衝にあたった。のちに軍機大臣に上った。
石達開(1831~1863)
  広西省貴県の人。拝上帝会に入会し、洪秀全の田村の蜂起に参加した。永安で太平天国が成立すると、翼王を称し、五王のひとりとなった。各地で転戦して、曾国藩はじめ軍を苦しめた。楊秀が韋昌輝に粛されると、天京(南京)に入った。独裁を狙った韋昌輝に自分の一族を殺され、激しく対立した。韋昌輝の死後、洪秀全に猜疑を受け、その親族重用に失望して天京を去った。貴州や雲南で転戦したのち、四川に入ろうとして重囲に陥って、軍に降伏した。成都で処刑された。『石達開自叙』。
洪秀全(1814~1864)
  本名は洪仁坤。広東省花県の人。郷試に幾度も失敗。道光二十四年(1844)、キリスト教に触れ、上帝の啓示を受けたと称して、拝上帝会を創始した。道光三十年(1851)、広西省桂県田村で蜂起した(太平天国の乱)。咸豊三年(1853)には南京を攻略して、天京と改称し、都を置いた。天王と称した。国号は太平天国。天朝田畝制度を公布した。咸豊六年(1856)には韋昌輝、石達開らに命じて、東王・楊秀を殺害した。内訌によって太平天国は弱体化。英米の朝への加担によって、天京への包囲が強まり、同治三年(1864)に孤独のうちに病死した。従来は自殺したとされていたが、曾国藩の流布した虚説であるらしい。『原道救世訓』。
李秀成(1823~1864)
  広西省藤県の人。貧農の出身で、二十六歳のとき一家をあげて拝上帝会に入会した。洪秀全の田村の蜂起に参加し、各地を転戦して功績を重ねた。咸豊三年(1853)、太平天国の都を天京(南京)と定めると、右四軍帥に任ぜられた。六年(1856)、副丞相となった。八年(1858)、江南大営の包囲から天京を救い、翌年には忠王に封ぜられた。十年(1860)には再び江南大営を破り、翌年には安慶の囲みを解いた。同治三年(1864)、洪秀全の自殺と天京陥落に立ち会った。幼天王を逃して山中に潜伏しているところを捕らえられ、曾国藩のもとに送られて長大な供述書を記したのち、南京で斬られた。
任熊(1820~1864)
  字は渭長、号は湘浦。浙江省蕭山の人。三十歳のとき、蘇州に移り住んだ。画をよくし、とくに人物画にすぐれた。四任のひとり。「列仙酒牌」。
センゲリンチン(1811~1865)
  僧格林沁。博爾済吉特氏。モンゴルのコルチン部左翼の出身。道光五年(1825)、科爾沁郡王の爵位を継いだ。十四年(1834)、御前大臣・侍内大臣・都統に任ぜられた。咸豊三年(1853)、参賛大臣となり、太平天国の北伐軍に対して、兵を率いて防戦した。七年(1857)、英仏軍が天津海口を犯すと、欽差大臣となって軍務を統括した。九年(1859)、英仏軍が大沽を攻めると、軍を率いて防御にあたり、敵船十数隻を沈めた。翌年、英仏軍が北塘より上陸し、大沽砲台を占拠すると、軍を通州に退いたが、八里橋で敗れた。このため爵位と役職を奪われた。北京条約締結後、郡王の爵位を回復した。長槍会の乱、白蓮教徒の乱、劉徳培の乱、文賢教の乱などの鎮圧に奔走した。同治年(1862)、豫の軍務を統括するよう命じられた。四年(1865)、捻党討伐で戦死した。
立(1809~1869)
  字は卓人。江蘇省句陽の人。凌曙に師事し、公羊伝や説文の学問を学んだ。道光年間に進士に及第した。翰林院庶吉士に任ぜられ、刑部主事となり、郎中に上った。雲南曲靖知府に任ぜられたが、任地に到着せず、東帰した。『公羊義疏』、『白虎通疏証』、『爾雅旧注』、『句渓雑著』。
喬樅(1809~1869)
  字は朴園。福建省侯官の人。寿祺の子。父より今文経学を伝授された。道光年間に郷試に及第した。官は撫州知府となった。『今文尚書経説考』、『礼堂経説』、『欧陽侯経説考』、『詩経四家異文考』。
鄒伯奇(1819~1869)
  字は特夫。広東省南海の人。天文・数学・物理・地理などの学問や儀器製造にすぐれた。計算尺・観象儀・渾天儀・時鍾・象限儀などの七政儀を製造した。また欧州の銀版写真法の発(1839)と同じころ、一種の写真機を発したとされる。ほか『墨経』や『夢渓筆談』の中に光学について論述している箇所を見出し、眼鏡や望遠鏡・顕微鏡などの光学機器の基本原理をまとめた。『鄒征君遺書』。
景詩(1824~?)
  山東省堂色の人。塩商人の子。咸豊十年(1860)、郷里の抗糧紛争に参加した。翌年、西の白蓮教の叛乱に参加し、部衆を黒旗軍と称して河北・山東を転戦した。のちにの欽差大臣勝保の招撫を受けて、捻軍や回民の叛乱鎮圧にあたった。勝保が処刑されると、かれも排斥を受けたため、同治二年(1863)に軍を離脱して山東に帰り、再び反の旗を掲げた。まもなくセンゲリンチンの軍に敗れて、その終わるところは知られない。一説に四年(1865)、センゲリンチンを戦場でたおしたという。また一説に十年(1871)、安徽巡撫英翰に捕らえられて、殺されたという。
曾国藩(1811~1872)
  字は伯函、号は滌正。湖南省湘郷の人。道光十八年(1838)、進士に及第した。礼部侍郎に累進した。太平天国の乱が起こると、湘軍と称する義勇軍を組織してその鎮定にあたった。咸豊四年(1854)には武を制圧し、八年(1858)には九江を奪回した。十年(1860)、両江総督に上った。太平天国が滅ぶと、戦後復興に尽力。同治七年(1868)、直隷総督となった。洋務運動を推進して、その門下からは李鴻章らを輩出した。『求闕斎文集』。
何紹基(1799~1873)
  字は子貞、号は東洲。湖南省道州の人。何凌の子。道光十六年(1836)、進士に及第した。翰林院庶吉子となった。翰林院編修・貴州省郷試副考官・四川学政などを歴任した。咸豊五年(1855)、時務十二条に対する上申書を奏上してしりぞけられ、免官となった。のちに済南のラク源書院の主講や長沙の城南書院の主講をつとめた。晩年は揮毫しながら、各地を遊歴した。また『十三経注疏』の校刊を指導した。蘇州で没した。説文の学に通じ、文の収集・研究に尽力した。また詩文にたくみで、とくに書にすぐれた。『東洲草堂文鈔』。
馮桂芬(1809~1874)
  字は林一、号は景亭。江蘇省県の人。道光二十年(1840)、進士に及第した。はじめ翰林院編修に任ぜられた。咸豊年(1851)、父の喪に服すため帰郷したが、おりしも太平天国軍が蘇州に迫ったため、団練を組織して対抗した。六年(1856)、右春坊右中允となった。十年(1860)、蘇州が陥落すると上海に逃れ、在留外国人や曾国藩らと連絡を取って、上海防に奔走した。同治二年(1863)、蘇州が回復されると、蘇州・揚州などで講学し、また李鴻章の下で洋務運動の推進に尽力した。『校邠廬抗議』、『顕志堂稿』。
丁晏(1794~1876)
  字は倹卿、号は石亭居士。道光年間に郷試に及第した。捻軍の乱の鎮圧に参加。鄭玄の学を好み、『詩箋』『礼注』を研鑽し、『通鑑』に習熟した。経籍の校定に多くの功績を残した。『毛鄭詩釈』、『三礼釈注』。
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