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白蓮教徒の乱

白蓮教徒の乱(読み)びゃくれんきょうとのらん
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

中国、広義には(げん)、(みん)、(しん)3に起こった白蓮教徒の乱の総称であるが、狭義には嘉慶(かけい)期の大反乱(1796~1805)をさす。の白蓮教は、現実の郷紳地主を頂点とする地縁的な階級社会を非難し、相互扶助と平等の社会を目標とした。また儒教倫理に基づく家父長権や君主権を否定したため、異端宗教として厳しく弾圧された。反乱は乾隆(けんりゅう)後期の和(わしん)に表される悪政に挑発されて始まった(官逼民反(かんひつみんぱん))。首領として劉之協(りゅうしきょう)、王氏(せいおうし)、姚之富(ようしふ)、徐添徳(じょてんとく)、冉添(ぜんてんげん)らがあげられるが、全体を象徴する人物はおらず、10年間に輩出した首領は朝の記録では142名を数えた。反乱の舞台は、湖北、四川(しせん)、陝西(せんせい)3省が境を接する山岳地帯であった。ここは清初以来、華中、華南の人口稠密(ちゅうみつ)地域からの入植者が多く、血縁的結合が弱く、雑穀生産や木材、鉱山業でにぎわっていた。彼らは朝の行政支配(保甲制と徴税網)の手が延びると、それに反発して同時多発性の蜂起(ほうき)を敢行した。戦闘は山岳ゲリラ戦の形態をとり、城攻めを特徴とした太平天国軍とは対照的であった。朝が強大な軍事力を投入しても鎮圧に長年月を要したのは、おもに朝正規軍の堕落と怯懦(きょうだ)に起因し、逆に教軍の規律が厳粛で、農民大衆からつねに物心両面の援助を受けたからである。朝はこの反乱を境に慢性的な財政難に陥り、衰勢へと向かった。[安野省三]
『安野省三著「の農民反乱」(『岩波講座 世界歴史12 中世6』所収・1971・岩波書店)』
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旺文社世界史事典 三訂版の解説
中国の宗教的秘密結社である白蓮教を母体とした反乱
白蓮教徒は末に紅巾の乱を起こしていたが,その後も組織は生き残り,には四川・湖北・陝西などの省境に流入した流民らに広まった。その後,嘉慶時の弾圧に抗して1796年に蜂起し,朝の正規軍を撃破したが,地方の義勇軍である団練によって1804年には鎮圧された。これにより朝の軍事的弱体化が露呈するとともに,財政難が深刻化した。
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