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高昌

[高昌]
沮渠無諱-沮渠安周-闞伯周-闞義成-闞首帰-張孟-馬儒-麹嘉-麹光-麹堅-麹玄喜-?-麹宝茂-麹乾固-麹伯雅-麹文泰-麹智盛
沮渠無諱(?~444)
  河西王⇒
沮渠安周(?~460)
  河西王⇒
闞伯周(?~475)
  大四年(460)、柔然が沮渠氏を滅ぼすと、柔然により高昌王に立てられた。
闞義成(?~?)
  闞伯周の子。闞伯周が亡くなると、高昌王として立った。従兄の闞首帰に殺された。
闞首帰(?~481)
  闞義成の従兄にあたる。闞義成を殺して自立した。高車王阿至羅に攻められ、殺された。
張孟(?~481)
  敦煌郡の人。高車王阿至羅によって高昌王に擁立された。のちに国人によって殺された。
馬儒(?~497)
  太和五年(481)、張孟が殺されると、国人により高昌王として擁立された。鞏顧礼と麹嘉を左右長史に任じた。王体玄を北魏に遣使して、国を挙げて内地に遷りたいと請願した。北魏の孝文帝は韓安保を派遣して、伊吾の地に馬儒を迎えさせようとした。国人たちは高昌の地に恋着し、東遷を望まず、馬儒を殺して麹嘉を王として迎えた。
麹嘉(?~523)
  字は霊鳳。城郡楡中の人。馬儒の下で右長史をつとめた。太和二十一年(497)、国人たちが馬儒を殺すと、高昌王として擁立された。柔然に臣事し、鞏顧礼・鞏義舒や韓安保を追放した。柔然の伏図が高車に殺されると、高車に臣事した。焉耆が無主の地となると、次男を送り込んで焉耆王として立てさせた。しばしば北魏に朝貢して、内地に遷りたいむね請願した。延昌年間、北魏により持節・平西将軍・瓜州刺史に任ぜられ、泰臨県開国伯に封ぜられた。五経や諸史を北魏に借り、国子助教劉燮を招請して博士とした。
麹光(?~531)
  麹嘉の子。麹嘉が亡くなると、高昌王として立った。
麹堅(?~548)
  麹光の子。麹光が亡くなると、高昌王として立った。章和と建した。北魏に朝貢して、平西将軍・瓜州刺史に任ぜられ、泰臨県伯に封ぜられた。永煕年間に郡公に爵位を進めた。
麹玄喜(?~550?)
  麹堅の子。麹堅が亡くなると、高昌王として立った。永平と改した。
麹宝茂(?~561)
  はじめ田地公に封ぜられ、のちに高昌王として立った。建昌と改した。しばしば北周に朝貢した。
麹乾固(?~601)
  麹宝茂が亡くなると、高昌王として立った。延昌と改した。
麹伯雅(?~619)
  麹乾固が亡くなると、高昌王として立った。延和と改した。に入朝し、左光禄大夫・車師太守に任ぜられ、弁国公に封ぜられた。煬帝の高句麗遠征に従い、華陽公主を妻に迎えた。
麹文泰(?~640)
  麹伯雅の子。延和二十二年(623)、位を継いだ。貞観四年(630)、妻の宇文氏とともにに入朝し、太宗は宇文氏に李姓を賜い、常楽公主に封じた。十三年(639)、乙毗咄陸可汗が西突厥を統一すると、阿史那矩を派遣して、領高昌・冠軍大将軍に任じて高昌を監督させた。このため麹文泰はに朝貢しなくなった。西突厥高昌が連合して伊吾を攻め、焉耆を侵して、西域の道は途絶した。太宗は詔を下して背信を責め、のころに高昌に逃げ込んだ中原の民を返還するよう求め、阿史那矩を召したが、みな応じなかった。太宗は侯君集を交河道大総管に任じて、軍を率いて高昌を討たせた。十四年(640)、軍が磧口に迫ったが、西突厥の援軍は来ず、麹文泰は憂憤をかかえつつ病没した。
麹智盛(?~?)
  麹文泰の子。麹文泰が亡くなると、高昌王として立った。侯君集率いる軍が来攻し、田地城を抜かれ、都城が包囲された。やむなく麹智盛は降伏して、高昌国は滅んだ。内地にうつされ、左武将軍に任ぜられ、城郡公に封ぜられた。

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