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西秦

十六国(304~439)]
十六国前趙,後趙,成漢,前涼,前燕,前秦,後秦,後涼,後燕,西秦,南燕,南涼,北涼,西涼,,北燕
十六国以外(西燕,仇池,,冉魏,翟魏,段部,宇文部,
西秦(385~431)]
烈祖(乞伏国仁)-高祖(乞伏乾帰)-太祖(乞伏熾磐)-後主(乞伏慕末)
乞伏国仁(?~388)
  西秦の初烈祖宣烈王。在位385~388。乞伏司繁の子。隴西郡の人。鮮卑族乞伏部の出身。乞伏部の首長の家の生まれで、父のから前秦に服属していた。父の跡を継いで南単于・鎮西将軍となり、勇士川に鎮した。淮南の役では前将軍に任ぜられ、前秦の先鋒をつとめた。淝水の戦いの後、前秦が衰えると、大都督・大将軍・大単于・領河二州牧を自称し、建義と建した。勇士城を都とし、十二郡を置いた。前秦の苻登により苑川王に封ぜられた。
乞伏乾帰(?~412)
  西秦の二高祖武王。在位388~412。乞伏国仁の弟。建義四年(388)、乞伏国仁が没すると、群臣に推されて大単于・河南王を称した。苑川より城に遷都し、前秦の苻登により城王に、次いで河南王、王に封ぜられた。太初七年(394)、隴西の氐王楊定が来攻したので、将を遣わしてこれを討ち、隴西・巴西の地をことごとく領有した。はじめて王と称し、苑川に遷都した。十三年(400)、後秦の姚興に敗れて南涼に投じた。のち後秦に奔り、河州刺史・帰義侯となった。後秦の弘始十一年(409)、征戦の機に苑川に逃げ帰り、度堅山に遷都して、再び王を称した。城を奪回し、再び苑川を都とした。のち再び後秦に称藩した。更始四年(412)、譚郊に遷都したところ、甥の乞伏公府に殺された。
乞伏公府(?~412)
  乞伏国仁の子。父が没したとき、まだ幼かったため叔父の乞伏乾帰が立てられた。更始四年(412)、乞伏乾帰とその諸子十余人を殺し、に奔った。乞伏乾帰の子の乞伏熾磐に譚郊で殺された。
乞伏熾磐(?~428)
  西秦の三太祖文昭王。在位412~428。乞伏乾帰の長男。はじめ尚書令を領した。太初十三年(400)、南涼へ人質に出された。のち逃亡して後秦の姚興に降り、興太守となった。更始年(409)、西秦が再び自立すると、太子として立てられ、都督中外諸軍事・録尚書事となった。のち西秦後秦に称藩すると、平昌公に封ぜられた。四年(412)、父乾帰が乞伏公府に殺されると、乞伏公府を誅殺し、枹罕を都として河南王を自称した。永康三年(414)、南涼の禿髪ジョク※1檀が西征して乙弗鮮卑を攻めている機に乗じて、楽都を攻め取り、南涼を滅ぼした。のち王と改称した。吐谷渾を連破し、羌胡の諸部の多くを帰順させた。
乞伏慕末(?~431)
  字は安石跋。西秦の四後主。在位428~431。乞伏熾磐の次男。幼いころから学問を好み、文才があった。建弘年(420)、太子に立てられ、撫軍大将軍・都督中外諸軍事となった。九年(428)、王位を継いだ。酷刑を濫用し、部民の離反が相次いだ。永弘三年(430)、の圧迫を受けて北魏に附こうとしたが、妨げられて南安に退いた。翌年、南安で軍に囲まれて降り、西秦は滅んだ。上邽に送られて赫連定に殺された。

[註]
1.ジョク=ジョク

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