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[春秋(前722~前481/前453/前403)]
[(前1027?~前478)]

[南北朝(386~589)]
北朝北魏,東魏,西魏,北斉,北周),南朝,,,),突厥,高昌
[(557~589)]
武帝(覇先)-文帝(蒨)-廃帝(伯宗)-宣帝(頊)-後主(叔宝)
覇先(503~559)
  の武帝,高祖⇒。
僧真諦(499~569)
  波羅末陀。西インドの優禅尼国の人。の武帝に招致されて出国し、中大同年(546)には南海郡にいたり、太二年(548)には建康にいたった。侯景の乱を避けて、華北の各地を流浪しながら訳経に従事した。三度帰国を志したが果たせなかった。光大二年(568)には世を厭って自殺を図ったが、弟子に止められて失敗した。翌年に病没した。摂論宗の開祖とされる。六十四部二百七十八巻の訳経を行い、とくに『経』『摂大乗論』『唯識論』は重要とされる。
陰鏗(?~?)
  字は子堅。武威郡姑臧の人。はじめの湘東王の法曹参軍となった。の天嘉年間に、始興王の中録事参軍となり、のちに陵太守・員外散騎常侍に上った。詩人として何遜と並び称された。『陰常侍詩集』。
僧慧思(515~577)
  俗姓は李。南豫州武津の人。十五歳のとき、出家して法華と禅を学んだ。光大二年(568)、南岳に入り、の宣帝(頊)より大禅師の称号をえた。天台宗の第二祖とされる。『立誓愿文』、『法華経安楽行義』。
徹(512~578)
  字は通昭。郡の人。はじめの東宮直後をつとめた。の太建四年(572)、侍中に上った。翌年、十余万の軍を率いて北伐し、郡・寿春を陥し、北斉の将軍の王琳を捕殺し、淮南の地をことごとく手中とした。功績により、車騎大将軍・豫州刺史となった。七年(575)、北斉の軍を呂において大いに破った。そのため司空に上った。九年(577)、北周北斉を滅ぼすと、徐・兗の二州を北周と争った。翌年、北周の将軍・王軌に捕らえられ、長安で没した。
顧野王(519~581)
  字は希馮。県の人。顧烜の子。幼いころから学問を好み、五経を読み、文を作った。父に従って建安へ行き、『建安地記』を撰した。経史や天文地理や占卜に通じた。大同四年(538)、の太学博士となった。のちに宣城王のもとで賓客となり、王褒とともに二絶と称された。侯景の乱が起こると、郷党を集めて義軍を率いたが、都が陥落すると会稽に逃れ、東陽に遷った。が起こると国子博士となり、のちに知史事・東宮通事舎人を兼ねた。黄門侍郎・光禄卿・知五礼事にまで上った。『玉篇』、『輿地志』。
徐陵(507~583)
  字は孝穆。東海郡郯県の人。徐擒の子。の簡文帝に仕えて尚書左丞に上った。に入って、文帝のときに御史中丞に任ぜられ、のちに吏部尚書・国子祭酒などをつとめた。宣帝の太建四年(572)、尚書左僕射となった。翌年、北伐して北斉を攻めたとき、淮南の数十州を攻略した。後主のとき、左光禄大夫・太子少傅に上った。文章にすぐれ、庾信と並び称された。老荘や仏教に通じ、また艶麗な詩を残した。『玉台詠』。
施文慶(?~589)
  興郡烏程の人。の宣帝のとき、皇太子叔宝に仕えて抜擢され、主書となった。叔宝が即位すると、中書舎人に進み、沈客卿とともに枢機に参与した。軍の南下を食い止めることができず、建康が陥落し、が滅ぶと殺された。
江総(519~594)
  字は総持。済陽郡考城の人。十八歳のとき、の武陵王の法曹参軍をつとめた。に仕えて尚書僕射に上ったが、侯景の乱が起こると会稽に避難し、流泊の生活を送った。の天嘉四年(563)、文帝に中書侍郎として登用された。後主のに尚書令に上った。後主にその詩才を愛されて、日夜宮廷で宴楽し、「狎客」(たいこもち)と称された。の滅亡後、に仕えて上開府の官を与えられた。江都で没した。『江令君集』。
洗夫人(512?~602?)
  高涼郡の人。俚族の出身。首長の家柄に生まれた。の大同初年、高涼太守の馮宝にとついだ。末、高州の李遷仕の乱を平定した。が建つと、子の馮僕を派遣して丹陽に朝見させた。太建二年(570)、広州刺史欧陽紇がそむくと、兵を発して境ではばみ、諸首長を率いて車騎将軍章昭達を迎えた。欧陽紇が敗れると、功により石龍太夫人に封ぜられた。が滅ぶと、嶺南の人々に聖母とたてまつられた。軍とともに番禺の王仲宣を破り、使の裴矩を迎えて帰順した。文帝(楊堅)により譙国夫人に冊された。仁寿初年に没した。
叔宝(553~604)
の後主⇒。
蕭摩訶(532~604)
  字は胤。蘭陵の人。蕭諒の子。幼いころ父と死別し、蔡路養に養われた。侯景の乱が起こると、養父とともに出陣して、緒戦で十人余の敵を討ち取った。侯安都の下で軍人となり、鍾山で北斉と戦ったとき、安都に「卿の驍勇は有名なれど、千聞は一見に如かず」と言わしめた。巴山太守に上り、徹の下で北伐に従い、毅将軍の称号をえた。その後も徹の下で転戦し、武毅将軍・右将軍と累進した。また煕太守・譙州刺史を歴任した。徹が没すると、の軍事の第一人者となり、たびたび北伐したが、功なくして軍を還した。後主のとき、始興王の乱を鎮定して、散騎常侍・車騎大将軍となり、次いで驃騎大将軍・左光禄大夫にまで上った。の南下に抗したが、空しくもの将軍・賀若弼に捕らわれた。が滅亡すると、開府儀同三司の位を受け、に仕えた。王・楊諒が叛乱を起こしたのに従ったため、楊素の軍に捕らわれ、処刑された。
↓次の時
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