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嘉慶道光期

(1636~1912)]
後金,清初,康熙期,雍正期,乾隆期,嘉慶道光期,咸豊同治期,光緒宣統期),チベット,ジュンガル部
太祖(ヌルハチ)-太宗(ホンタイジ)-順治帝(福臨)-康熙帝(玄燁)-雍正帝(胤禛)-乾隆帝(弘暦)-嘉慶帝(顒琰)-道光帝(旻寧)-咸豊帝(奕詝)-同治帝(載淳)-光緒帝(載湉)-宣統帝(溥儀)
章学誠(1738~1801)
  字は実斎、号は少巌。浙江省紹興の人。郷試にたびたび失敗し、乾隆四十三年(1778)四十一歳にしてようやく進士に及第したが、官途につけず各地の名士を頼って流浪した。当時隆盛をきわめていた考証学を批判し、六経皆史の説を唱えた。生涯不遇をきわめたが、後世になってその独特の歴史哲学が高い評価を受けた。『文史通義』、『校讐通義』。
張恵言(1761~1802)
  字は皋聞、号は茗柯。江蘇省武進の人。嘉慶四年(1799)、進士に及第した。翰林院編修となる。六経のうち、とくに易・礼に精通した。『易緯略義』、『読儀礼記』。
王文治(1730~1802)
  字は禹卿、号は梵楼。江蘇省丹徒の人。乾隆二十五年(1760)、進士に及第した。翰林院編修となる。会試同考官・侍読・雲南臨安知府などを歴任した。音律に詳しく、詩をよくした。また伝奇『蝶帰楼』『曲諧』の二作はかれの作といわれる。『梵楼詩集』。
黄易(1749~1802)
  字は大易、号は小松。浙江省仁和の人。黄樹穀の子。父の死後、生活に困窮したが、山東の諸県の属吏を歴任し、山東兗州府運河同知にいたった。隷書にたくみで、山水画をよくし、石文字の蒐集を好んだ。銭大昕・王昶・孫星衍らと交遊した。西冷四大家のひとり。「訪碑図」、『小蓬莱閣石文字』。
奚岡(1746~1803)
  字は純章、号は鉄生。浙江省銭塘の人。生涯、官に仕えなかった。隷書をよくし、詩詞にすぐれ、画は山水をもっぱらにして瀟洒自得を宗とした。西冷四大家のひとり。『冬花庵燼余稿』。
銭大昕(1728~1804)
  字は暁徴、号は竹汀。江蘇省嘉定の人。乾隆十九年(1754)、進士に及第した。はじめ翰林院庶吉子となった。侍読・侍講学士・詹事府少詹事・広東学政などを歴任した。官にいる間に『熱河志』『続文献通考』『音韻述微』『大清一統志』などの編纂に加わった。また郷試や会試の考官をつとめた。四十八歳のとき、父の死の報によって帰郷し、喪がけた後はふたたび仕えず、南京の鍾山書院の院長に招かれて講学した。晩年は紫陽書院で講学した。理学に反対し、経世済用の学問を重んじた。経・史・文字・音韻・訓詁・天文・地理・氏族・石の学に通じた。『二十二史考異』、『潜研堂文集』、『十駕斎養録』。
劉墉(1720~1805)
  字は崇知、号は石庵。山東省諸城の人。劉統勛の子。乾隆年間に進士に及第した。乾隆二十七年(1762)、太原知府に任ぜられた。江寧知府・陝西按察使を経て、内閣学士となった。湖南巡撫・工部尚書・吏部尚書などをつとめた。嘉慶二年(1797)、体仁閣大学士に上った。北京で没した。書法で名を知られた。『石庵詩集』。
紀昀(1724~1805)
  字は暁嵐、号は石雲。諡は文達。直隸省献県の人。乾隆十九年(1754)、進士に及第した。はじめ翰林院庶吉子となった。侍読学士・翰林院編修などを歴任した。のちに罪をえて、ウルムチに流された。三十五年(1770)に召還された。三十八年(1773)、四庫全書館総纂に任ぜられ、『四庫全書』編纂の総指揮をとった。また『簡目録』の撰にあたった。のち左都御史に遷った。嘉慶十年(1805)、協辧大学士・太子太保に上った。『閲微草堂筆記』。
桂馥(1736~1805)
  字は東奔、号は未谷。山東省曲阜の人。乾隆五十五年(1790)、進士に及第した。雲南永平知県をつとめた。群書に博通して、とくに石学を究めた。『説文解字』を研究して『説文義征』を撰した。『説文』研究において段玉裁とともに知られ、桂段と併称された。『札朴』、『晩学集』。
鄧石如(1743~1805)
  字は頑伯、号は完白山人。安徽省懐寧の人。鄧一枝の子。篆刻や書写をしながら食いつなぎ、各地の名山名水を訪ね歩いた。三の刻文やの瓦当文や篆文を各地で手写して学び、古来の書法を身につけた。その書を榜や張恵言に見出され、上京して劉墉や陸錫熊に「千数百年この作なし」と賞された。翁方綱の恨みを買ったため、北京を去った。畢沅のもとに一時身を寄せたが、のちに帰郷した。
銭維喬(1739~1806)
  字は樹参、号は曙川。江蘇省武進の人。銭維城の弟にあたる。『竹書未定稿』。
李長庚(1751~1807)
  福建省同安の人。乾隆三十六年(1771)、進士に及第した。四十六年(1781)、福建壇鎮総兵となり、安南の阮氏の乱を鎮圧して名を挙げた。嘉慶二年(1797)以降、海賊の首領・蔡牽と戦いながら、累進した。十二年(1807)、浙江提督として、広東潮州沖の海上で、蔡牽を撃破したが、交戦中に戦死した。
洪亮吉(1746~1809)
  字は稚存、号は北江。江蘇省陽湖の人。はじめ安徽学政朱筠のもとで文章を校正し、陝西巡撫畢沅の幕下に入って古書を校勘した。乾隆五十五年(1790)、進士に及第した。嘉慶四年(1799)、上書して朝政を論じ、嘉慶帝の怒りに触れて、イリに流された。年許されたため、更正居士と自ら号し不殺の恩を表した。経史に通じ、とくに地名の比定や音韻の訓詁にすぐれた。詩文にたくみで、駢文をよくした。また鬼神の存在を否定した議論や人口の増加が生産の増加を上回っていることを指摘した議論でも知られた。『更正斎詩文甲乙集』、『伊犂日記』、『西夏国志』。
趙翼(1727~1814)
  字は耘松、号は甌北。江蘇省陽湖の人。二十四歳のとき上京して、東閣大学士劉統勛のもとで史書編纂に参加した。乾隆二十六年(1761)、進士に及第した。翰林院編修に任ぜられ、『通鑑輯覧』の編纂に参与した。広西鎮安知府・貴西兵備道などを歴任した。中書舎人として乾隆帝に扈従し、しばしば塞外に出て文章を起草した。壮年にして致仕し、安定書院で講義しながら、著述に専念した。詩文にすぐれ、袁枚らとならび称された。「江左の三大家」のひとり。また歴史考証を得意とし、分散した史料を比較総合し、旧史の正誤を判定して、評論を加えた。朝考証学の泰斗として銭大昕・王鳴盛らと併称された。『廿二史箚記』が表作。『陔余叢考』、『甌北詩話』。
程瑤田(1725~1814)
  字は易疇、号は葺荷。安徽省歙県の人。乾隆年間に郷試に及第した。若くして戴震・榜らとともに江永に学んだ。『通芸録』。
張問陶(1764~1814)
  字は仲冶、号は船山。四川省遂寧の人。乾隆五十五年(1790)、進士に及第した。翰林院検討・都察院御史などを歴任した後、山東省莱州府の知府となったが、上官との折り合いが悪く、辞職して江南を遊歴し、蘇州で没した。
段玉裁(1735~1815)
  字は若膺、号は茂堂。江蘇省壇の人。乾隆二十五年(1760)に郷試に及第し、会試受験のため上京したが、二度の落第を経て断念した。『詩経均譜』『群経均譜』を著して、戴震や銭大昕などから音韻学者として評価された。四川の知県を歴任して退任。故郷に帰って『説文解字注』を書いた。
姚鼐(1731~1815)
  字は姫伝。安徽省桐城の人。乾隆二十八年(1763)、進士に及第した。礼部主事・員外郎・郷試考官・四庫館纂修などを歴任した。刑部郎中に上った。官を辞したのち、揚州梅花書院・安慶敷文書院・歙県紫陽書院などを主宰した。古文をよくし、桐城派の創始者のひとりと目される。『惜抱軒詩文集』、『荘子章義』。
同書(1723~1815)
  字は穎、号は山舟。浙江省銭塘の人。乾隆十七年(1752)、進士を賜った。侍講に上った。『頻羅庵遺集』。
伊秉綬(1754~1815)
  字は組似、号は墨卿。福建省寧化の人。伊朝棟の子。乾隆五十四年(1789)、進士に及第した。刑部主事・員外郎・知広東恵州府などを歴任した。『留草堂詩』、『修正論』。
崔述(1740~1816)
  字は武承、号は東壁。直隸省大名の人。乾隆年間に郷試に及第した。嘉慶初年、福建羅源知県に任ぜられ、上杭知県にうつり、また羅源知県にもどった。のち老病を理由に致仕し、河北を往来しながら、著述に専念した。中国古史の研究で知られ、のちに顧頡剛が高く評価した。『考信録』、『知非集』。
鱣(1753~1817)
  字は仲魚、号は簡荘。浙江省海寧の人。嘉慶年間に郷試に及第した。書籍の蒐集を好み、刻本など当時の稀覯本を収蔵した。晩年には紫微山麓に果樹園を営み、向山閣を建て、蔵書十万巻をおさめた。古籍の校勘を行って、後人の改竄を正した。『経籍跋文』、『続書』、『論語古訓』、『恒言広証』。
惲敬(1757~1817)
  字は子居、号は簡堂。江蘇省武進の人。富陽・江山の知県を歴任し、南昌府同知に上った。『大雲山房文謝』、『歴冠服図説』。
孫星衍(1753~1818)
  字は伯淵、号は淵如。江蘇省陽湖の人。若いころから文名があり、洪亮吉・黄景仁らと並び称された。乾隆五十二年(1787)、進士に及第した。刑部主事・郎中・山東督糧道・権布政使などを歴任した。官を辞したのち、揚州安定書院・紹興戢山書院で講じた。『平津館叢書』『岱南閣叢書』を編纂した。詩にすぐれ、袁枚はかれを天下の奇才と賞讃した。『尚書今古文注疏』、『周易集解』、『倉頡篇』など。
翁方綱(1733~1818)
  字は正三、号は覃渓。直隸省大興の人。乾隆年間に進士に及第した。江西・湖北・江南・順天の郷試をつかさどり、広東・江西・山東の学政を歴任した。経術の研鑽にすぐれ、『四庫全書』の編纂に参与した。書画にもすぐれ、四大書法家にも数えられる。詩は王士禎を尊崇して、肌理説を唱えた。また石学にも長じた。『両石記』、『石洲詩話』。
董誥(1740~1818)
  字は雅倫、号は蔗林。浙江省富陽の人。董邦達の子。乾隆年間に進士に及第した。家学を継承し、書画にたくみで、乾隆帝に知遇を受けた。乾隆三十六年(1771)、値南書房に入り、内閣学士に累進し、工部侍郎・戸部侍郎を歴任した。『四庫全書』編纂の副総裁をつとめ、また『満洲源流考』を編集した。四十四年(1779)、軍機大臣に抜擢された。五十二年(1787)、戸部尚書に任ぜられた。のちに権臣の和珅による排斥を受けて、国史館副総裁とされ、実録の編纂にあたった。和珅が誅殺されると、軍機処に入った。嘉慶十四年(1809)、上書房総師傅となった。十八年(1813)、天理教の乱の鎮圧のための軍務にあたった。のち病没した。
焦循(1763~1820)
  字は里堂。江蘇省甘泉の人。嘉慶年間に郷試に及第した。経史・暦算・声音・訓詁に精通し、名を知られた。とくに易学に長じた。『易章句』、『易通釈』。
鴻寿(1768~1822)
  字は子恭、号は曼生。浙江省銭塘の人。嘉慶六年(1801)の抜貢。はじめ浙江巡撫阮の下で書記をつとめた。のち江蘇扈陽の知県、河工江防同知などをつとめた。官は江南海防同知に上った。詩文・書画・石に精通した。茶壺の様式を案出し、「曼生壷」と称された。また篆刻に通じ、西泠八家のひとりに数えられた。『種楡山館詩集』。
亮(1736~1822)
  富察氏。満洲鑲黄旗の出身。はじめ書生だったが、履親王允裪のむすめをめとり、多羅額駙となった。乾隆三十年(1765)、イリに鎮して、回部の乱を鎮定。三十四年(1769)、ビルマに遠征。四十一年(1776)、僧格桑の乱を平定。嘉慶年(1796)、貴州・湖南の苗族の乱を鎮定。まもなく湖北の白蓮教の乱の鎮圧にあたった。内乱平定や外征に将軍としてたびたび用いられた。十五年(1810)、協弁大学士に任ぜられ、まもなく武英殿大学士となった。
永瑆(1752~1823)
  字は少庵、号は鏡泉。乾隆帝の十一男。乾隆五十四年(1789)、成親王に封ぜられた。書にたくみで父帝に寵愛された。二王や欧陽の書法を学び、「撥灯法」を考案した。嘉慶年間に裕陵(乾隆帝陵墓)聖徳神功碑の書写をおこなった。嘉慶四年(1799)、軍機処行走に任ぜられ、戸部三庫を総理した。十八年(1813)、林の乱が紫禁城に迫ると、兵を率いてはばんだ。のちに地壇を祀る礼を誤ったために官職を解かれ、封領半減の沙汰を受けて謹慎した。晩年は憂悶のうちに暮らしたという。『听雨屋集』、『詒斎集』。
郝懿行(1757~1825)
  字は恂九、号は蘭皋。山東省棲霞の人。嘉慶四年(1799)、進士に及第した。戸部主事・江南司主事などをつとめた。役人としてうだつがあがらず、誰にもあがらわなかったため、模糊と呼ばれた。一生を学問と著述に打ち込んで、家が傾くのを省みなかったという。とくに『爾雅』に詳しく、声韻訓詁をたずねて『爾雅義疏』を成した。妻の王照円もまた経史に通じ、詩について問答を交わして『詩問』が成った。ふたりは持論が合わず、激しく争論したという。ほか『春秋説略』、『山海経箋疏』、『易説』、『書説』。
黄丕烈(1763~1825)
  字は紹武、号は蕘圃、または復翁。江蘇省県の人。乾隆年間に郷試に及第した。戸部主事となった。書籍の蒐集を好み、本図書百余種を一室に所蔵して、百一纏と名づけた。珍本を得るたびに、題跋を作り、後人が『士礼居蔵書題跋』にまとめた。
劉逢禄(1776~1829)
  字は申受。浙江省の人。荘存与の外孫にあたる。官は礼部主事に上った。公羊学を発展させ、朝公羊学の基礎を築いた。『春秋公羊経何氏釈例』。
改琦(1774~1829)
  字は伯蘊、号は香白。江蘇省松江の人。回族の出身。詩文をよくし、人物画・仏画・山水画にたくみで、とくに女性を描いて知られた。「紅楼夢図咏」は木刻本となって、ときの人が争ってこれを求めた。また「百子図」二十幅を描き、子どもたちを生き生きと描いた。『玉壺山房集』。
凌曙(1775~1829)
  字は暁楼。江蘇省江都の人。『公羊礼疏』、『公羊問答』。
李汝珍(1763~1830)
  字は松石。直隸省大興の人。若いころ海州に住み、凌廷堪に従って学んだ。吏となって、河南県丞に任ぜられた。博学多才で、天文・占卜・篆隷などに通じ、とくに音韻学に優れた。を舞台に敖・林之洋らが海外を遊歴する小説『鏡花縁』は、時弊を痛烈に風刺して評価された。『音鑑』。
江藩(1761~1831)
  字は子屏、号は鄭堂。江蘇省甘泉の人。監生の出身。余蕭客・江声らに師事し、恵棟の学を継承した。群経に通じ、訓詁学を追求した。蔵書は万巻を数えたが、家は食に困るほど貧しかったという。『隷経文』、『江湖載酒詞』。
沈欽韓(1775~1831)
  字は文起、号は小宛。江蘇省県の人。『幼学堂文集』、『両書疏証』。
周中孚(1768~1831)
  字は信之、号は鄭堂。浙江省烏程の人。『読書記』。
郭麐(1767~1831)
  字は詳伯、号は頻迦。江蘇省江の人。家は貧しく、自身の才能をたのんで誇り高く、不遇であった。長江・淮河の間を遊歴し、晩年は嘉善に住んだ。詩・詞・古文を得意とした。『霊芬館詩集』、『樗園消録』。
王念孫(1744~1832)
  字は懐祖、号は石臞。江蘇省高郵の人。乾隆四十年(1775)、進士に及第した。工部主事・陝西道御史・吏科給事中・直隷永定河道・山東運河道などを歴任した。水利に詳しく『河源紀略』などを著した。また戴震に師事して、古音から古義を求めるという、音韻による訓詁学を開いた。『読書雑志』、『広雅疏証』。
顧純(1765~1832)
  字は希翰、号は南雅。江蘇省県の人。嘉慶七年(1802)、進士に及第した。官は通政司副使にまで上った。『南雅詩文鈔』。
王引之(1766~1834)
  字は伯申、号は曼卿。江蘇省高郵の人。王念孫の子。嘉慶四年(1799)、進士に及第した。学政・左副都御史・侍郎などを歴任した。工部尚書にまで上った。音声・訓詁学にすぐれ、『康熙字典』の校正を行った。『経伝釈詞』、『経義述聞』。
モリソン(1782~1834)
  名はロバート。名は馬礼遜。イギリスの人。1798年、長老会に入った。1804年、国外宣教師となるべく、ロンドン宣教会で14カ月の訓練を受けた。嘉慶十二年(1807)、広州にいたった。アモイにうつり、聖書訳に従事した。十四年(1809)、英東インド会社広州商館の通訳となった。二十一年(1816)、アメーストとともに通訳として北京に入った。二十四年(1819)、旧約約聖書の訳を完成させた。マラッカに英華学院を設立。華英字典の編集に従事した。1824年、英国王室学会会員となる。のちに広州で病没した。
寿祺(1771~1834)
  字は恭甫、号は左海。福建省侯官の人。嘉慶四年(1799)、進士に及第した。『左海文集』、『左海駢体文』。
楊遇春(1760~1837)
  字は時斎。四川省崇慶の人。乾隆四十四年(1779)、武挙に及第した。乾隆末年、福康安に従って苗族の乱鎮圧にあたった。功により副将に上った。嘉慶年間、白蓮教徒の乱を鎮圧。総兵・提督となった。十八年(1813)、李文成の乱を平定。道光五年(1825)、陝甘総督となった。翌年、疆の叛乱平定にあたり、カシュガル・ヤルカンド・ホータンを回復した。黒旗を標にして、生涯に大小数百回の戦いに参加したが、一度も手傷を負わず、楊家軍の総帥として恐れられた。十五年(1835)、高齢を理由に致仕した。
兪正燮(1775~1840)
  考証学の立場から経学・史学を修め、伝統的な男尊女卑の思想を批判し、封建道徳を否定した。『癸巳類稿』、『癸巳存稿』。
龔自珍(1792~1841)
  字はシツ人、号は定庵。浙江省仁和の人。段玉裁の孫にあたる。幼いころから神経が鋭く、黄昏どきに路地に飴売りのチャルメラが聞こえると、決まって不可解な放心状態に陥ったという。十一歳のとき、父について上京した。母に詩を、段玉裁に音韻訓詁を、劉逢禄に公羊学を学んだ。はじめ内閣中書舎人に任ぜられた。林則徐・源らと親交を結び、西北の地理を研究した。礼部主事にまで上ったが、辞職して帰郷後まもなく病死した。一説によると、親王・奕絵の愛妾・顧太(子春)と私通したため毒殺されたともいう。感情過多で情熱的な詩を残した。生涯三度の詩戒(詩作をいましめる誓い)を立てたがことごとく破ったという。また末公羊学の先駆者となった。『龔自珍全集』。
李兆洛(1769~1841)
  字は申耆、号は姜一老人。江蘇省武進の人。嘉慶年間に進士に及第した。翰林院庶吉士に任ぜられ、安徽鳳台知県となった。父の老病のため、致仕して郷里に帰り、江陰曁陽書院で二十年にわたって講義した。源により近の通儒と称された。地理・天文や各省通志に通じ、『読史方輿紀要』を校定した。『李氏五種』、『姜一斎集』。
黄鉞(1750~1841)
  字は左田、号は左君。安徽省当塗の人。乾隆五十五年(1790)、進士に及第した。戸部尚書に上った。『左田詩鈔』、『左田画友録』。
関天培(1781~1841)
  字は仲因、号は滋圃。江蘇省山陽の人。一兵卒から立身した。江蘇太湖営水師副将・江南蘇松鎮総兵・江南提督などを経て、道光十四年(1834)に広東水師提督に任ぜられた。広東の防備を強化し、アヘン戦争を戦ったが、二十一年(1841)に虎門の戦いで戦死した。『籌海初集』、『函玉鏡』。
伊里布(1722~1843)
  字は莘農。満州鑲黄旗の出身。嘉慶年間に進士に及第した。国子監学正に任ぜられ、のち典簿となった。道光年(1821)、安徽太平知府となった。五年(1825)、陝西巡撫となる。十五年(1835)、雲貴総督に上った。十九年(1839)、両江総督となった。アヘン戦争勃発後、欽差大臣に任ぜられた。妥協を主張して、停戦協定を結び、英軍による舟山および付近の諸島の継続占領を認めた。二十一年(1841)、欽差大臣裕謙の弾劾を受け、罷免された。二十二年(1842)、耆英とともに全権表となり、江寧におもむいて英国との講和を議論し、南京条約を締結した。まもなく広州将軍・欽差大臣となった。次いで通商条約交渉のため、広東に至ったが、半ばで没した。
厳杰(1763~1844)
  字は厚民、号は鴎盟。浙江省余杭の人。『石経残本』、『毛詩考証』。
栄光(1773~1844)
  字は荷屋、号は伯栄。広東省南海の人。湖南巡撫・湖広総督にまで上った。『歴名人年譜』、『白雲山人詩稿』。
銭杜(1763~1844)
  もとの名は楡。字は叔美、号は松壺。浙江省銭塘の人。銭樹の弟。天下を遊歴し、人物画・山水画を描いた。『松壺画贅』。
徐松(1781~1848)
  字は星伯。順天府大興の人。嘉慶年間に進士に及第した。翰林院編修に任ぜられた。嘉慶十六年(1811)、湖南学政となった。翌年、西辺防のため疆のイリに派遣された。将軍松筠の援助のもと、周辺の山川地勢を調査し、万里を歩き回った。松筠にわって『疆志略』を撰して完成させた。また『疆賦』、『書西域伝注補』、『西域水道記』を撰し、西域三種として世間で重んじられた。道光年(1821)、北京に召しもどされ、内閣中書・礼部主事・陝西楡林知府を歴任した。の西北地理研究の先駆者のひとり。『書地理志集釈』、『両京城坊考』、『三司条例考』。
(1764~1849)
  字は伯、号は芸台。江蘇省儀徴の人。乾隆五十四年(1789)、進士に及第した。翰林院編修・文淵館直閣事などをはじめとして、浙江学政・浙江巡撫・漕運総督・両広総督・雲南総督などを歴任した。太子少保にまで上った。石学・書法史・訓詁学などを研究し、考証学を大成した。『経籍セン詁』、『十三経注疏校勘記』、『皇経解』。
胡培翬(1782~1849)
  字は載屏。安徽省績渓の人。祖父の胡匡衷に学問を受けた。また汪莱・凌廷堪に師事した。嘉慶年間に進士に及第した。官は内閣中書・戸部広東司主事をつとめた。のちに鍾山・惜陰・婁東・廬州などの書院で講義した。また郷里に東山書院を創立した。学・学の門戸の争いに反対した。『儀礼』研究につとめ、四十年をかけて『儀礼正義』にまとめた。『燕寝考』、『研六室雑著』。
翁雒(1790~1849)
  字は穆仲、号は小海。江蘇省江の人。翁広平の次男。『小蓬海遺詩』。
文康(?~?)
  字は鉄仙、号は燕北閑人。満州鑲紅旗の出身。理藩院郎中・徽州知府などをつとめた。のち駐藏大臣に任ぜられたが、病のために赴任できなかった。晩年、家は没落した。『児女英雄伝』。
林則徐(1785~1850)
  字は少穆、号は竢村老人。諡は文忠。福建省侯官の人。嘉慶十六年(1811)、進士に及第した。江南監察御史・浙江杭嘉湖道・湖北布政使・河南布政使・江寧布政使・江蘇巡撫を歴任した。道光十八年(1838)に湖広総督に任ぜられ、財政・水利などに功績を挙げた。黄爵滋のアヘン厳禁論を支持して、道光帝の信任を受け、欽差大臣に任ぜられて、翌年には広東に赴任した。英・米の商船からアヘンを没収し、虎門において二万箱を焼却した。二十年(1840)六月、イギリスが中国を攻撃、いわゆるアヘン戦争が開始された。彼は広東の近辺を厳重に防護したが、英軍が北京を突く構えを見せたため、驚いた朝廷はイギリスと和平交渉に入った。このため林則徐は疆のイリに左遷された。二十五年(1845)に許されて、翌年には陝西巡撫となり、さらに翌年には雲貴総督となった。二十九年(1849)、辞職して郷里に隠棲した。翌年、広西に起こった叛乱(太平天国の乱)の鎮定に起用され、潮州まで進んで、そこで病死した。『林文忠公政書』、『雲左山房詩集』。
費丹旭(1802~1850)
  字は子チョウ、号は暁楼。浙江省烏程の人。「東軒吟社図巻」、「陰隲文図征」などを描いた。『依旧草堂遺稿』。
方東樹(1772~1851)
  字は植之、号は副墨子。安徽省桐城の人。若くして姚鼐に師事した。広東廉州・韶州・安徽廬州・亳州などで講学にあたった。学を排斥し、程朱の理学に傾倒した。晩年は禅学に心酔した。『儀軒文集』、『昭昧詹言』。
之(1773~1852)
  字は伯昂、号は荐青。安徽省桐城の人。官は左都御史に上った。『竹葉亭雑詩稿』。
↓次の時咸豊同治期

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