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段部

十六国(304~439)]
十六国前趙,後趙,成漢,前涼,前燕,前秦,後秦,後涼,後燕,西秦,南燕,南涼,北涼,西涼,,北燕
十六国以外(西燕,仇池,,冉魏,翟魏,段部,宇文部,
段部(310~357)]
段日陸眷-段務勿塵-段疾陸眷-段渉復辰-段末破-段牙-段-段蘭-段龕
段疾陸眷(?~318)
  段疾六眷・段就六眷・段眷とも書く。東部鮮卑の出身。段務勿塵の子。父が没すると、跡を継いで西公となった。はじめ王浚を助けて征戦に従った。永嘉年(312)、王浚の将の王昌とともに襄国の石勒を攻め、従弟の段末破が捕らえられたため、石勒と講和して兵を退いた。翌年、王浚が再び石勒を攻めようとしたが、召集に応じず、石勒から賄賂を受けて王浚と敵対した。これより王浚の凋落がはじまった。建武年(317)、弟の段匹テイ※1が劉琨を助けて石勒を攻めようとしたが、かれは応じなかった。翌年、病没した。
段匹テイ※1(?~321)
  段務勿塵の子。の懐帝が即位し、段務勿塵が大単于となると、左賢王となった。建興二年(314)、王浚が石勒に敗れて滅ぶと、石勒の退いた隙に薊に入城し、幽州刺史を領した。劉琨が石勒に敗れて薊に逃れてくると、劉琨を大都督に推し、盟を結んで石勒を討った。従弟の段末破に敗れて薊に帰り、劉琨を殺した。石勒が孔萇を遣わして幽州に侵攻したため、部衆は離散して厭次の邵続に投じた。太興四年(321)、石虎が厭次を攻め、邵続・段文鴦らが捕らわれたため、ついに後趙に降った。邵続らとともにみな処刑された。
(?~339)
  段末破の従弟。段匹テイ※1の死後、段末破の率いる段部の一派は西に拠った。段末破が没すると、弟の段牙が継いだ。段牙が没すると、段が継ぎ、幽州刺史・大単于を称した。咸和六年(331)、東晋の封を受け、驃騎将軍に任ぜられた。前燕後趙とさかんに争った。前燕の慕容皝兄弟の争いにつけこみ、慕容仁・慕容翰を助けて慕容皝を攻めた。咸康四年(338)、後趙の石虎に敗れて密雲山に逃れ、いつわって後趙に降ろうとした。後趙の迎えの軍を慕容恪が破ったため、段とその部衆は前燕に降った。のち前燕に叛こうとして、事が洩れて殺された。

[註]
1.テイ=テイ

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