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永楽宣徳期

(1368~1644)]
洪武建文期,永楽宣徳期,正統成化期,弘治正徳期,嘉靖万暦期,天啓崇禎期,南明),タタール,オイラート,鄭氏台湾政権
洪武帝(朱璋)-建文帝(朱允炆)-永楽帝(朱棣)-洪熙帝(朱高熾)-宣徳帝(朱瞻基)-正統帝(朱祁鎮)-景泰帝(朱祁鈺)-天順帝(正統帝の重祚)-成化帝(朱見深)-弘治帝(朱祐トウ)-正徳帝(朱厚照)-嘉靖帝(朱厚ソウ)-隆慶帝(朱載垕)-万暦帝(朱翊鈞)-泰昌帝(朱常洛)-天啓帝(朱由校)-崇禎帝(朱由検)
※永楽・宣徳期
永楽帝(1360~1424)
  朱棣,の成祖⇒。
張玉(1343~1400)
  字は世美。河南祥符の人。末に枢密知院となった。洪武十八年(1385)、漠北から朝に帰順した。済南副千戸・安慶指揮僉事などを歴任し、燕山左護となった。しばしば燕王朱棣の出征に従い、信任をえた。建文初年、燕王朱棣が靖難の兵を挙げると、北平九門を奪取した。都指揮僉事に上った。東昌の戦いで燕王を救うため勇戦し、ついに戦死した。都指揮同知を追贈され、栄国公に追封された。洪熙年間に河間王に改封された。
朱能(1370~1406)
  字は士弘。安徽省懐遠の人。洪武年間に父の職を継いで燕山護副千戸となった。建文初年、燕王朱棣の靖難の起兵に従った。功績を挙げ、指揮同知・都指揮僉事を歴任した。建文四年(1402)、燕軍はしばしば敗れて軍心は動揺したが、退却守勢の議論をしりぞけて、都督僉事に進んだ。永楽帝が即位すると、左軍左都督に任ぜられ、成国公に封ぜられた。永楽二年(1404)、太子太傅を加えられた。四年(1406)、安南を攻めるため総兵官となったが、途中で龍州で病没した。東平王に追封され、武烈と諡された。
丘福(1343~1409)
  安徽省鳳陽の人。兵士から身を起こし、洪武年間に燕山中護千戸となった。建文初年、燕王の靖難の起兵に従った。緒戦役で先鋒をつとめて勇戦し、功績を重ねて中軍都督同知に進んだ。永楽帝が即位すると、中軍都督府左都督に任ぜられ、淇国公に封ぜられた。王朱高煦と親しみ、かれを皇太子に立てようと運動したが、成らなかった。永楽二年(1404)、太子少師を加えられた。六年(1408)、皇長孫の輔導を命ぜられた。翌年、北方に出征し、臚昫河で伏兵を受け、軍を失って敗死した。
李遠(1364~1409)
  安徽省懐遠の人。洪武年間に父の職を継いで蔚州指揮僉事となった。靖難の役において、城をあげて燕王に降った。用兵をよくし、戦ってしばしば勝利した。永楽帝が即位すると、都督僉事に進み、安平侯に封ぜられ、宣府に鎮した。永楽七年(1409)、丘福とともに北征して、臚昫河にまでいたった。軍を軽々しく進めないよう諫められたが聞き入れず、軍が潰滅して殺された。莒国公に追封された。
解縉(1369~1415)
  字は大紳、号は春雨。江西省吉水の人。洪武二十一年(1388)、進士に及第した。翰林院庶吉士に任ぜられた。御史となり、文淵閣に入って『永楽大典』の編纂にあたった。また『太祖実録』『列女伝』編纂の総裁に任ぜられた。永楽二年(1404)、翰林学士・右春坊大学士に上った。八年(1410)、北征に従ったが、罪をえて獄に下った。十三年(1415)に殺され、妻子宗族は東に移された。成化年(1465)、名誉回復され、朝議大夫を追贈された。詩や書に優れ、とくに楷書のすばらしさで知られた。『文穀集』、『春両雑述』。
王紱(1362~1416)
  字は孟端、号は友石生。江蘇省無錫の人。博学でかつ詩歌にたくみで、書画にすぐれた。とくに山水竹石の画が絶妙であった。永楽年間に中書舎人に上った。『王舎人詩集』。
姚広孝(1335~1418)
  法名は道衍。江蘇省長洲の人。僧侶であったが、詩文を好み、陰陽道や兵学にも通じた。燕王朱棣(のちの永楽帝)について北平に赴き、慶雲寺に住持してたびたび燕王に助言を与えた。建文帝の諸王廃止に際して、燕王に挙兵を進言して、靖難の役でも活躍した。やがて還俗して広孝の名を賜り、資善大夫を拝し、太子少傅に上った。『太祖実録』の重修にあたり、『永楽大典』の編纂に参加した。栄国公に封ぜられた。『仏教不可滅論』。
胡広(1370~1418)
  字は光大、号は晃庵。吉水の人。建文年間に進士に及第した。翰林修撰となった。永楽五年、翰林学士・左春坊大学士に上った。十四年には文淵閣大学士に上った。とくに書法にすぐれた。また勅命を受けて『性理大全』の編纂に当たった。『胡文穆集』。
賽児(?~?)
  山東省蒲台の人。幼少のころから白蓮教に帰依した。夫に先立たれたのち、仏母を自称して布教に励んだ。永楽十八年(1420)、武装蜂起して叛乱を指導し、山東を席巻した。官軍に敗れた後、民間に潜伏し、追求を逃れて再び現れることがなかったという。
瞿佑(1341~1427)
  字は宗吉、号は存斎。浙江省銭塘の人。経・史に通じ、文墨をよくした。国子監助教・周王府長史などを歴任した。筆禍を起こして投獄された。赦されて帰郷し、以後は著述に専念した。『帰田詩話』、『楽府遺音』、『剪燈話』。
鄭和(1371~1434)
  もとは馬姓。字は哈只。雲南省昆陽の人。洪武十五年(1382)、が雲南を征服すると、火者(宦官)とされた。身長九尺の巨で、弁舌にすぐれ、声も遠方に届いたという。傅友徳により燕王朱棣(のちの永楽帝)に献上された。靖難の役に従軍して功績を挙げ、内官監の太監に任ぜられた。永楽帝に命じられて前後七回にわたって南海に遠征し、数十隻の大船に一万数千人の船員を搭乗させた艦隊を率い、東南アジアからインド洋に入り、アラビア半島やアフリカ東岸にいたった。
侯顕(?~?)
  宦官となり、永楽帝に仕えた。永楽年(1403)にチベットに派遣され、十一年(1413)にはネパール、十三年(1415)にはベンガルに使節として派遣された。
沈度(1357~1434)
  字は民則、号は自楽。華亭の人。とくに篆刻をよくした。洪武帝のとき、文学に挙げられたが、官に就かなかった。永楽帝の時になって翰林給廩禄となった。侍講学士に上った。
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