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改革・開放期

中華人民共和国(1949~)]
中華人民共和国建国期,文革期,改革・開放期
改革・開放期
鄧小平(1904~1997)
  もとの名は鄧希賢。四川省広安の人。1920年、勤工倹学の運動に参加し、渡仏。1924年中国共産党入党。帰国後、馮玉祥の司令部に加わり、三原の学校の指導部長をつとめる。上海クーデターの後、共産党上海支部で地下活動に従事。のち、広西省柳州で紅軍第七軍を組織した。フランスと国民党の連合軍によって柳州ソヴィエトは潰滅するが、第七軍の生き残りとともに井崗山に入る。第八軍団として再編された軍で、長沙占拠に貢献。長征の間は、劉伯承の十二師団副司令員・政治委員。1936年聶栄臻の副官。1937年劉伯承の一二九師団の政治委員。1943年革命軍事委員会総政治部主任。1945年党中央委と政治部の書記となった。1952年国務院副総理、1956年党中央総書記・政治局常務委員となった。文革が始まると、劉少奇とともに実権派として標的とされ、失脚。1973年国務院副総理として復活するが、1976年の周恩来の死とともに起こった第一次天安門事件で再び失脚。毛沢東の死後、華国鋒が江青一派を逮捕・監禁すると、翌年鄧小平復活が決定された。1981年華国鋒を退陣させ、胡耀邦を党主席に据え、自身は党軍事委員会主席となって以降は中国の最高実力者となる。共産党の指導を維持しつつ、改革・開放政策を推進し、市場経済化を進めることで中国経済の浮揚を図った。
華国鋒(1921~)
  もとの名は蘇鋳。山西省交城の人。1940年に共産党入党し、党交城県委書記となった。文革中に、湖南省党地方委第一書記をつとめた。1975年、国務院副総理。1976年に周恩来が没すると、党中央委第一副主席・国務院総理に上った。同年十月、葉剣英・李先念らの支持のもと、四人組を逮捕。文革を終焉させ、中国の最高指導者となった。1981年、党主席・中央軍事委主席から退き、以後は党中央委員のみにとどまった。
顧頡剛(1893~1980)
  字は銘堅。江蘇省蘇州の人。1920年、北京大学哲学部卒業。厦門・中山・燕京・北京・雲南・・中央・復旦・蘭州などの大学教授を歴任した。禹貢学会を主催した。解放後は中国科学院歴史研究所研究員となる。古史を民俗学的方法で解した。『古史弁』、『の方士と儒生』、『三皇考』、『中国歴史地図集』。
胡耀邦(1915~1989)
  湖南省長沙瀏陽の人。秋収蜂起に参加。1933年に共産党入党。文革期は科学院にあって研究体制の正常化につとめた。1981年、共産党総書記に上った。1987年、前年の学生運動への対処で引責辞任した。1989年、心臓病のため死去した。
王震(1908~1993)
  湖南省劉陽の人。1925年黄埔軍官学校に入学。1927年に共産党入党。長征に参加し、八路軍第三五九旅団長。1949年第一野戦軍第一兵団司令員。1955年上将。文革で批判を受け、江西省の開拓場で労役についた。のちに復活して1975年に国務院副総理。1988年には国家副主席。
李先念(1909~1992)
  湖北省黄安の人。1927年北伐に参加、共産党入党。紅軍第四方面軍に属し、徐向前の下で政治委員をつとめた。長征で張国燾がみじめな敗北をすると、部隊を預かって退却戦を指揮した。1937年延安につき、抗日軍政大学に学ぶ。抗日戦時には、四軍に属し、湖北省で遊撃戦を指揮した。内戦時には、中原軍区司令員・党中央中原局副書記などをつとめた。建国後、党湖北省委書記・湖北省人民政府主席となる。1954年国務院副総理・財務部長。文革中も批判されたが失脚せず、毛沢東の死後は四人組の追放に貢献。1977年党中央副主席。経済調整に手腕を発揮。1983年から88年まで国家主席をつとめた。1988年政治協商会議主席。
王任重(1917~1992)
  河北省景県の人。1933年、江西ソヴィエト地区で共産党入党。武市党委第一書記、湖北省党地方委第一書記、武軍区政治局員を経て、文革初期に党中央の要人となる。のち、病気療養のため広州に移住。毛沢東の死後、国務院副総理などとして復活した。
姚依林(1916~1994)
  安徽省の人。華大学を中退。抗日戦争中、党中央華北局で劉少奇の指導のもと活動した。1952年商業部副部長。1960年商業部長。文革がはじまると、批判を受け失脚したが、1973年対外貿易部副部長として復活。以降、党中央委員・党中央副秘書室長・国務院副総理・国家計画委員会主任などを歴任した。
楊尚昆(1903~1998)
  四川省潼南の人。1930年共産党入党。モスクワの東方大学で学び、王派に属した。1936年山西中央委書記・統一戦線部部長。1948年党中央委弁公庁主任。文革がはじまると、批判を受けて失脚した。1978年名誉回復され、広東省党委員会第二書記。ついで第一書記。1982年党中央軍事委員会副主席。1988年国家主席となる。1989年には民主化運動を武力弾圧(第二次天安門事件、六四事件)した。1993年国家主席を退くが、影響力は保ち続けた。
趙紫陽(1919~2005)
  河南省滑県の人。趙廷賓の子。1932年、共産主義青年団加入を誓った。1938年、共産党に入党し、党豫北地委組織部部長・宣伝部部長。1940年、豫冀辺区第二地委書記。1949年、南陽地委書記・南陽軍分区政治委員。1965年、広東省党委書記。文革で「陶鋳の走狗」と批判されて失脚した。1971年内蒙古自治区党委書記として復活。1974年広東省党委第一書記。1975年四川省党委第一書記兼四川省長となり、経済改革に取り組んだ。1979年党中央政治局委員。1980年国務院副総理。華国鋒にわって国務院総理となる。胡耀邦総書記とともに改革開放を進めた。1987年党総書記・党軍事委第一副主席。1989年の第二次天安門事件で学生らとの対話を主張して解任された。
栄毅仁(1916~2005)
  江蘇省無錫の人。栄徳生の子。実業家の家に生まれた。1937年、聖ジョーンズ大学を卒業して、無錫茂面粉公司の助理経理となる。抗日戦争中は上海にあって、上海合豊企業公司・上海三銀行などの理事をつとめた。1957年、上海副市長。1959年、中国和平統一促進会会長。文革で批判されて失脚した。1978年、政治協商会議副主席として復活。1979年、中国国際信託投資公司を創業して理事長兼経理となり、中国の対外開放の窓口となった。1983年、全人常務委副委員長。1993年から1998年にかけて、中国国家副主席をつとめた。赤い資本家と称され、1999年には米経済誌「フォーブス」で中国一の富豪と報じられた。2005年、北京で死去した。
万里(1916~)
  山東省東平の人。国務院副総理・全人常務委委員長・共産党中央政治局委員などを歴任。
喬石(1924~)
  もとの名は蒋志彤。浙江省定海の人。上海で生まれた。1940年に共産党入党。党中央対外連絡部部長・党中央弁公庁主任・党中央組織部部長などを歴任した。1985年、党中央政治局委員・書記処書記・政法委員会書記となり、中国の法律・治安・情報・司法をつかさどった。1986年、国務院副総理を兼任。1987年、党中央政治局常務委・党中央書記処第一書記。1993年、全人常務委委員長。1998年、老齢のため引退した。
江沢民(1926~)
  安徽省婺源の人。揚州の知識人家庭に生まれた。1946年、共産党に入党。翌年、上海交通大学電機系を卒業。解放後、上海益民食品一廠副工程師・工務科科長・動力車間主任・廠党支部書記・第一副廠長・上海制皀廠第一副廠長・上海第二設計分局電器専業科科長などをつとめた。1955年、モスクワのスターリン汽車廠で実習した。翌年に帰国して、長春第一汽車製造廠動力所副所長。1962年、上海電器科学研究所副所長。1982年、電子工業部第一副部長。1985年、上海市市長・党上海市委副書記。1989年、党中央総書記・党中央軍事委主席。翌年、中国中央軍事委主席。1993年から2003年にかけて、中国国家主席。2001年、三つの表思想を発表し、中国共産党は、中国の先進的な社会生産力の発展の要求、中国の先進的文化の前進の方向、中国の最も広範な人民の根本利益を表すべきであると規定した。また私営企業家の共産党入党を認めた。
李鵬(1928~)
  四川省宜賓の人。李碩勛の子。成都で生まれた。父が海南島で国民政府に逮捕され殺害されたのち、周恩来の庇護を受け、重慶・延安で育った。モスクワに留学。東北電力局で働き、のちに電力部の部長となった。共産党中央政治局常務委。1988年から1998年にかけて、国務院総理をつとめた。1998年から2003年にかけて、全人常務委委員長。
朱鎔基(1928~)
  湖南省長沙の人。湖南省立第一中学卒。華大学電機系に学ぶ。1949年に共産党入党。中国計画燃動局や中国計画生産委の長をつとめたが、反右派闘争のとき、右派の烙印を押されて失脚。農村に下放されて、労働改造を受けた。1978年、党籍を回復して、社会科学院工業経済研究所の主任として復活した。翌年、国家経済委燃動局処長。1982年、国家経済委委員・技術改革局局長。1985年、中国国際信託投資公司常務理事。1988年、上海市長。1991年、国務院副総理。1993年、中国人民銀行行長。1998年から2003年にかけて、国務院総理をつとめた。

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