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三国時代(220~280)]

,,蜀漢

(222~280)]

後漢・孫氏]破虜将軍(孫堅)-討逆将軍(孫策)…
]大帝(孫権)-会稽王(孫亮)-景帝(孫休)-末帝(孫晧)
孫権(182~252)
  の大皇帝⇒。
士燮(137~226)
  字は威彦。蒼梧郡広信の人。士賜の子。若くして洛陽に遊学し、劉陶に師事した。孝廉に推挙され、尚書令となった。茂才に挙げられ、巫県の令を経て、交趾太守となった。後漢の献帝のとき、天下は大乱となり、弟の士壱を合浦太守に、士イ※1を九真太守に、士武を南海太守にあてるよう上表して認められた。中原から難を避けた士人を保護し、交州の実権を握った。綏南中郎将となり、のちに安遠将軍に任ぜられ、度亭侯に封ぜられた。建安十五年(210)、孫権が歩隲を交州刺史として派遣すると、孫権に帰順し、左将軍となった。益州の豪族の雍闓に働きかけて孫権に帰属させた。将軍となり、竜編侯に封ぜられた。交趾郡にあること四十余年で没した。
虞翻(164~233)
  字は仲翔。会稽郡余姚の人。はじめ会稽太守の王朗の下で功曹をつとめた。孫策が軍を進めてきたとき、避難するよう王朗に勧めた。王朗はその意見を聞かず孫策と戦って敗れ、海上に逃れた。東部侯官までいたったが、老母のために会稽に戻り、孫策に仕えて功曹となった。のち富春県の長になった。孫策が死んだとき、変事に備えて任地にとどまったまま喪に服した。茂才に推挙されて曹操に招かれたがこれを拒絶した。孔融と交際して『易経』の註釈を論じた。孫権に騎都尉に任ぜられたが、意に沿わない諫言をたびたびおこなったので、丹楊の涇県に遷された。呂蒙が虞翻を許されるように取りはからって、対関羽戦に従軍した。このとき関羽の死を予見したといわれる。関羽に捕らわれていたの于禁を解放すると、孫権が親しく待遇しようとしたが、虞翻は于禁が礼遇を受けるのに反対し、に帰還させず処刑するよう主張した。また降将の麋芳を侮辱した。人のことを顧慮せずに正しいと思うことを押し通し、酒の席での失敗が多かった。孫権に憎まれて交州に遷された。その後も学問研究を続けて『老子』『国語』『論語』などに註釈をつけた。配流地で没した。『周易注』。
僧支謙(?~?)
  字は恭。月氏の後裔。胡書を学び、六カ国語に精通した。支亮に師事して仏教を学んだ。建安末年に中原の混乱を避けて、に逃れた。孫権に召されて博士となった。黄武・建興年間にかけて四十九部の大小乗経典を訳した。また『賛菩薩連句梵歌』を創作した。孫権の信任厚く、太子孫登を補佐した。孫登が早逝すると穹隆山に隠居し、六十歳で寂した。
諸葛瑾(174~241)
  字は子瑜。瑯邪郡陽都の人。諸葛亮の兄にあたる。後漢末に江東に移住し、孫権に仕えて長史となった。建安二十年(215)、の劉備との間の使者として好を通じることに成功し、孫権の信任をえた。関羽の討伐に加わって宣城侯に封ぜられ、綏南将軍となり、呂蒙にわって南郡太守をつとめた。黄武年(222)、左将軍・公安督・仮節となり、宛陵侯に封ぜられた。五年(226)、襄陽を攻めて司馬懿に敗れた。黄龍年(229)、孫権が登極すると、の大将軍・左都護・領豫州牧に上った。嘉禾三年(234)、孫権が合肥を囲んだとき、口に駐屯したが、帝が親征してきたため退却した。赤烏四年(241)、軍を率いて柤中を攻めたが、司馬懿がの援軍として現れたため退却した。この年に没した。
顧雍(168~243)
  字は歎。県の人。若いころ蔡邕に師事して、学問と琴の伝授を受けた。婁・曲阿・上虞で治績をあげた。孫権が会稽太守となると、丞として政務を行した。孫権が王となると、大理・奉常・尚書令に累進し、陽遂郷侯に封ぜられた。黄武四年(225)、太常となり、醴陵侯に封ぜられた。孫邵にわって丞相・平尚書事となった。しばしば献策して、用いられれば孫権の発案として主君の顔を立て、用いられない場合は他言しなかったという。嘉禾二年(233)、孫権が東の公孫淵を燕王に封じようとしたとき、これを諫めたが聞き入れられなかった。のち呂壱の専横にあって、冤を受けて譴責された。呂壱の罪が発覚してこれを取り調べたが、私怨にとらわれずこれを公正にあつかった。相位にあること十九年にして没した。
陸遜(183~245)
  字は伯言。もとの名は議。県の人。二十一歳のときに孫権の幕下に入り、のちに海昌屯田都尉となった。山越の潘臨や尤突の乱を鎮圧して、定威校尉に任ぜられた。兵を率いて丹陽の費桟を破り、精兵数万人を得た。建安二十四年(219)、の関羽が将・曹仁の守る襄陽を攻めたとき、の陸口に鎮していた呂蒙が病と称して建業に退き、陸遜がわって偏将軍右部督として陸口に鎮した。関羽の油断を誘って、ついに呂蒙とともに関羽を攻めて、公安・南郡を落とした。功績により華亭侯に封ぜられた。のちに右護軍・鎮西将軍となった。黄武年(222)、の劉備がに攻めてくると、大都督・仮節に任ぜられて、軍を率いて軍に火攻し、大勝を博した(夷陵の戦い)。輔国将軍・領荊州牧を加えられ、江陵侯に封ぜられた。七年(228)、の揚州牧・曹休の軍を石亭で破った。黄龍年(229)、上大将軍・右都護に上った。嘉禾五年(236)、孫権が合肥を囲んだとき、諸葛瑾とともに襄陽を攻めたが、孫権の本軍が退却したため孤立の危機に陥った。このときむしろ襄陽に攻めかけて威勢を示し、戦果をえて退却した。赤烏七年(244)、顧雍にわって丞相となった。ときに王・孫覇が孫権の寵を受け、太子・孫和に不安が出てくると、陸遜は嫡庶の順を論じて上疏したが聞き入れられなかった。外甥の顧譚らが太子に親侍していたために流罪とされ、友人の吾粲は殺され、たびたび孫権からの問責の使者が来るにいたって、憤りのあまり死んだ。
諸葛恪(203~253)
  字は遜。瑯邪郡陽都の人。諸葛瑾の長男。はじめ騎都尉に任ぜられ、の皇太子・孫登の賓友となった。嘉禾三年(234)、撫越将軍に任ぜられ、丹陽太守を領し、兵を率いて山越を攻めた。兵糧攻めで山越を降し、功績によって威北将軍に任ぜられ、都郷侯に封ぜられた。赤烏年間に陸遜が没すると、大将軍・仮節に上り、武昌に鎮し、陸遜にわって荊州を守った。孫権が薨じ、孫亮が立つと、太傅に任ぜられて国政の改革に尽力して人心を得た。建興年(252)、軍を東興で破り、陽都侯に封ぜられ、荊州牧・揚州牧・都督中外諸軍事を加えられた。翌年、を攻めて勝てず、士卒の多くに傷病を負わせたため、国内に怨嗟の声が満ちた。のちに孫峻に殺された。
張布(?~264)
  はじめの琅邪王・孫休の左右督となり、信任を受けた。孫休が即位すると、長水校尉から輔義将軍に遷り、永康侯に封ぜられた。永安年(258)に左将軍をつとめていたとき、丞相・孫綝が専横をきわめ孫休の廃立を図ったため、丁奉とともにこれを誅殺した。わって丞相となった濮陽興とともにの朝政を牛耳った。年(264)、孫休が薨ずると、濮陽興らとともに孫晧を擁立した。孫晧は即位すると粗暴驕慢となり、そのため張布は後悔したが、そのことを万彧に密告されて罪を得て広州に流され、道中に殺された。
丁奉(?~271)
  字は承淵。廬江郡安豊の人。若くして甘寧・陸遜らに従って戦功を挙げ、偏将軍となった。孫亮が即位すると、冠軍将軍となり、都亭侯に封ぜられた。建興年(252)、将諸葛誕を東興で破り、滅寇将軍・都郷侯に進んだ。太平二年(257)、左将軍となる。孫休が即位すると、張布らと謀って大将軍孫綝を殺し、大将軍に上り、左右都護を加えた。永安三年(260)、徐州牧を領した。六年(263)、を攻めると、寿春に向かってを牽制したが、が滅んだため軍を返した。孫休が薨ずると、濮陽興らとともに孫晧を擁立した。宝鼎三年(268)、合肥を攻めて、の石苞を計略で退けた。
丁固(198~273)
  もとの名は密。字は子賎。会稽郡山陰の人。幼くして父を失い、家は貧しかった。太平二年(257)、鄱陽・都の民の叛乱を鎮圧した。永安五年(262)、左御史大夫となる。甘露年(265)、武昌への遷都に際して、諸葛靚とともに建業にとどまり鎮した。宝鼎年(266)、永安の山民施但の乱を平定した。三年(268)に司徒に上った。
韋昭(?~273)
  史書では韋曜と書く。字は弘嗣。郡雲陽の人。若い頃から学問を好んだ。丞相府掾・西安県令・尚書郎を経て太子中庶子に上った。太子の孫和に仕えて、文章を作った。孫和が廃されると黄門侍郎となった。孫亮が即位すると諸葛恪に推挙されて太史令に上り、『書』の撰述にあたった。孫休が即位すると中書郎・博士祭酒に任ぜられた。孫晧が即位すると、高陵県侯に封ぜられ、中書僕射に上り、侍中に任ぜられた。孫晧に憎まれて捕縛された。獄中から上書し、華覈らが救おうとしたが、孫晧は聞き入れなかったため、処刑されて、家族は零陵に流された。『国語注』。
陸抗(226~274)
  字は幼節。県の人。陸遜の次男。二十歳のとき、父を亡くして、建武校尉に任ぜられた。父・陸遜に対する二十箇条の疑惑に逐一答えて、孫権の疑心を解いた。赤烏九年(246)、立節中郎将に上り、柴桑に鎮した。建興年(252)、奮威将軍に任ぜられた。永安二年(259)、鎮軍将軍に任ぜられ、都督西陵・白帝諸軍事となった。七年(264)、に併呑されてのち、巴東の守将・羅憲がに降るのを拒んだため、兵を率いてこれを攻めた。建衡二年(270)、鎮軍大将軍、都督信陵・西陵・夷道・楽郷・公安諸軍事となり、楽郷に鎮した。の荊州都督・羊祜と対峙し、また陣営を越えた交友を結んだ。鳳凰年(272)、西陵督の歩闡がに降ったため、軍を率いて西陵を囲んで落とした。翌年、大司馬・荊州牧に上った。三年(274)、病没した。

[註]
1.イ=イ
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五代十国(907~960)]

五代後梁,後唐,後晋,後漢,後周
⇒十国(,南唐,前蜀,後蜀,南漢,,荊南,呉越,,北漢
(902~937)]
太祖(楊行密)-烈祖(楊渥)-高祖(楊隆演)-睿宗(楊溥)
楊行密(852~905)
  字は化源。の初太祖武皇帝と追尊された。在位902~905。廬州合肥の人。怪力の巨で、容貌魁偉だったという。はじめ群盗に加わっていたが、の軍隊に応募して西北の守備にあたった。勢力をたくわえて兵乱を起こし、廬州を占拠した。中和三年(883)、廬州刺史となった。彦・畢師鐸らと戦い、揚州に入った。景福年(892)、淮南節度使に任ぜられた。孫儒を破って、江淮を兼併した。乾寧四年(897)、朱全忠の将の龐師古を淮水口で破った。天復二年(902)、太師・中書令となり、王に封ぜられた。かれに叛いた田頵らを討ち、内患を除去した。高勗らの策に従って、農耕養蚕を勧奨し、賦役を軽減して、江淮に比較的穏健な政権を樹立した。
楊渥(886~908)
  字は承天。の二烈祖景皇帝と追尊された。在位905~908。楊行密の長男。宣州観察使をつとめた。父が亡くなると、淮南節度使・王を称した。劉存を遣わして岳州を取り、裴を遣わして洪州を奪って、江西を併せた。もとより人望がなく、驕侈なふるまいがひどくなり、父のからの旧将を次々と粛した。東院馬軍を設け、球戯に節度なくふけるなど、失政が多かった。張顥や徐温らにより政変が発動され、寝室で殺された。
楊隆演(897~920)
  字は鴻源。の三高祖宣皇帝と追尊された。在位908~920。楊行密の次男。天祐五年(908)、張顥や徐温らが兄の楊渥を殺すと、徐温と厳可求が張顥を殺し、楊隆演を主として擁立した。九年(912)、太師・中書令・王を称した。徐温が執政して、呉越との戦いを終わらせ、民力を休養させ、経済は発展した。十六年(919)、国王位につき、武義と改し、宗廟を置き、百官を設けた。徐温が専権をふるっているのを喜ばず、甘飲少食のため病となり、夭逝した。
楊溥(901~938)
  の四睿宗。在位920~937。楊行密の四男。兄の楊隆演が国を建てると丹陽郡公に封ぜられた。兄王が没すると、位を継いだ。徐温が太師となり、厳可求が右僕射となって、民力休養の政策を継続した。乾貞年(927)、帝位についた。徐知誥が太尉・侍中となって、軍政の大権を握った。升年(937)、徐知誥に迫られて位を譲り、国は滅んだ。翌年、潤州で没した。
李建勲(?~925)
  広陵の人。末、中書侍郎・平章事(宰相)に任ぜられたが、後に勢力を失い、撫州節度使に左遷された。さらに呼び戻され、司空を拝命したが、鍾山に別荘を建て、辞職して引きこもった。鍾山公の称号を授かった。『李丞相詩集』。
徐温(862~927)
  字は敦美。海州昫山の人。徐知誥(南唐烈祖李昪)の父にあたる。塩商人から身を立て、末の乱では楊行密に従って、謀を献じた。が建国されると、大丞相に上った。国境の安定と民力の休養のため力を尽くし、自身は節倹をいとわなかったという。

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