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東晋

東晋(317~420)]
帝(司馬睿)-帝(司馬紹)-成帝(司馬衍)-康帝(司馬岳)-穆帝(司馬タン)-哀帝(司馬丕)-廃帝(司馬奕)-簡文帝(司馬昱)-孝武帝(司馬曜)-安帝(司馬徳宗)-恭帝(司馬徳文)
司馬睿(276~322)
  帝,中宗⇒。
劉琨(271~318)
  字は越石。中山郡昌の人。若いころ、賈謐の下の文人集団「二十四友」に名を連ねた。祖逖とともに司州主簿をつとめた。恵帝の末年、広武侯に封ぜられた。光煕年(306)、并州刺史に上り、転戦して陽にいたった。のち劉淵・劉聡らの軍と戦って連敗し、劉聡が陽に入ったとき、父母を殺された。建興年(315)に司空となり、都督并・冀・幽三州諸軍事に進んだ。石勒の軍と戦って利あらず、なおも屈せず鮮卑の段匹テイ※1と結んで、朝の保全をはかった。建武年(317)に段に推されて、大都督となり、四方に檄を飛ばして石勒を討とうと襄国に兵を集結した。しかし、段に疑われて殺された。
杜曾(?~319)
  野の人。はじめ野王司馬歆のもとで鎮南参軍となった。華容令・南蛮司馬を歴任した。戦陣にあっては勇は三軍に冠した。永嘉の乱のとき、胡亢が竟陵で人々を集め、公を号すると、杜曾は竟陵太守とされた。まもなく胡亢を殺し、その部衆を併せて、南中郎将・竟陵太守を自称した。のちに陶侃と石城で戦い、荀崧を宛で囲んだ。建武年(317)、豫章太守周訪に敗れて、武昌に退いた。のちに捕らえられて殺された。
祖逖(266~321)
  字は士稚。范陽郡遵県の人。幼くして孤児となり、若いときから財を軽んじ任侠を好む気概ある人物として知られた。のち陽平に住んだ。劉琨とともに司州主簿をつとめた。永嘉の乱が起こると、親族数百家を率いて淮泗に移り住んだ。琅邪王司馬睿が建業に鎮すると、彼に仕えて徐州刺史となり、軍諮祭酒に進み、京口に居を遷した。建興年(313)、上疏して北伐を請い、奮威将軍・豫州刺史となって、長江を渡った。たびたび石勒を破り、黄河以南の地を得た。太興二年(319)後趙の石虎と浚儀で戦って敗れ、淮南に軍を退いた。翌年、雍丘に進み、河南の多くの郡県をに帰した。鎮西将軍に上った。劉曜・石勒が互いに争うすきに河北に進んだ。征西将軍・都督六州諸軍事に上り、合肥に鎮したが、内乱があって志を得ないのを嘆きつつ病没した。
王イ※2(?~322)
  字は世将。琅邪郡臨沂の人。王導の従弟にあたる。はじめ太傅掾・参軍をつとめた。武陵県侯に封ぜられた。濮陽太守に任ぜられて赴任した。司馬睿が江左に鎮したとき、郡を捨ててこれに従った。司馬となり、廬江・ハ陽太守に任ぜられた。周馥らを討伐して冠軍将軍となり、石頭に鎮し、丞相軍諮祭酒を領した。建興三年(315)、王敦が陶侃を左遷し、わりに荊州刺史として遣わされたが、陶侃は離任を拒否したため、入州を強行して陶侃の部下を殺したため人望を失った。のち散騎常侍・左将軍を歴任した。司馬睿が即位すると、「中興賦」を捧げた。王敦が叛乱を起こしたとき、諫めるために遣わされたが、阻止できなかった。永昌年(322)、病没した。
王遜(?~323)
  字は邵伯。興郡の人。孝廉に挙げられ、上洛太守に累進し、広太守に転じた。恵帝の末年、南蛮校尉・寧州刺史となる。ときにで李雄が自立し、これになびくものが多かったが、王遜が法治を励行し、諸族を制したので、寧州に威令が行き届いた。王司馬睿に帝位につくよう勧め、褒中県公の爵位を賜った。牂柯郡を分かって平夷郡を立て、朱提郡を分かって南広郡を立て、建寧郡を分かって夜郎郡を立て、永昌郡を分かって水郡を立て、益州郡を分かって寧郡を立てるよう議して施行した。姚岳を遣わして成の李驤を堂狼に破り、瀘水まで追撃させた。姚岳がそれ以上追撃せず帰還したので、怒って姚岳を鞭打ち、憤りのあまり発作を起こして没したという。
王諒(?~323)
  字は幼成。丹陽郡の人。はじめ王敦に仕え、累進して交州刺史となった。ときに碩が自ら交趾太守を領し、前刺史の修則の子の修湛を迎えて州の行政を摂らせた。広州刺史の陶侃が修湛を誘い出して殺したので、碩が挙兵した。王諒は龍編において碩の兵に囲まれて、降伏を迫られた。右臂を絶って、屈せずして死んだ。
謝鯤(281~324)
  字は幼輿。国陽の人。『老子』や『易』を好み、歌や鼓琴をよくし、阮咸・王澄らと交遊した。東海王・司馬越のもとで掾・参軍をつとめたが、病を理由に辞め、乱を避けて豫章に移った。王敦に引き立てられて長史となり、咸亭侯に封ぜられた。官は豫章内史に終わった。『謝鯤集』。
王敦(266~324)
  字は処仲。琅邪郡臨沂の人。王導の従兄にあたる。永嘉の乱のとき、財を散じ、青州刺史の官を捨て、単騎洛陽に入った。琅邪王司馬睿に従って長江を渡り、揚州刺史・都督征伐諸軍事に任ぜられた。の中興に際して王導とともに功があり、「王(琅邪王氏)と馬(司馬氏)と天下を共にせん」と称された。建興三年(315)、杜弢を平定し、都督江揚荊湘交広六州諸軍事・江州刺史となり、安侯に封ぜられた。司馬睿が即位すると、侍中・大将軍・江州牧・荊州牧に上った。永昌年(322)、功績をたのんで帝に叛き、武昌に拠った。石頭城で官軍を大敗させた。のち許されて武昌に鎮し、自ら益・寧の二州都督を領し、朝政の専権を握った。帝が即位すると、姑孰に移り、揚州牧を称した。太寧二年(324)、大病を患い、帝は彼を討伐する詔勅を下した。兄の王含を帥とし、部将・銭鳳らに兵を率いて京師に向かわせたが、越城において敗れた。のち病没した。乱が平定されると、柩が暴かれ屍が斬られたという。
王含(?~324)
  字は処弘。琅邪郡臨沂の人。王敦の兄。凶暴で非行が多かったが、王敦が顕貴となると、ともに位を進めた。荊州刺史・征東大将軍・都督揚州江西諸軍事に累進した。永昌年(322)、王敦に従って挙兵し、東晋に叛した。太寧二年(324)、驃騎大将軍・開府儀同三司として水陸五万人を率いて建康を攻めた。江寧南岸にいたったが、温嶠に朱雀橋を焼かれて渡江することができず、越城にて大敗した。陣営を焼いて夜中に遁走した。荊州の王舒のもとに奔ったが、長江に沈められて溺死した。
郭璞(276~324)
  字は景純。河東郡聞喜の人。五行・天文・卜筮に通じた。乱を避けて長江を渡り、王導に仕えて参軍となった。帝はその文才を嘉し、著作佐郎に任じ、尚書郎に遷った。王敦に仕えて記室参軍に上ったが、その乱の成否を筮で占うよう命令され、「無成」と予言したため殺された。死後に弘農太守の官を追贈された。「遊仙詩」「江賦」などを作った。また『爾雅』『方言』『山海経』などを注釈した。
桓彝(276~328)
  字は茂倫。譙国龍亢の人。桓温の父にあたる。州主簿を初任として、尚書吏部郎に累進した。王導や庾亮らとともに帝の深い信任をえた。帝が王敦を攻めたとき、散騎常侍となり、乱の平定に功績を挙げた。万寧県男に封ぜられ、宣城内史に任ぜられた。咸和二年(327)、蘇峻が乱を起こすと、蕪湖に敗れた。宣城を固守しようとしたが、翌年城を落とされて殺された。
温嶠(288~329)
  字は泰真。太原郡祁県の人。温憺の子。はじめ東閣祭酒として召され、上党潞令に任ぜられた。司空劉琨の下で司馬をつとめた。琅邪王司馬睿(のちの帝)が称制すると、劉琨の命を受けて江南に下り、司馬睿に帝位につくよう勧進した。帝(司馬紹)が即位すると、朝政に参与し、中書令となった。軍を率いて王敦を討った。咸和年(326)、江州刺史となり、武昌に鎮した。翌年、蘇峻が乱を起こすと、征西将軍陶侃と協同してこれを討伐した。乱を平定すると、驃騎将軍に任ぜられ、始安郡公に封ぜられた。武昌に帰還してまもなく没した。
陶侃(259~334)
  字は士行。廬江郡潯陽の人。五渓蛮の出身。若いころ貧乏で、母が髪を売って酒肴に替えたという。はじめ県吏となり、ついで廬江郡の督郵に任官した。太安二年(303)、荊州刺史・劉弘に見出されて南蛮長史となり、張昌・敏の乱を鎮定した。奮威将軍・竜驤将軍・武昌太守を歴任した。建興三年(315)に杜韜の乱を鎮圧して荊州刺史に上った。王敦にその功績を疎まれて、広州刺史に左遷された。王敦が叛乱を起こすと、江州刺史に任ぜられ、さらに湘州刺史に転じた。王敦が平定されると、都督荊・雍・益・州諸軍事に上り、征西大将軍・荊州刺史となった。咸和二年(327)に蘇峻・祖約の乱が起こると、翌年に温嶠と協力してこれを平定し、首都建康を恢復した。功績により侍中・太尉に上り、長沙郡公に封ぜられた。晩年は、高位を占めて身を傷つけることを惧れ、朝政に預からず、ひたすら隠棲を望んだ。九年(334)、長沙に帰り没した。
干宝(?~?)
  字は令升。蔡の人。若いころから勉学に励み、群書に通暁した。西晋末に関内侯に封ぜられた。東晋に仕えて著作佐郎となり、史官として国史を預かった。のち山陰令・始安太守・司徒右長史などを経て、散騎常侍に上った。宣帝から愍帝にいたる西晋の歴史を『紀』に著した。また霊異譚を集めて、『捜神記』にまとめた。『春秋左氏義外伝』、『干宝集』。
郗鑒(269~339)
  字は道徽。高平郡郷の人。趙王・司馬倫のもとで掾となり、病のため職を去った。司馬倫が簒奪したのちは、無関係を装って自らを守った。恵帝が復位すると、参司空軍事となり、中書侍郎に累進した。永嘉五年(311)、劉淵が洛陽を攻め落とすと、午軍に入った。のちに郷里に逃げ帰り、一千余家を挙げて山東に移った。琅邪王のもとで兗州刺史となり、後趙に圧迫されて合肥に移った。王敦の専制下で、帝は郗鑒を有力な外援と頼み、安北将軍に任じた。王敦に忌避されて中書令となった。太寧二年(324)、王敦の部将・銭鳳が京師に向けて進軍してくると、諸営守を領して、銭鳳の軍を破った。高平侯に封ぜられた。翌年、車騎将軍・都督三州諸軍事に上った。蘇峻の乱を平定すると、侍中・司空に上り、南昌県公に封ぜられた。のち太尉となった。
王導(276~339)
  字は茂弘。琅邪郡臨沂の人。王裁の子。王敦の従弟にあたる。はじめ、東海王司馬越のもとで参軍をつとめた。司馬睿(のちの帝)が琅邪王として下邳にいたとき、安東司馬として仕えた。司馬睿に献策して、建業に移らせ、江南豪族の顧栄・賀循らを籠絡して政権基盤を築いた。永嘉五年(311)、劉淵が洛陽を陥とすと、戦乱を避けて江南に移住してきた中原士族たちを多く帰服させた。建興四年(316)、西晋が滅亡すると、翌年には司馬睿を王に擁立し、朝を再興した。東晋の丞相・軍諮祭酒に上った。建武二年(318)、司馬睿に皇帝に即位させ、驃騎大将軍・儀同三司となった。開国の柱石として仲父と称され、「王(琅邪王氏)と馬(司馬氏)と天下を共にせん」と称された。帝・成帝を補佐して司徒・太傅をつとめ、始興郡公に封ぜられた。中原門閥と江南豪族の間の調和と連合を図り、政権基盤を固めることに成功した。
庾亮(289~340)
  字は規。潁川郡鄢陵の人。談論をよくし、老荘を好んだ。鎮東将軍司馬睿の西曹掾をつとめ、丞相参軍に転じた。華軼を討つのに功があり、都亭侯に封ぜられた。帝が即位すると中書郎に任ぜられ、中領軍に進んだ。帝のとき、中書監となった。王敦の乱のとき、左将軍として諸将とともに銭鳳・沈充らを討った。乱の平定後、護軍将軍となった。帝の病が重く、王導とともに成帝を補佐するよう遺詔を受け、中書令に上った。政事全般を決裁したが、人望がえられぬまま、宗室を圧迫した。咸和二年(327)には蘇峻・祖約の乱を招き、建康を失陥した。翌年に温嶠・陶侃らによって乱が平定された後は、豫州刺史として出て、蕪湖に鎮した。陶侃の死後、江荊豫三州刺史・征西将軍となり、武昌に鎮した。ときに石勒が没し、中原恢復の大望を抱いて石城に移り、北伐諸軍を支援したが、勅許が下りなかった。咸康五年(339)、後趙が邾城を陥すのを救うことができないまま病没した。
庾翼(305~345)
  字は稚恭。潁川郡鄢陵の人。庾亮の弟にあたる。蘇峻の乱のとき、亮に命ぜられて石頭を守備した。乱が平定された後、太尉・陶侃のもとで参軍をつとめた。咸康四年(338)、南蛮校尉・南郡太守となり、江陵に鎮した。後趙の石虎が邾城を陥し、石城を囲んだとき、奇兵を用いて趙軍を撃退し石城を守った。功績により、都亭侯に封ぜられた。兄・亮が没すると、都督江・荊・司・雍・・益六州諸軍事となり、安西将軍・荊州刺史として武昌に鎮した。兄の志を継いで北伐を望んだが、襄陽に移る勅許が出ず、志半ばに病没した。
夫人(272~349)
  名は鑠。字は茂漪。河東郡安邑の人。恒の従妹で、江州刺史李矩の妻となり、夫人と世称された。書法にたくみで隷書を最もよくした。王羲之に書法を授けたという。「夫人筆陣図」が世に伝わった。
浩(?~356)
  字は淵源。穎川郡長平の人。羨の子。桓温とは竹馬の友だったとされる。若くして英名があり、玄理をよくした。庾亮のもとで記室参軍をつとめ、司徒左長史に累進した。のちに官を辞め、およそ十年にわたって墓所に起居する生活を送った。穆帝のとき、会稽王・司馬昱の相となり、盛名をえた。永和二年(346)、建武将軍・揚州刺史に上った。六年(350)、中軍将軍・都督五州諸軍事となり、北府軍を掌握して桓温に対抗した。八年(352)、北伐を上疏して許されて出陣。許昌にいたったが、部将・張遇の叛乱により軍の前進を止められ、姚襄の軍に大敗した。桓温の弾劾にあって、庶人に落とされ、東陽の信安に移された。廃疾となり、以来常に「咄咄怪事」の四字を唱えていたという。その地で没した。
王洽(323~358)
  字は敬和。琅邪郡臨沂の人。王導の子。散騎常侍・中書郎を歴任し、郡内史にまで累進した。領軍に任ぜられ、中書令を加えられたが、固辞して受けなかった。
葛洪(283~363)
  字は稚川、号は抱朴子。丹陽郡句容の人。葛悌の三男。幼少のころ、貧苦の中で儒学と文学を学んだ。太安二年(303)、石冰の乱に活躍して、伏波将軍となり、関内侯に封ぜられた。三十歳のころ、羅浮山に行って練丹術・神仙術を学んだ。のち王導の幕僚などをつとめた。交阯が丹砂を産すると聞いて交阯郡句漏の県令になりたいと申し出たが許されず、羅浮山で丹薬を研究し、その地で没した。没齢八十一(一説に没齢は六十一、343年の没)。『抱朴子』、『神仙伝』、『肘備急方』。
僧支遁(314?~366)
  本姓は関。字は道林。留郡の人。家は々仏事をつとめた。二十五歳のときに出家した。老荘・大乗に通じ、名士と交友した。会稽の霊嘉寺に住持して、修禅と著述にはげんだ。・石城山などに寺を建立した。晩年は建康で『道行般若経』を講じ、朝野の人々が広く帰依した。『道行指帰』、『即色遊玄論』、『荘子逍遙遊篇注』。
王述(303~368)
  字は懐祖。太原陽の人。王承の子。襲爵して藍田県侯となった。年三十にして王導のもとで中兵属となった。王導が一言発するごとに、みなが迎合して賛美する有様を見て、「人は堯舜ではないのに、どうしていつも善をつくすことができようか」と吐いたので、王導が容儀を改めて謝ったという。官は宛陵令から尚書令に上った。
孫綽(314~371)
  字は興公。太原郡中都の人。孫の孫にあたる。西晋の末年に長江を渡り、会稽に移住した。隠棲の志を持ち、会稽の山水を楽しみ、謝安・謝万・王羲之らと交遊した。のちに仕官して、著作佐郎に任ぜられ、長楽侯に封ぜられた。庾亮の下で参軍をつとめたほか、章安令・太学博士・尚書郎を歴任した。永嘉太守・散騎常侍に転じた。隆和年(362)、桓温が洛陽への遷都を主張したのに反対して、温に疎まれた。のち廷尉卿にまで上った。文才に恵まれ、碑文をよくした。
桓温(312~373)
  字は子。譙国龍亢の人。桓彝の子。附馬都尉を初任として、琅邪太守・徐州刺史を経て、帝のときに安西将軍・荊州刺史に上り、西府・武昌に鎮した。永和三年(347)、成漢を討滅し、征西大将軍となり、臨賀郡公に封ぜられた。浩の北伐が失敗するとこれを弾劾して失脚させ、上疏してその大権を握って北伐した。十一年(355)、洛陽を奪回し、遷都を主張したが、容れられなかった。興寧年(363)、侍中・大司馬・都督中外諸軍事・録尚書事に上り、位人臣をきわめた。翌年には、大規模な戸口調査・土断を行い、「庚戌制」と呼ばれた。三年(365)に前燕に洛陽を奪われ、太和四年(369)に北伐して枋頭において慕容垂に敗れた。六年(371)、東晋を奪うべく、廃帝奕を廃し、簡文帝を擁立した。大司馬として姑孰に鎮した。簡文帝の死後、簒奪を狙ったが、果たすことなく没した。
僧竺道潜(286~374)
  本姓は王。字は法深。琅邪郡臨沂の人。王敦の弟にあたる。劉真に師事して法華経・般若経を学んだ。永嘉の乱を避けて南渡した。帝・帝をはじめ、王導ほか権門たちの尊崇を受けた。のち会稽に隠棲していたが、哀帝に召されて放光般若経を講じた。
袁宏(328~376)
  字は彦伯。国陽の人。謝尚に認められて、その参軍をつとめた。のち桓温に仕えて記室となり、また南海太守・吏部郎・東陽太守を歴任した。『後漢紀』、『竹林名士伝』。
王羲之(321~379あるいは303~361)
  字は逸少。琅邪郡臨沂の人。王曠の子。王導の従子。若いころから能筆で知られた。官途につき、秘書郎に任官し、江州刺史・護軍などを経て、右軍将軍・会稽内史にまで上った。退官し、会稽に遊んで書を楽しんだ。永和九年(353)、会稽の蘭亭に遊の人士を集めて詩文の会を催した(蘭亭の会)。晩年は五斗米道に傾倒したという。以来の書を集大成し、中国の伝統的書法・書体を作った。子の王献之とともに二王と称される。「蘭亭序」「十七帖」。
丁穆(?~383?)
  字は彦遠。譙国の人。功を重ねて真定侯に封ぜられ、順陽太守となった。太四年(379)、前秦の苻堅が順陽を攻めると、捕らえられて長安に送られた。病と称して前秦には仕えなかった。苻堅が南下してを討つと、関中の人士と謀って長安を襲おうとしたが、事が泄れて殺された。
郗愔(313~384)
  字は方回。高平郡郷の人。郗鑒の子。南昌公の位を襲爵し、中書侍郎に任ぜられた。のち臨海太守に進んだ。弟の曇の死後、政事に倦み、王羲之や許詢らと交遊し、黄老の術を学んだ。天師道を信奉した。官を辞めて章安に室を築き、十数年のあいだ世事にあずからなかった。司馬昱の輔政のもとで再び登用され、会稽内史に任ぜられ、都督五州陵諸軍事・徐州刺史・兗州刺史に進んで、京口に鎮した。息子の超が桓温に上書して、父は老いたので軍旅に堪えないと伝えたため、冠軍将軍・会稽内史に転じた。太年(376)、官は鎮東大将軍にいたった。
王蘊(330~384)
  字は叔仁。太原郡陽の人。王濛の子。はじめ著作郎に任ぜられ、尚書吏部郎に累進した。興太守をつとめていたとき、興に飢饉が起こり、勅許をえずに官倉を開いて民衆にほどこし与えた。そのため陵太守に左遷された。のち都督京口諸軍事・徐州刺史となり、京口に鎮した。尚書左僕射・丹陽尹・散騎常侍などを歴任した。外戚であることから、自ら配慮して地方に出て、会稽内史などをつとめた。晩年は酒に溺れる生活を送った。
習鑿歯(?~384?)
  字は彦威。襄陽の人。豪族の出身で、若いころから博学で見聞が広かった。文筆によって知られた。はじめ桓温のもとで従事をつとめ、累進して別駕となった。尺牘(木の札への書きつけ・手紙)や議論をよくし、重んぜられた。のち桓温の意志にそむき、戸曹参軍に左遷された。滎陽太守として出されたが、ときに桓温は帝位をうかがっていたので、『春秋』を著して桓温を抑えようとした。蜀漢を正統とし、に続くとした。太四年(379)、前秦の苻堅が襄陽を落とすと、僧の道安とともに迎えられて厚遇された。東晋が襄・鄧を恢復すると、典国史として召されるところ、おりしも没した。道安と並び称され、「四海に習鑿歯あり、弥天に釈道安あり」と称された。『習鑿歯集』。
謝安(320~385)
  字は安石。国陽の人。名族の出身で、若い頃は仕官せず、会稽に住んで王羲之らと交際し、談にふけった。永和九年(353)の蘭亭の会にも参加した。升平四年(360)、四十一歳で初めて桓温の司馬として仕えた。桓温の簒奪の野心を抑え、寧康年(373)、尚書僕射となり、吏部を領し、後将軍を加えられた。のち録尚書事・侍中・将軍などを歴任した。太八年(383)、前秦の苻堅が百万を号する大軍を率いて南下すると、征討大都督に任ぜられ、弟の謝石や甥の謝玄らを遣わして淝水でこれを撃破させた。勝利の報が届いたときは客と碁を打っていたが、「小僧たちが賊軍を打ち破ったよ」とさりげないふうに答えて、碁を打ち続けた。しかし対局が終わって部屋に戻ると敷居にぶつけて下駄の歯が折れたのにも気づかないほどの喜びようだったという。官は太保に上った。その名声が司馬道子に忌まれて、京師から出されて広陵歩丘に鎮した。のち京師に帰って没した。
王献之(344~386)
  字は子敬。琅邪郡臨沂の人。王羲之の七男。若いころから盛名があり、はじめ州主簿に任ぜられ、秘書令などを経て、中書令に上った。かれの娘は安帝の皇后に上った。草書・隷書に巧みで、「破体」とよばれる書風を作りあげた。王羲之とともに二王と称された。『王大令集』。
謝玄(343~388)
  字は幼度。謝奕の子。国陽の人。叔父の謝安に才を見出された。はじめ桓温の掾となる。建武将軍・兗州刺史などを歴任した。謝安に江北の軍事を託され、太二年(377)に徐州刺史に上り、北府軍を掌握した。淮水の一帯で前秦と戦った。五年(380)には東興県侯に封ぜられた。八年(383)、前秦の苻堅が百万と号する大軍を率いて南下すると、東晋六万の軍勢をかき集めて淝水に迎え撃った。戦意の低い降兵を多く抱えていた前秦の大軍は自壊し、東晋軍は大勝した(淝水の戦い)。その功により、都督七州諸軍事となり、康楽県公に封ぜられた。散騎常侍・左将軍・会稽内史をつとめた。のち北伐したが、中央との意志疎通に欠き、功績を挙げぬまま病没した。
王珉(351~388)
  字は季琰。琅邪郡臨沂の人。王導の孫にあたる。若くして才芸あり、行書をよくし、兄の王珣と名声をともにした。外国の沙門提婆に『毘曇経』の講義を受けた。のち著作・散騎郎・国子博士・黄門侍郎・侍中を歴任した。王献之にわって中書令となり、王献之が「大令」と称されたのに対して、「小令」と称された。
王忱(?~392)
  字は達。太原郡陽の人。王坦之の子。若いころから名を知られ、王恭・王珣とともに声誉があった。はじめ吏部郎となり、累進した。太年間に荊州刺史・都督荊益寧三州諸軍事・建武将軍となる。ときに桓玄が江陵にあり、しばしば掣肘を受けた。晩年は酒を嗜み、奇矯な行動が多かった。
朱序(?~393)
  字は次倫。義陽郡平氏の人。々将軍の家柄に生まれ、鷹揚将軍・江の相に累進した。司馬勛の乱を平定して、征虜将軍に任ぜられ、襄平子に封ぜられた。寧康二年(374)、興太守に任ぜられ、銭弘の乱を平定し、翌年には兗州刺史に転じた。太二年(377)、州刺史にうつり、襄陽に鎮した。前秦の苻丕が襄陽を攻めると、人々を動員して堅く守った。母の韓氏は襄陽城中の婦人たちを集めて、西北角に城を築かせて軍を防ぎ、夫人城と称された。四年(379)、督護の李伯護の寝返りにより、とうとう襄陽は陥落し、捕らえられた。のちに朱序は逃れてに逃げ帰ろうとしたが果たせなかった。苻堅により度支尚書に任ぜられた。淝水の戦いに先立って、苻堅は朱序をの謝石に使いさせ、己の兵威を示そうとした。朱序は「苻堅が百万の兵を率いてやってきてからでは相手にならない。準備が整わないうちに決戦しなさい」と謝石に助言した。軍が淝水を渡ったとき、苻堅の軍はやや後退したが、このとき朱序が「堅敗れたり」と大いに呼ばわったので、兵は動揺して敗走し潰え去った。朱序はに帰った後、龍驤将軍・琅邪内史に任ぜられ、豫州刺史に転じて洛陽に鎮した。のちに翟を討って功績を挙げ、監兗青二州諸軍事・兗青二州刺史となり、彭城に鎮した。さらに淮陰にうつって翟釗を討ち、都督司雍四州諸軍事として洛陽に屯し、慕容永と戦った。のち襄陽にうつり、竇衝の川侵入を防いだ。
王恭(?~398)
  字は孝伯。太原郡陽の人。王蘊の子。孝武帝の王皇后の兄にあたる。はじめ著作郎に任ぜられた。孝武帝のとき、前将軍となり、京口に鎮した。鎮北将軍・兗青二州刺史に上った。孝武帝の死後、会稽王司馬道子が専権をふるい、王国宝を寵用するのを憎んだ。桓玄と結んで挙兵し、王国宝を殺すよう司馬道子に迫り、王国宝が誅されると京口に帰った。司馬道子が王愉を江州刺史に任じると、王愉を討つべく再び挙兵した。司馬顕・王珣・謝琰らにはばまれ、部将の劉牢之が寝返ったため敗れた。桓玄のもとに奔ろうとしたが、長塘で捕らえられ、建康で斬られた。
仲堪(?~399)
  郡の人。師の子。はじめ著作郎に任ぜられた。謝玄の長史となり、陵太守をつとめた。孝武帝に召されて太子中庶子となり、黄門郎をつとめた。太十七年(392)、都督三州諸軍事・荊州刺史に上り、江陵に鎮した。のちに王恭の下で王国宝の誅殺に参与したほか、二度の挙兵にも応じた。王恭の死後は、桓玄と対抗した。隆安三年(399)、荊州に大水が出たすきに、桓玄に攻められて冠軍城に敗れ、自殺した。
王珣(349~400)
  字は琳。琅邪郡臨沂の人。王導の孫にあたる。はじめ桓温の掾、ついで主簿をつとめ、桓温に重んじられた。桓温に従って袁真を討ち、東亭侯に封ぜられた。給事黄門郎となった。謝氏と婚姻を通じたが、のち絶交。謝安の死後、侍中に進み、尚書僕射に転じて吏部を領した。学問・文才によって孝武帝に寵愛された。隆安二年(398)、将軍に進んだ。王恭が挙兵したとき、司馬道子に建康北郊を守るよう命ぜられ、王恭の軍をはばんだ。乱が平定されると、散騎常侍を加えられた。四年(400)、病のため解職された。書に巧みで、とくに行書をよくした。「大手筆」と称された。「伯遠帖」。
范寧(339~401)
  字は武子。南陽郡順陽の人。范汪の子。儒学を学び、王弼・何晏の説を継承した。桀紂の罪を著論した。桓温の死後に初めて仕え、余杭令に任ぜられ、臨淮太守に進み、遂郷侯に封ぜられた。中書侍郎に上り、文学を愛好する孝武帝に親侍した。甥にあたる王国宝や会稽王・司馬道子と相容れず、自ら求めて地方に出て、豫章太守となった。のち丹楊に隠棲し、経学研究に打ち込んだ。『春秋伝集解』。
車胤(?~401)
  字は武子。南平の人。幼いころから家は貧しく、常に油を買う資がなかったので、の夜は蛍の光で照らして書を読み、学問につとめて飽きなかったという。桓温が荊州にいたとき、従事となり、重用された。中書侍郎・侍中・国子博士に累進した。太常に任ぜられ、臨湘侯に封ぜられ、護軍将軍に転じた。王国宝が国政に容喙するようになると、病と称して職務を取らなかった。隆安初年、丹陽尹となり、吏部尚書に進んだ。司馬顕が専横を恣にするようになると、司馬道子に言上して抑えようとしたが、司馬顕が人を遣わして責めたため、自殺に追い込まれた。
司馬道子(364~402)
  河内郡温県の人。東晋の簡文帝の五男。はじめ琅邪王に封ぜられた。のち会稽王に改封された。淝水の戦いの後、謝氏の兵権を削ぎ、皇族の政権をめざした。太年間に司徒・揚州刺史・徐州刺史・録尚書・仮節都督中外諸軍事・太子太傅などをつとめた。幼少の安帝が即位すると、太傅となり、摂政の任にあたり国政を総覧した。のち王国宝を重用して国政を傾けた。隆安年(397)、王恭が王国宝討伐を名目に挙兵すると、国宝を殺して王恭に詫びた。その後は飲酒にふけり、政務を子の顕に任せた。顕が西録と称されたのに対して、東録と称された。年(402)に桓玄が叛乱して、建康を陥すと、顕が殺され、自身は安成郡に移される途中に毒殺された。
劉牢之(?~402)
  字は道堅。彭城の人。太初年、謝玄の募兵に応じて、参軍となった。前線において常に先鋒となり、精鋭を率いて常勝の英名をえた。その軍を北府兵と号した。鷹揚将軍・広陵の相に進んだ。淝水の戦いにおいては、精兵五千を率いて先鋒をつとめ、前秦の大軍を洛澗で破った。龍譲将軍・彭城内史に上った。太九年(384)、謝玄の命により河南を平定した。隆安年(397)、兗州刺史の王恭の下で司馬となった。翌年、王恭が叛くと、司馬顕について都督七州及陵諸軍事となり、京口に鎮した。隆安三年(399)、孫恩の乱を鎮圧した。興初年、司馬顕により前鋒都督・征西将軍に任ぜられた。しかし、顕に叛いて桓玄につき、顕は敗北した。桓玄により征東将軍・会稽太守に任ぜられた。さらに桓玄に叛こうとして、部下の多くが「三反」にあきれて逃げたため、彼も北に逃げ、洲で自殺した。彼の柩は桓玄によって暴かれ斬られたという。
孫恩(?~402)
  字は霊秀。琅邪の人。家は々五斗米道を信奉した。隆安二年(398)、叔父の孫泰が五斗米道の信徒を結集し、会稽王司馬道子を殺そうと図った。起兵して会稽を攻め、会稽内史・王凝之を殺し、揚州の八郡を席巻し、衆数十万を集めた。の将軍の謝琰・劉牢之らに攻められて、翌年には海島に退いた。四年(400)、再び会稽を攻め、謝琰を殺したが、劉牢之が来援してまた海に入った。五年(401)、海塩を攻め、劉牢之の部将・劉裕に撃退された。滬涜を陥して、楼船千余隻を丹徒に進軍させ、建康を震撼させた。しかし、劉裕に敗れて、また海に逃れた。年(402)、臨海を攻めたが、太守の辛景に破られ、海に投げ出されて没した。従う者百余人で、いわゆる水仙となったと伝承される。余衆はその妹の夫にあたる盧循を立てて叛乱を続けた。
刁逵(?~404)
  字は伯道。渤海郡饒安の人。隆安年間に広州刺史・平越中郎将・仮節となった。名利にとらわれず、貨殖にはげんだ。田を万頃、奴婢を数千人所有したという。桓玄が帝を称すると、西中郎将・豫州刺史となり、歴陽に鎮した。興三年(404)、劉裕が桓玄を討つべく起兵すると、ひとたび劉裕の参軍諸葛長民を捕らえたものの、城を棄てて敗走し、捕らえられて石頭で斬られた。刁氏の富の蓄積はすさまじく、「京口の蠹」と称された。
桓玄(369~404)
  字は敬道。譙国龍亢の人。桓温の子。父の死後、叔父の桓冲の後見を受けて成長した。跡を継いで武昌に鎮した。はじめ太子洗馬に任ぜられ、義興太守となったが、「父は九州の伯となり、子は五湖の長にとどまるというのか」と言って官を捨てて帰国した。隆安二年(398)、王恭が挙兵して王愉・司馬尚之を討つと、これに応じて挙兵した。翌年、荊州に大水が出たすきに、仲堪・楊佺期らを討ち、荊州・雍州を平定し、都督八州諸軍事・荊州刺史に上った。年(402)、桓玄討伐の詔書が出されたため叛乱し、司馬顕を破り、建康を陥落させて、太尉・揚州牧を自称し王に封ぜられた(桓玄の乱)。翌年には安帝を廃して尋陽に幽閉し、ひとたび簒奪に成功した。国号をとし、永始と建した。さらに翌年、決起した劉裕の軍に敗れ、に逃れようとしたところ、益州督護・馮遷に斬られた。
王愉(?~404)
  字は茂和。太原郡陽の人。王坦之の子。驃騎司馬となり、輔国将軍を加えられた。王恭が王国宝を討つと、自ら解職を請うた。王国宝が誅されると、江州刺史となった。王恭が再び起兵すると、臨川に奔り、桓玄を頼った。王恭が敗れると、会稽内史となった。桓玄が帝を称すると、尚書僕射となった。劉裕が起兵すると、前将軍を加えられた。のち劉裕により、謀反の罪で殺された。
王綏(?~404)
  字は彦猶。太原郡陽の人。王愉の子。太尉桓玄のもとで右長史をつとめ、桓玄が帝を称すると、中書令に進んだ。劉裕が起兵すると、冠軍将軍となり、荊州刺史に任ぜられた。のち劉裕により、謀反の罪で殺された。
顧愷之(344~406)
  字は長康。顧悦之の子。陵郡無錫の人。はじめ桓温に見出されて、その参軍をつとめた。次いで仲堪のもとで参軍となった。義寧初年に散騎常侍に上った。「画聖」と称され、また俗に才絶・画絶・痴絶の「三絶」と呼ばれ、画人としてすぐれていたばかりでなく、文才も称賛された。自信過剰で奇行も多かったという。表作は「女史箴図」、「洛神賦図」。『顧愷之集』。
劉毅(?~412)
  字は希楽。彭城郡沛県の人。京口に流遇して住みついた。若くして大志を抱き、州の従事として出仕した。桓玄が簒奪して国を建てると、劉裕らとともに起兵して桓玄を討った。乱が平定されると、撫軍将軍となり、南平郡開国公に封ぜられた。豫州刺史・将軍に進んだ。義煕六年(410)、盧循・徐道覆と桑落洲で戦い、大敗した。後将軍に降格され、まもなく将軍・江州都督に転じて、姑孰に鎮した。上疏して江州刺史の治所を豫章に移した。まもなく都督荊寧雍四州之河東河南広平揚州之義成四郡諸軍事・荊州刺史となった。交広二州の都督を加えられ、江陵に鎮した。荊州に拠って劉裕に対抗したが、劉裕が安帝の命を受けて劉毅を討ち、劉毅は敗れて自縊した。
謝混(?~412)
  字は叔源。国陽の人。父の爵位を襲って、建昌侯に封ぜられた。中書令・中領軍・尚書僕射を歴任した。義煕八年(412)、劉裕が劉毅を討ったとき、劉毅の党与として誅殺された。
隠之(?~413)
  字は処黙。濮陽郡鄄城の人。容姿が美しく、談論をよくし、文史に通じ、廉で孝行なことで名声があった。韓康伯に引き立てられて、輔国功曹に任ぜられ、参征虜軍事に転じた。桓温に賞されて陵太守に累進し、中書侍郎・御史中丞・著作郎に上った。年(402)、広州刺史に任ぜられた。赴任途中に貪泉を過ぎ、そこで水を飲み、詩を賦して志をらかにした。それが「酌貪泉賦詩」である。州にあってもますます廉で、時弊を改めるのに力を尽くした。三年(404)、盧循が広州を攻めたが、百日にわたって守り通した。城が破れて捕らえられたが、のちに釈放された。京師にもどって、度支尚書となり、中領軍に進んだ。
僧慧遠(334~417)
  俗姓は顧。雁門郡楼煩の人。はじめ洛陽・許昌に遊学して、儒学や老荘を学んだ。范宣について礼学を学ぼうと豫章に向かったが、中原の戦乱に阻まれて南行できなかった。そこで太行恒山にいた道安に会って感激し、これに師事して仏教を修めた。師に従って各地に転じ、襄陽で般若の学を修めた。師と別れて潯陽にいたり、盧山に東林寺を建てて、多くの求道者を集めた。鳩摩羅什と交際し、弟子を西域につかわして仏典を求め、経典翻訳に努力した。仏僧や隠士を集めて白蓮社を結成し、浄土教の発達の基礎となった。『慧遠文集』。
僧法顕(337?~422?)
  俗姓は龔。平陽郡武陽の人。三歳で出家して沙弥となり、二十歳のとき具足戒を受けた。律蔵の欠けているのを嘆いて、求法を志して、隆安三年(399)に長安を出発した。陸路を通って三十余国を経て北インドにいたった。迦施国を経て、中インドに達し、摩竭提国の天王寺に入って胡語を学び経典・経像をえた。さらに獅子国(セイロン)の仏跡を訪ねて経籍をえた。前後十五年を経て、海路より帰国の途につき、義煕八年(412)に青州牢山にいたった。翌年、建康に行き、道場寺において持ち帰った多くの経典を翻訳にあたった。また西方の旅行見聞を『仏国記』にまとめた。荊州辛寺で寂した。

[註]
1.テイ=テイ
2.イ=イ
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