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前秦

十六国(304~439)]
十六国前趙,後趙,成漢,前涼,前燕,前秦,後秦,後涼,後燕,西秦,南燕,南涼,北涼,西涼,,北燕
十六国以外(西燕,仇池,,冉魏,翟魏,段部,宇文部,
前秦(351~394)]
太祖(苻洪)-高祖(苻健)-厲王(苻生)-世祖(苻堅)-哀平帝(苻丕)-高帝(苻登)-末帝(苻崇)
苻洪(285~350)
  もとの姓は蒲。字は広世。前秦の太祖武恵帝と追尊された。略陽郡臨渭の人。氐族の出身。の永嘉の乱の後、一族に推されて首領となり、前趙の劉曜に帰順し、率義侯に封ぜられた。劉曜が後趙の石虎に敗れると、後趙に降って冠軍将軍となった。石虎に説いて、雍州の民や氐羌十余万を関東に移住させ、流民都督に任ぜられてかれらを任された。二万戸を率いて枋頭に鎮した。のち段を討つのに従軍して功績を挙げ、西平郡公に封ぜられた。太寧年(349)、姚弋仲らとともに犢の乱の鎮圧にあたり、略陽郡公に改封された。石虎の死後、関東は大乱となり、東晋に遣使して降り、征北大将軍・冀州刺史となり、広川郡公に封ぜられた。永和六年(350)、姓を苻と改め、大将軍・大単于・三王を自称した。のち後趙からの降将麻秋に殺された。
苻健(317~355)
  字は建業。前秦の初高祖景帝。在位351~355。苻洪の三男。後趙のとき、翼軍校尉・鎮軍将軍を歴任した。苻洪が没すると、王位を継いだ。ひとたび王号を去り、の征西大将軍・都督関中諸軍事・雍州刺史を自称し、杜洪を破って長安に入った。永和七年(351)、天王・大単于を自称し、皇始と建し、国号を大とした。翌年、帝を称した。内政に努め、百姓と法三章を約し、賦税を薄くして、後趙の苛政を除き、関中を掌握した。皇始四年(354)、東晋の桓温の北伐により、関中に侵入された。桓温の糧食が尽きたため辛くも撃退した。
苻生(335~357)
  字は長生。前秦の二厲王。在位355~357。苻健の三男。騎射を得意とし、武勇にすぐれた。父苻健が天王を称すると、淮南公に封ぜられた。皇始四年(354)、東晋の桓温が関中を攻めたとき、単騎敵陣に突入しての将士多数を殺した。功により中軍大将軍に任ぜられた。翌年、太子に立てられた。苻健が没すると帝位を継ぎ、寿光と改した。奸臣董栄らを重用し、旧臣の毛貴・安・雷弱児・魚遵らを殺害した。寿光三年(357)、禍が己に及ぶのをおそれた苻堅らに襲われ、廃されて越王とされた後、殺された。
王堕(?~356)
  字は安生。京兆郡霸城の人。博学でとくに天文図讖にるかった。後趙の末年、苻洪に従って犢の乱の鎮圧にあたり、司馬に任ぜられた。のちに「苻氏まさに王たるべし」の讖言を苻洪に説いた。苻洪の子の苻健がの天王として立つと、尚書右僕射となり、のち尚書令・司空に進んだ。病床の苻健により、苻生のもとで輔政にあたるよう託された。苻生が立ったが、王堕は性剛峻で直言を好んだので、しだいに遠ざけられた。董栄の讒言に遭い、苻生により誅された。
苻堅(338~385)
  またの名を文玉。字は永固。前秦の三世祖宣昭帝。在位357~385。略陽郡臨渭の人。氐族の出身。苻雄の子。幼いときから敏で、博学多才、祖父の苻洪に愛された。はじめ東海王に封ぜられた。二皇帝となった従兄の苻生の暴虐に危険を感じて、寿光三年(357)に苻生を殺害した。帝号を去って、大天王を称して即位した。前燕を滅ぼし、東晋・益二州を奪い、前涼を併呑し、西域諸国を討って、華北に大帝国を築きあげた。また、人の宰相・王猛を登用して、中国的徳治の政治を行い、官制を整え、歓農につとめた。自民族の氐族のみならず、諸族の宥和をはかった。このため、五胡のうち最も偉大な名君として評価された。江南の東晋を討つべく、建十九年(383)には百万と号する大軍を率いて南征したが、淝水の一戦でもろくも敗れ去った。そのため、前秦に統合されていた諸族は再び分裂・自立し、前秦は急速に弱体化した。淝水の戦いの三年後、符堅は、姚萇(後秦太祖)に捕らえられて殺害された。
王猛(325~375)
  字は景略。北海郡劇県の人。貧家の生まれであったが、博学で兵書を好み、大志を抱いた。はじめ華陰山中に隠棲したが、東晋の桓温が関中に進軍したのを見て、天下の大勢を談じた。のち苻堅に招かれて、枢機に参与し、苻堅の政策・戦略の多くは彼から出た。苻堅が王となると、中書侍郎となった。京兆尹・吏部尚書・尚書左僕射・散騎常侍・司隷校尉などを歴任した。建六年(370)、十万の大軍を率いて前燕を滅ぼし、鄴に鎮した。都督関東六州諸軍事に任ぜられた。のちに丞相に上った。貴戚を抑え、賢良を抜擢し、吏治を刷し、法制を整備し、集権を進め、農業を勧奨して、前秦の国力を増大させた。死にのぞんで東晋制圧を考えてはならぬと遺言したが、その言葉は守られず、淝水の敗戦で前秦崩壊をまねいた。
苻融(?~383)
  字は博休。苻堅の弟。苻健が即位すると、陽平侯に封ぜられた。苻堅が王猛を丞相とすると、王猛にわって冀州牧となった。苻堅の深い信頼をえて関東に鎮し、よく将兵を統御した。のち長安に戻って、侍中・中書監・司隷校尉・太子太傅・録尚書事を歴任した。苻堅に東晋に侵攻しないよう、しばしば諫めた。建十九年(383)、征南将軍となり、二十五万の兵を率いて先鋒をつとめ、東晋の寿春を占領し、軍と淝水で決戦したが、馬倒れて殺された。苻堅が長安に帰った後、大司馬を追贈された。聡で文才もあり、世人はその才を王粲にたとえたという。「浮図賦」。
僧道安(312~385)
  俗姓は。常山の人。仏図澄に師事した。師の入寂後、各地に布教して名声が高かった。襄陽にいたところ、太四年(379)に苻堅が襄陽を陥落させた上で彼を迎えたため、長安に移り住んだ。老荘的な格義仏教を反省して仏教の真義を求めた。仏徒の規律を正して、僧は釈姓を唱うべしとした。『綜理衆経目録』。
苻丕(?~386)
  字は永叔。前秦の四哀平帝。在位385~386。苻堅の長男。経史に通じ、文武に才幹あり、鄧羌に兵法を学んだ。苻堅が即位すると、長楽公に封ぜられた。建十五年(379)、東晋を攻めて襄陽を落とし、将朱序を捕らえた。苻洛の乱を平定した後、都督関東諸軍事・征東大将軍・冀州牧となり、鄴城に鎮した。苻堅が淝水の戦いで敗れた後、慕容垂に攻められて支えきれず、二十一年(385)に陽の張シ※4のもとに奔った。苻堅が姚萇に殺されると、陽の南郊で即位した。翌年、慕容永を攻めて敗北し、南に逃れ、のち東晋の馬該に殺された。
索泮(?~385)
  字は徳林。敦煌郡の人。若いころは遊侠を好んだが、成長すると学問を好んだ。前涼の張天錫に仕えて、冠軍将軍・記室参軍となった。張天錫が即位すると禁中録事となり、のち羽林左監にうつった。また出向して中塁将軍・西郡太守・武威太守・典戎校尉となった。政務は寛容を旨として張天錫に重んじられた。苻堅が前涼を滅ぼすと、河西におけるかれの徳望に嘆じて、別駕に任じた。苻丕のとき、建威将軍・西郡太守に任ぜられた。呂光が姑臧で自立したとき、郡を守って降らず、呂光に捕らわれて殺された。
王永(?~386)
  北海郡劇県の人。王猛の子。前秦の苻堅のとき、扶風太守・幽州刺史を歴任した。淝水の戦いの後、慕容垂が前秦に叛くと、慕容垂の軍に敗れて、和龍と薊城の宮室を焼いて放棄した。建二十一年(385)、壺関に鎮し、のち一万騎を率いて陽の苻丕に合流した。苻丕を帝に擁立し、侍中・都督中外諸軍事・車騎大将軍・尚書令に任ぜられ、河公に封ぜられた。のち司徒・録尚書事に遷り、左丞相に進んだ。姚萇を討つべく四方に檄を飛ばし、呼応して起兵する者がはなはだ多かったという。のち慕容永と戦って敗死した。
苻登(342~394)
  字は文高。前秦五代太宗高帝。在位386~394。苻堅のとき、長安令をつとめた。苻堅の末年、関西大乱となり、河州牧の毛興のもとに逃れ、その司馬となった。毛興が没すると、枹罕の諸氐に推されて首領となった。苻丕により、征西大将軍・開府儀同三司に任ぜられ、南安王に封ぜられた。後秦の姚碩徳を州に攻めて、姚萇の援軍を破った。苻丕が敗亡したのを聞くと、隴東において即位して、太初と改した。衆十余万を集めて、連年にわたって姚萇と争い、勝敗半ばした。太初九年(394)、姚興に敗れて殺された。
徐嵩(?~388)
  字は高。徐盛の子。苻堅のとき、賢良に挙げられ、郎中となった。長安令にうつり、貴戚であっても法を犯す者を容赦なく処断したので、苻堅に目をかけられ、始平郡守・中塁将軍となった。苻堅が淝水に敗れて長安が大乱となると、塁を築いて守りを固め、姚萇の麾下についた。姚萇が苻堅を殺すと、苻登に投じ、鎮軍将軍・雍州刺史に任ぜられた。のちに姚方成の軍に堡塁を攻め落とされ、捕らえられた。姚萇を激しく罵ったため、姚方成に三度斬りつけられ、殺された。苻登は彼の死を嘆き、忠武の諡を贈った。
苻崇(?~394)
  前秦の六末帝。在位394。苻登の長男。太初三年(388)、太子に立てられた。九年(394)、父苻登が姚興に殺されると、湟中において帝を称し、延初と改した。西秦の乞伏乾帰に追われて、隴西王楊定のもとに奔った。兵を率いて反攻し、はじめ勝ったがのち敗れ、乾帰の将に殺されて、前秦は滅んだ。

[註]
1.シ=シ

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