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(1368~1644)]
洪武建文期,永楽宣徳期,正統成化期,弘治正徳期,嘉靖万暦期,天啓崇禎期,南明),タタール,オイラート,鄭氏台湾政権
洪武帝(朱璋)-建文帝(朱允炆)-永楽帝(朱棣)-洪熙帝(朱高熾)-宣徳帝(朱瞻基)-正統帝(朱祁鎮)-景泰帝(朱祁鈺)-天順帝(正統帝の重祚)-成化帝(朱見深)-弘治帝(朱祐トウ)-正徳帝(朱厚照)-嘉靖帝(朱厚ソウ)-隆慶帝(朱載垕)-万暦帝(朱翊鈞)-泰昌帝(朱常洛)-天啓帝(朱由校)-崇禎帝(朱由検)

(1328~1398)
  の洪武帝,太祖⇒。
胡大海(?~1362)
  字は通甫。安徽省泗州の人。至正十四年(1354)、朱璋に投じ、先鋒をつとめた。用兵にすぐれ、軍紀は厳正であった。僉枢密院事に上った。浙江で転戦し、寨粮法の廃止を建議した。江南行省参知政事に進み、華に駐屯した。のちに部下にそむかれて殺された。越国公に追封された。
趙汸(1319~1369)
  字は子常、号は東山。休寧の人。春秋の研究に打ち込み、晩年は東山で著述にはげんだ。『春秋集傳属辞』。
常遇春(1330~1369)
  字は伯仁。安徽省懐遠の人。はじめ劉聚の蜂起に従った。至正十五年(1355)、和州で朱璋に帰順。渡江して采石を抜き、進んで太平を取り、総管府先鋒に任ぜられた。のち総管都督に上った。集慶を攻めるのに従い、最も著しい功績を挙げた。徐達に従って鎮江を取り、常州を破った。中翼大帥となった。浙東を攻めて衢州を落とし、僉枢密院事に進んだ。鄱陽湖の戦いでも功績を挙げた。二十四年(1364)、朱璋が王となると、平章政事となった。平江で張士誠を滅ぼした。中書平章軍国事となり、鄂国公に封ぜられた。大将軍・徐達の下で副将軍をつとめ、北伐に従い朝を漠北に逐った。洪武二年(1369)、李文忠とともに開平に北元軍を破った。凱旋中に病没し、開平王に封ぜられた。
陶宗儀(?~1369)
  字は九成、号は南村。浙江省黄岩の人。朝・張士誠・朝から招聘を受けたが、仕官することなく講学と著述に専念した。の掌故・典章・文物を研究し、小説・戯劇・書画・詩詞を論じた。また自身も詩文にたくみであった。『輟耕録』、『南村詩集』。
危素(1295~1372)
  字は太朴、号は雲林。江西省渓の人。の至正年(1341)、大臣の推薦により経筵検討に任ぜられた。国子助教・翰林院編修・太常博士・監察御史・大司農丞・礼部尚書などを歴任した。三史の編纂に参与した。十八年(1358)参議中書省事・経筵官となった。二十年(1360)、参知政事に上った。二十四年(1364)、翰林学士承旨となった。ボロテムルが相となると、嶺北行省左丞として出された。翌年、官を捨てて房山に住んだ。二十八年(1368)、順帝が北に逃れ、淮王テムルブカが監国となると、翰林学士承旨として再び起用された。の兵が大都に入ったとき、兵が史庫に入るのを説得して止めさせた。召しに応じて南京におもむいた。洪武二年(1369)、翰林侍講学士に任ぜられた。翌年、弘文館学士を兼ねた。同年冬、「亡国の臣を重用すべきでない」との御史の弾劾を受けて、罷免され和州含山に住んだ。博学で文辞をよくし、書に巧みであった。『爾雅略義』、『危太朴集』。
王禕(1322~1374)
  字は子充。浙江省義烏の人。若いとき、黄溍・柳貫について学び、文章にすぐれて世に名をあらわした。の至十八年(1358)、朱璋に任用されて中書省掾吏となり、その才は濂に勝ると称せられた。侍礼郎となり、起居注をつかさどった。二十七年(1367)、漳州通判に左遷された。の洪武二年(1369)、『史』の撰修のため召されて、濂とともに総裁官となった。『史』が成ると、翰林待制・同知制誥・国史院編修官に上った。五年(1372)、王を招諭するため雲南におもむき、殺された。『造邦勛賢録』、『王忠文公集』。
高啓(1336~1374)
  字は季迪、号は青邱子。江蘇省長洲の人。若くして詩名高く、の詩風を伝え、の詩風を開いた。洪武二年(1369)、洪武帝の招聘に応じて、『史』の編纂に従事した。戸部右侍郎に任ぜられたが、固辞して郷里に帰った。七年(1374)、観の罪に連座して刑死した。初第一の詩人と目される。『高太史大全集』。
劉基(1311~1375)
  字は伯温。諡は文成。処州青田の人。名家に生まれて、経・史・理を学び、天文・地理・兵法・易学に精通した。末に進士に及第して高安県丞・江浙儒学副提挙・江浙行省都事などをつとめた。三度召されて三度官を去った。故郷に帰って十年ほどの間、読書と著述に専念したが、朱璋に招かれて仕えた。以後、朱璋の側近として帷幄の謀を献じた。西の友諒と南の張士誠らと鼎立したとき、西の友諒を先に討つことを進言した。友諒が大軍を率いて応天府(南京)に迫ると伏兵をしいてこれを討つよう勧めた。鄱陽湖の戦いで友諒を敗死させるのにも功があった。年(1367)、太史令に任ぜられ、次いで御史中丞を兼ねた。洪武三年(1370)、弘文館学士となり、誠意伯に封ぜられた。朱璋に言を用いられなくなり、胡惟庸に憎まれた。四年(1371)、病を理由に、郷里に帰って隠棲し、酒と囲碁を楽しんだ。胡惟庸による弾劾にあって、都に弁におもむいたが、そのまま急逝した。『劉誠意伯文集』。
胡惟庸(?~1380)
  安徽省定遠の人。至正十五年(1355)、和州で朱璋に投じた。帥府奏差に任ぜられ、のちに主簿・知県・通判・僉事などの官を歴任した。洪武三年(1370)、中書省参知政事となった。六年(1373)、右丞相に上り、また左丞相に進んだ。右丞相・汪広洋が左遷されると、政務を専断した。十三年(1380)、北元や日本と結んで政権転覆を図ったとされ、謀反の罪で誅戮された。連座するもの三万人に及んだ(胡惟庸の獄)。
(1310~1380)
  字は景濂、号は潜渓。浙江省浦江の人。の至正年間に、推薦を受けて翰林院編修に任ぜられたが、固辞して受けなかった。龍門山に隠居して著述し、十余年を過ごした。初に朱璋の召しに応じて応天府(南京)におもむき、江南儒学提挙に任ぜられた。洪武二年(1369)、総裁官となり、『史』編纂にあたった。完成すると、翰林学士となった。国子司業・礼部主事・賛善大夫を歴任した。六年(1373)に侍講学士となり、九年(1376)に学士承旨となった。老齢のため、致仕した。十三年(1380)、胡惟庸の獄に連座して茂州に安置された。翌年、病のため亡くなった。『龍門子』、『浦陽人物記』、『洪武聖政記』、『学士文集』。
(?~?)
  字は則誠、号は東嘉。温州瑞安の人。至正五年(1345)、進士に及第し、処州の録事に任ぜられた。八年(1348)、方国珍の叛乱を討伐する軍に従軍。方国珍はに帰順し、高を幕下に誘ったが従わなかった。のちに官を退き、詞曲の創作に打ち込んだ。朱璋は彼の名声を聞いて招聘しようとしたが、佯狂してこれを避けた。寧波で没した。『琵琶記』。
施耐庵(?~?)
  字は子安。江蘇省興化の人。至順年間に進士に及第した。銭塘の知県をつとめたが、官界に合わず致仕した。以後、郷里で著述に専念した。末に張士誠の乱に参加したともいう。『水滸伝』の作者とみなされている。
羅貫中(?~?)
  名は本、号は湖海散人。山西省太原の人。『三国志通俗演義』、『志伝』、『残五代史演義』、『三遂平妖伝』などを書き、『水滸伝』の成立にも参与したといわれる。また、雑劇『風雲会』、『蜚虎子』、『連環珠』の作者でもあった。
李文忠(1339~1384)
  字は思本。江蘇省鳳陽の人。末に紅巾軍に加わり、朱璋の養子となった。舎人として親軍を統領し、驍勇は諸軍に冠絶した。しばしば軍を破り、枢密院僉事に上った。至正二十二年(1362)、華の乱を平定し、浙東行省左丞に任ぜられた。二十六年(1366)、杭州を取り、栄禄大夫・浙江行省平章政事を加えられた。の洪武二年(1369)、常遇春に従って塞外に出征した。常遇春が亡くなると、わって軍を率いた。翌年、徐達と道を分かれて北進し、応昌を攻め、北元の太子マイダリバラを捕らえ、玉璽を得た。大都督府左都督となり、曹国公に封ぜられた。四年(1371)、におもむき、成都城を築いた。十二年(1379)、提督大都督府参賛軍国事・領国子監となった。晩年、太祖を諫めたため、責めを受けた。まもなく病没した。岐陽王に追封された。
徐達(1332~1385)
  字は天徳。安徽省濠州の人。朱璋と同郷で農家に生まれた。至正十一年(1351)に紅巾の乱が起こると、その翌年朱璋の麾下で濠州の蜂起に参加した。十六年(1556)に集慶(南京)を陥す一翼をになった。鎮江に進撃して、常州・常熟を抜き、張士誠の勢力を弱体化させた。二十三年(1363)、友諒との間の鄱陽湖の戦いでは先鋒をつとめ、猛火の中を勇戦して敵を撃退した。翌年、朱璋が王として自立すると左相国に任ぜられ、二十六年(1366)には大将軍に上った。張士誠を討って江南を平定した。翌年から征虜大将軍として大軍を率いて北伐し、山東・河南を降し、洪武年(1368)には大都を攻め陥して、河北を平定した。以後、連年北伐してココティムールの軍と戦った。国公に封ぜられ、死後に中山王を追贈された。朝開国の功臣の第一とされる。
王蒙(?~1385)
  字は叔。湖州の人。黄鶴山に隠棲して詩文書画に親しんだ。とくに画にひいで、山岳描写を得意とした。のちに張士誠に仕えた。になって、泰安の知州に任官した。しかし、胡惟庸の乱に連座して獄死した。黄公望・倪サン・鎮とともに末の四大家のひとりといわれる。「泉声松韻図」、「古木含秋図」など。
(1327~1387)
  字は仲温。江蘇省蘇州の人。南宮里に住んだため、南宮生と号した。若くして武芸を習い、呉越の間に遊んだ。張士誠に招かれたが、官に就かなかった。郷里に帰り、文物を蒐集し、書法をきわめることに意をつくした。洪武四年(1371)、鳳翔同知に任ぜられ、任地で没した。『七姫権厝志』、『急就章』。
何真(?~1387)
  字は邦佐。東莞の人。若くして書と剣を好んだ。の至正初年、河源県務副使となり、淡水場管勾に転じたが、官を捨てて帰郷した。末に叛乱が続発すると、人々を集めて郷土の防にあたった。十四年(1354)、王成・仲玉らの乱を帥府に報告したが、賄賂を受けた府がかえって何真を捕らえた。居坭岡に逃れて挙兵し、王成を攻めたが勝てなかった。王仲剛・黄常の乱を討って、功により恵陽路同知・広東都帥に任ぜられた。海賊の邵宗愚を討って、広東分省参政に進み、右丞に抜擢された。熊天瑞・仲玉・王成らを次々と撃破して、嶺表・沿海地方を制圧した。の洪武年(1368)、の廖永忠の説得を受けて降った。山東参政・山西右布政使・浙江布政使などを歴任した。
李善長(1314~1390)
  字は百室。安徽省定遠の人。朱璋が滁陽を攻略したとき、出仕して掌書記となった。朱璋の深い信任を受け、帷幕に参与した。朱璋が巣湖の水軍を得たとき、渡江を勧め、集慶を陥すのに奇謀を献じた。帥府都事・江南行中書省参議・参知政事などをつとめた。朱璋が王に上ると、右相国に任ぜられ、宣国公に封ぜられた。劉基とともに大律の制定にあたった。洪武三年(1370)、光禄大夫・左柱国・太師・中書左丞相に上り、韓国公に封ぜられた。翌年、病のため致仕した。二十三年(1390)、胡惟庸の獄に連座して殺された。
徐賁(1335~1393)
  名は幼文、号は北郭生。江蘇省毗陵の人。のち平江(蘇州)にうつった。詩文にたくみで、画をよくし、山水を五代の董源に私淑して、中四傑のひとりに数えられた。また高啓らとともに北郭十友と号された。末に張士誠に召されたため、湖州山に居を避けた。朱璋が平江を落とすと、臨濠にうつり、呉越の間を往来しながら、詩文をもって友人らと交遊した。洪武七年(1374)、推挙を受けて南京に上り、給事中・刑部主事・広西参議・河南左布政使を歴任した。十二年(1379)、軍隊への賞賜が不公正だったため、獄に下され、衰弱して没した。『北郭集』。
藍玉(?~1393)
  安徽省定遠の人。常遇春の妻の弟にあたる。はじめ常遇春の麾下に従い、功績を重ねた。朱璋のもとで推挙されて管軍鎮撫となり、大都督府僉事に上った。傅友徳に従って征の戦に、徐達に従って北伐に、沐英に従って西蕃討伐に、転戦して功を挙げた。洪武十二年(1379)、永昌侯に封ぜられた。二十年(1387)、大将軍に上り、蘇州に鎮した。翌年、北元を攻めてトグス・テムルを破り、涼国公に封ぜられた。洪武帝はかれを青やの李靖と比して讃えたという。功績にたのんで驕慢な行いが多く、私田を蓄え、多くの仮子を迎えるなどした。二十六年(1393)、謀反の罪で殺された。連座するもの一万五千人に及んだ(藍玉の獄)。
湯和(1326~1395)
  字は鼎臣。安徽省濠州の人。朱璋と同郷で少年のころから友となった。至正十二年(1352)、郭子興の濠州蜂起に参加した。朱璋の下で、定遠・滁州・和州と転戦し、渡江して野先を捕らえ、集慶(南京)を陥す一翼をになった。徐達に従って鎮江を取り、統軍帥・枢密院僉事に進み、常州に鎮した。張士誠討滅に従い、また征南将軍となって方国珍・友定を討った。また北伐に従って、ココティムールを破った。洪武十一年(1378)、信国公に封ぜられた。十八年(1385)、朱璋が諸将の兵権を解こうとはかったので、先んじて郷里に帰った。のち倭寇に対する防禦のため、沿海の築城にあたった。病没し、東甌王に追封された。
黄子澄(1350~1402)
  名は湜。子澄は字。洪武年間に進士に及第した。翰林院編修・翰林院修撰・太常寺卿を歴任した。建文帝が即位すると、翰林学士を兼ね、泰とともに国政に参与した。諸王領の削減をはかり、燕王朱棣(のちの永楽帝)に奸臣と名指しされた。燕王朱棣が靖難の兵を挙げると、軍務をつかさどり、耿炳文にえて李景隆を推薦して燕王を討たせた。李景隆が敗れて軍を失ったため、黄子澄は勤王の兵を募るため、出向した。南京が陥落すると、嘉興に逃れたが、告発を受けて捕らえられ、一族とともに殺された。
(?~1402)
  もとの名は徳。字は徳洪。江蘇省溧水の人。洪武年間に進士に及第した。洪武帝の命により改名した。兵部左侍郎に上った。建文帝が即位すると、黄子澄とともに国政に参与し、諸王削藩の策を実行し、前後して周・・湘・・岷の五王を廃した。建文年(1399)、燕王朱棣が靖難の兵を挙げると、燕王により奸臣の首と名指しされた。四年(1402)、燕軍が南京を破ると、捕らえられて屈せず、死んだ。
鉄鉉(1366~1402)
  字は鼎石。河南省鄭州の人。の洪武年間、太学生から礼科給事中となり、都督府断事に任ぜられた。建文初年、山東参政となり、済南に鎮した。燕王の兵を破った功により、兵部尚書に上った。燕王朱棣(永楽帝)が南京を落とし、帝位につくと、鉄鉉は捕らえられて惨殺された。
方孝儒(1357~1402)
  字は希直、号は正学。浙江省寧海の人。濂に師事し、学識の高さで有名だった。はじめ洪武帝に召され、中府教授などをつとめた。建文帝が即位すると、翰林院侍講となり、ついで侍講学士となった。燕王朱棣(のちの永楽帝)が起兵すると、強硬な大義名分論を唱えて建文帝の戦意をあおった。燕王が靖難の変に勝利したため、捕らえられた。燕王は彼に即位の詔勅の草案を作らせようとしたが、拒絶して「燕賊簒位」と書いた。激怒した永楽帝により親族や門人らとともに処刑された。
李景隆(?~?)
  江蘇省盱眙の人。李文忠の子。読書して典故に通じた。父が没すると爵位を継ぎ、左軍都督府事となり、太子太傅を加えられた。建文帝が即位すると、重く信任された。建文年(1399)、燕王朱棣が靖難の兵を挙げると、耿炳文にわって大将軍となり、燕軍と戦ったがしばしば敗れた。四年(1402)、燕軍に講和を打診したが成らず、燕兵が長江を渡って川門を攻めると、降伏した。永楽帝が即位すると、光禄大夫・左柱国に進んだ。永楽二年(1404)、群臣の弾劾にあって爵位を削られた。永楽末年に凍え飢えて死んだ。
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歴代皇帝,,三国,,北朝,南朝,,,五代,,,,
(1368~1644)]
(1328~1398)
  もとの名は重八。字は国瑞。の初洪武帝。廟号は太祖。在位1368~1398。安徽省濠州の人。朱世珍の四男。母は氏。貧農の出で、至正四年(1344)に両親が疫病で死没すると、皇覚寺で出家した。十二年(1352)に故郷で郭子興の紅巾軍に入り、頭角をあらわした。徐達・湯和らの武将や李善長・劉基・濂らの文人が彼のもとに集まった。十五年(1355)、紅巾軍最大勢力をなした劉福通が韓林児を擁して国を立てると、その政権下に入り、左副帥となる。翌年、集慶(南京)を攻撃中、郭子興が殺されたため、その部隊を引き継ぎ、集慶を落として応天と改名し、根拠地とした。二十三年(1363)、友諒を鄱陽湖の戦いで破り、二十七年(1367)、張士誠の拠点である蘇州を落として張を自殺させた。同年に浙江の方国珍を降し、翌年に福州の友定を捕殺した。二十八年(1368)に応天で即位し、年号を洪武と改め、国号をとした。同年に徐達を統帥としたの大軍が北上し、大都に入った。の順帝は北へ逃れた。洪武二十年(1387)、中国を統一した。即位後は、王朝の存続に腐心するあまり、功臣を次々と粛正した。左丞相の胡惟庸を殺し、一万人以上を連座させて殺したのを皮切りに、開国の勲の李善長に死を賜り、三万人余を族誅、藍玉を謀反の罪で処刑し、一万五千人を連座させた。丞相を廃し、皇帝が六部を直轄する皇帝独裁の支配を確立。魚鱗図冊と呼ばれる土地台帳や賦役黄冊と呼ばれる租税台帳を作り、里甲制という村落行政制度を整備して、管理を強化した。対外的には、民族による民族国家指向をみせ、朝貢貿易制度を布いたが、の世界帝国指向はそこになく、鎖国的とみなされた。
朱允炆(1383~1402)
  の二建文帝。恭閔恵皇帝。在位1398~1402。太祖(朱璋)の皇太子朱標の次男。洪武二十五年(1392)、皇太孫に立てられた。三十一年(1398)、太祖が崩ずると、即位した。州県を併合し、官吏の冗員をはぶき、寛政をしいて、罪人を釈放した。兵部尚書泰・太常卿黄子澄を登用して宗室諸王の削藩をはからせた。燕王朱棣がこれに反対して起兵すると、相次いで耿炳文・李景隆を大将軍として征討にあたらせたが、連敗し、泰・黄子澄を解任した。建文二年(1400)、盛庸を平燕将軍として燕王を討たせると、東昌で燕軍を破った。三年(1401)、泰・黄子澄の官を復した。四年(1402)、燕兵が長江を渡り、李景隆らが燕王に降ると、宮中から火が起こって、帝は焼け死んだ。一説に僧侶の姿で各地を流浪し、号を応文といったという。
朱棣(1360~1424)
  の三永楽帝。廟号は成祖。在位1402~1424。太祖(朱璋)の四男。母は馬皇后とされるが、疑義もある。洪武三年(1370)に燕王に封ぜられて、十三年(1380)に北平に鎮した。二十三年(1390)に北伐し、北元の乃児不花を捕らえた。建文年(1399)、建文帝(朱允文)による諸王領削減に反対し、泰・黄子澄を除くことを名分として起兵した(靖難の変)。四年にわたる激戦の末、南京を落とし、帝位を奪った。即位後、建文年号を除き、建文遺臣に苛酷な誅罰を加えた。諸王領削減を継続し、内閣を設置し、宦官を重用し、東廠を建て、錦衣の獄を復活させ、集権統治につとめた。北方経営を重視し、北平を北京と改め、五回にわたって漠北に親征した。対外積極策を取り、黒龍江の北に奴児干都司を置き、西北に貴州布政使を開き、南に安南を併合した。七回にわたって鄭和率いる大船団を派遣して、東南アジア、インド沿岸、アラビア、アフリカ東岸の諸国に朝貢を求めた。永楽十九年(1421)、北京に遷都した。また『永楽大典』『四書大全』『五経大全』『性理大全』などの大規模な編纂事業をおこなった。二十二年(1424)、群臣の反対を押し切って五度目の漠北親征をおこない、帰還の途中に楡木川で病のため崩じた。
朱高熾(1378~1425)
  の四洪熙帝。廟号は仁宗。在位1424~1425。成祖(朱棣)の長男。洪武二十八年(1395)、燕世子となった。父の朱棣が靖難の師を起こすと、北平の留守を守った。永楽二年(1404)、皇太子となった。成祖が北伐をおこすたびに、監国をつとめた。弟の王朱高煦が軍功により寵愛をえて、太子に取ってわることを望んだが、果たさなかった。二十二年(1424)、成祖が崩ずると、帝位についた。内政につとめ、英主と期待されたが、在位一年足らずで崩じた。
朱瞻基(1399~1435)
  五代宣徳帝。廟号は宣宗。在位1425~1435。仁宗(朱高熾)の長男。永楽九年(1411)に皇太孫に立てられ、成祖(朱棣)の北巡や征討にしばしば同行した。仁宗が即位すると、皇太子となった。洪煕年(1425)、仁宗が崩ずると即位した。宣徳年(1426)、王の変を平定した。翌年、閣臣の楊士奇・楊栄らの議に従って、交趾への出兵を停止した。吏治と財政の整理につとめて、仁宗の時期と合わせて仁宣の治と後世に称揚された。しかし、田賦の減免は空文に終わり、内朝における宦官の権力がさらに強化されるなど、課題を残した。
朱祁鎮(1427~1464)
  の六正統帝。重祚して八天順帝。廟号は英宗。在位1435~1449、1457~1464。宣宗(朱瞻基)の長男。九歳のとき即位。太皇太后張氏に後見され、三楊(楊士奇・楊栄・楊溥)に補弼された。三楊の死後、宦官の王振に専権をふるわれ、政治は腐敗して土地の兼併が横行し、葉宗留の乱や鄧茂七の乱などの民衆叛乱も頻発した。正統十四年(1449)、オイラート部の侵入があり、王振の進言に従ってみずから迎撃しようとした。しかし土木堡においてオイラート部のエセン・ハーンの捕虜となった(土木の変)。翌年、釈放されて帰国したが、すでに弟の朱祁鈺(宗)が即位しており、太上皇帝として南宮に幽閉された。景泰八年(1457)、石亨・徐有貞・曹吉祥らによって擁立され、ふたたび帝位についた。
朱祁鈺(1428~1457)
  の七景泰帝。廟号は宗。在位1449~1457。宣宗(朱瞻基)の次男。宣徳十年(1435)、郕王に封ぜられた。正統十四年(1449)、土木の変によって兄の英宗(朱祁鎮)がオイラート部の捕虜となると、皇太后の命により監国となり、一月後に帝位についた。于謙を任用して軍事を統括させ、北京の守りを強化し、京畿近郊でオイラート部を撃退した。英宗が帰国すると、太上皇として南宮に監禁した。景泰八年(1457)、英宗が復辟すると、廃されて郕王となり、西宮で亡くなった。成化十一年(1475)に帝号を復された。
朱見深(1447~1487)
  の九成化帝。廟号は憲宗。在位1464~1487。英宗(朱祁鎮)の長男。正統十四年(1449)、皇太子に立てられた。景泰年間に沂王に落とされたが、天順年(1457)に、再び皇太子に立てられた。八年(1464)、英宗が崩ずると、帝位についた。于謙の名誉を回復し、宗(朱祁鈺)の帝号を復した。宦官の汪直を重用して、西廠を設置し、検察刑獄をまかせた。しばしば疑獄事件が起こり、朝政は日増しに腐敗していった。民間の不満は高まり、荊襄の流民の乱や大藤峡の瑤族の乱が起こった。
朱祐トウ(1470~1505)
  の十弘治帝。廟号は孝宗。在位1487~1505。憲宗(朱見深)の三男。成化十一年(1475)、皇太子に立てられた。二十三年(1487)、憲宗が崩ずると、帝位についた。即位後は、奸臣をしりぞけ、僧侶や道士の封号を廃した。正直練達の士を多く起用して、ときに「朝、君子多し」といわれた。財政危機を解決するため、光禄寺の費用を削減し、宗室や勲戚が民田を占有するのを禁じた。『大会典』を編纂させ、『問刑条例』を修訂させた。後世に弘治の中興と讃えられた。
朱厚照(1491~1521)
  の十一正徳帝。廟号は武宗。在位1505~1521。孝宗(朱祐トウ※7)の長男。弘治五年(1492)、太子に立てられた。遊興にふけり、チベット仏教を尊崇して、大慶法王と号した。十八年(1505)、孝宗が崩ずると、帝位についた。はじめ宦官の劉瑾ら八人に政務を任せた。かれらは八虎と称された。のちに江彬・銭寧らを重用して、国姓の朱姓を授けた。微行を好み、威武大将軍朱寿を自称して北辺を漫遊し、兵をもてあそんだ。政治の腐敗により叛乱が相次ぎ、劉六・劉七の農民軍が京師に迫り、また宗室も謀反を起こした。正徳十六年(1521)、南方巡幸の帰途に京師の郊外の豹房で崩じた。
朱厚ソウ(1507~1566)
  の十二嘉靖帝。廟号は世宗。在位1521~1566。興献王朱祐杬の子。正徳十六年(1521)、藩王の身から帝位を継いだ。即位後、武宗が寵愛した銭寧・江彬を処刑して、宮中の官員を整理し、先の弊風を一した。しかし、皇考に実父の興献王をあてようとし、先の武宗とする廷臣たちと論争し、意見の異なる臣下を二百人あまりも解任または投獄した(大礼の議)。道教を尊崇して、真君・仙翁・帝君を自称した。嘉靖二十一年(1542)より朝見することをやめ、二十年にわたって権臣の厳嵩らに政務を委ねた。在位中、タタール部のアルタン・ハーンが西北を騒がせ、二十九年(1550)には北京を囲んだ。また海禁を厳しくしたため、かえって倭寇が活発化し、東南沿海をしばしば襲撃した。四十二年(1563)、兪大猷・戚継光が福建で倭寇を破り、ようやく下火となった。晩年は方士を盲信して、四方に珍宝を探索させた。方士が献上した丹薬を服して中毒死した。
朱載垕(1537~1572)
  の十三隆慶帝。廟号は穆宗。在位1567~1572。世宗(朱厚ソウ※8)の三男。嘉靖四十五年(1566)、世宗が崩ずると帝位についた。父が重用した諸臣をしりぞけ、方士たちを殺した。隆慶二年(1568)、勳戚の荘田を制限ししようとしたが、まもなく頓挫した。五年(1571)、アルタン・ハーンに交易を許し、北方からの圧力を緩和した。内政の努力も報われることなく、財政難は解消しなかった。
朱翊鈞(1563~1620)
  の十四万暦帝。廟号は神宗。在位1572~1620。穆宗(朱載垕)の三男。隆慶二年(1568)、皇太子に立てられた。六年(1572)、穆宗が崩ずると帝位についた。高拱・張居正・高儀らが補政した。張居正の改革により、税収は増え、国勢は一時回復した。北方には李成を起用して、国境も安定した。万暦十年(1582)、張居正が亡くなると親政をはじめた。張居正の官爵を奪い、一家を断絶させた。日本の朝鮮侵攻に対する援朝軍の派遣や東北での後金勃興に対処するため軍費が増大し、財政が逼迫した。東林党が内閣と争い、四十三年(1615)には挺撃の案が起こるなど、政府内の党争は激化した。帝は治世の後半二十五年間にわたって朝廷に出なかったという。
朱常洛(1582~1620)
  の十五代泰昌帝。廟号は光宗。在位1620。神宗(朱翊鈞)の長男。神宗が福王朱常洵を偏愛したため、久しく太子に立てられず、万暦十四年(1586)から十五年にわたって後継者をめぐる党争が続いた(争国本事件)。二十九年(1601)、はじめて皇太子に立てられた。四十三年(1615)の挺撃の案ののち、ようやく地位が固まった。四十八年(1620)、神宗が崩ずると、即位した。在位一月で、鴻臚寺丞の李可灼の献じた紅丸を服用して中毒死した。
朱由校(1605~1627)
  の十六天啓帝。廟号は熹宗。在位1620~1627。光宗(朱常洛)の長男。泰昌年(1620)、光宗が崩ずると、即位した。東でしばしば軍は後金のために敗北を喫し、白蓮教徒の乱が山東で起こり、奢崇・安邦彦らが西南で起兵するなど、辺難が続いた。乳母の客氏と宦官の忠賢を信任して、しばしば大獄が起こり、東林党人を迫害した。天啓六年(1626)、ついに陝西で流民の叛乱が起こった。翌年、病のため崩じた。
朱由検(1610~1644)
  の十七崇禎帝。廟号は思宗、のちに改めて毅宗。在位1627~1644。光宗(朱常洛)の五男。天啓二年(1622)、信王に封ぜられた。七年(1627)、兄の天啓帝(朱由校)が崩ずると、遺命を受けて帝位についた。即位後、忠賢らの党与を処罰して政争を鎮め、国政の再建につとめた。しかし、袁崇煥を冤罪で殺してしまうなど功臣を信じず、北方から後金が台頭してくるのをとどめることはできなかった。また内政においても、重税と飢饉が重なって農村は荒廃をきわめ、民衆叛乱の火は燃え広がるばかりとなった。崇禎十七年(1644)、李自成軍が北京を攻め落とし、帝は煤山において自殺した。かれの死によっては滅んだ。
朱由崧(1607~1646)
  南明の弘光帝。廟号は安宗。在位1644~1645。福王朱常洵の長男。崇禎十四年(1641)、李自成が洛陽を陥落させ、父の常洵が殺されると、河南の懐慶に逃れた。十六年(1643)、福王の爵位を継いだ。十七年(1644)、李自成が懐慶を落とすと淮安に逃れ、北京が陥落すると鳳陽総督の馬士英に擁されて南京にいたった。まず監国を称し、まもなく帝を称した。朝臣に内紛が絶えず、主戦派の史可法を排した。弘光年(1645)、軍が南下して南京を占領すると、蕪湖に逃れて黄得功を頼ったが、まもなく捕らえられ、北京に送られた。翌年に殺された。
朱聿鍵(1602~1646)
  南明の隆武帝。廟号は紹宗。在位1645~1646。崇禎五年(1632)、王の爵位を継ぎ、南陽に鎮した。九年(1636)、軍をほしいままに動かしたとして、廃されて庶人とされ、鳳陽に軟禁された。弘光のとき、恩赦にあって広西の平楽にうつされることになった。道中、弘光帝(朱由崧)が軍に捕らえられると、福州で鄭鴻逵・黄道周らに擁立されて、帝を称した。隆武二年(1646)、軍が福建に入ると、汀州に逃れ、将の李成棟に殺された。永暦朝により思文皇帝と追尊された。
朱以海(1618~1662)
  南明王。の太祖(朱璋)十世の孫にあたる。崇禎十七年(1644)、王を継いだ。弘光帝(朱由崧)が軍に捕らえられると、銭粛楽・朱大典らに擁されて、紹興で監国となった。ときに浙東で抗の軍が次々と起こり、諸軍を遣わして銭塘江を守らせた。また各地の南明将領の間の抗争は熾烈で、福建の隆武朝と正統を争った。監国年(1646)、軍が銭塘江を渡ると、浙東を守ることができず、海上に逃亡した。四年(1649)、舟山に進駐した。六年(1651)、軍が舟山を攻め落とすと、張煌言らに従って厦門にいたり、まもなく門にうつった。八年(1653)、監国の号を除いた。のち門で病没した。
朱聿鍔(?~1646)
  南明の紹武帝。在位1646。隆武二年(1646)、王に封ぜられた。兄の隆武帝(朱聿鍵)が滅ぶと、広州に逃れ、まもなく帝を称した。肇慶で立った永暦帝(朱由榔)の攻撃を受けたが、撃退した。のち軍に広州を陥され、李成棟に捕らえられて殺された。
朱由榔(1623~1662)
  南明の永暦帝。在位1646~1662。桂王朱常瀛の子。崇禎九年(1636)、永王に封ぜられた。隆武のとき、桂王を継いだ。隆武二年(1646)、丁魁・瞿式耜らに擁されて、肇慶で監国となり、まもなく帝位についた。両広・雲貴・湖広・四川・江西の地に展開し、大順・大西の農民軍の残党の帰順を容れ、鄭成功の海上での活動と連絡して、一時期は抗の気勢が高まった。しかし、朝臣の党争はつづき、行在も定まらなかった。農民軍出身の孫可望がに降って、情勢は決定的に不利になった。永暦十年(1656)、李定国に迎えられて昆にいたった。十二年(1658)、軍が雲南に入ると、西に逃れた。翌年、ビルマに入った。ビルマ人によって捕らえられて軍に引き渡され、呉三桂により昆篦子坡で殺害された。
歴代皇帝(清)