0o0dグッ

西燕

十六国(304~439)]
十六国前趙,後趙,成漢,前涼,前燕,前秦,後秦,後涼,後燕,西秦,南燕,南涼,北涼,西涼,,北燕
十六国以外(西燕,仇池,,冉魏,翟魏,段部,宇文部,
西燕(384~394)]
済北王(慕容泓)-威帝(慕容沖)-燕王(段随)-燕王(慕容顗)-燕帝(慕容望)-燕帝(慕容忠)-河東王(慕容永)
慕容泓(?~384)
  西燕の初済北王。在位384。昌黎郡棘城の人。鮮卑族慕容部の出身。前燕の慕容儁の子。前燕のとき、済北王に封ぜられた。前燕が滅亡すると、前秦に服属して北地長史をつとめた。建二十年(384)、淝水の戦いで前秦が敗れると、関東の鮮卑の勢力を結集して華陰に駐屯した。都督陝西諸軍事・大将軍・雍州牧・済北王を自称し、長安に進軍しようとした。しかし、途上で臣下の高蓋らに謀殺された。西燕は短命の王朝だったため、十六国に数えられていない。
慕容沖(359~386)
  西燕の二威帝。在位384~386。前燕の慕容儁の子。前燕のとき、中山王に封ぜられた。前燕が滅びると、前秦の捕虜となり、のち平陽太守に任ぜられた。淝水戦後、前秦に叛いて起兵し、戦い敗れて兄の慕容泓のもとに投じた。慕容泓が部将に殺されると、皇太弟に立てられた。長安に進軍し、阿房宮に拠って帝を称した。長安において兵にほしいままに掠奪させ、民衆の多くは逃散した。後燕の慕容垂が関東で強盛となったので、東帰しようとせず、部衆に怨まれた。部将の韓延に攻め殺された。
段随(?~386)
  西燕の三。在位386。慕容沖が左将軍の韓延に殺されると、燕王に立てられた。在位一月にして慕容永・慕容恒らに殺された。
慕容顗(?~386)
  西燕の四。在位386。慕容桓の子。父の跡を継いで宜都王に封ぜられた。段随が慕容永・慕容恒らに殺されると、燕王に立てられた。鮮卑四十余万口を率いて長安を去り、東に向かおうとした。臨にいたって、慕容韜に殺された。
慕容望(?~386)
  慕容瑤ともいう。西燕五代。在位386。慕容沖の子。慕容顗が没すると、慕容恒により擁立された。まもなく、慕容永に捕らえられ殺された。
慕容忠(?~386)
  西燕の六。在位386。慕容泓の子。前燕のとき、寧東将軍に任ぜられた。建煕四年(363)、兵を率いて東晋の滎陽を攻め落とした。十年(369)、東晋の檀玄に捕らえられた。西燕の更始二年(386)、慕容沖が殺されて以後の西燕では内紛が続いたが、慕容永により擁立され、帝を称した。建武と改した。聞喜にいたって慕容垂をおそれて東進をやめ、燕煕城を築いて拠った。まもなく刁雲に殺された。
慕容永(?~394)
  西燕の七河東王。在位386~394。西燕の慕容沖のとき、はじめ小将に任ぜられ、のち尚書に累進した。慕容沖が殺され、段随が立てられると、段随を殺して慕容顗を立てた。衆を率いて長安を離れ、東に向かった。臨にいたって、慕容韜が慕容顗を殺して慕容望を立てると、慕容望を殺して慕容忠を立てた。慕容忠のもとで太尉・尚書令となり、河東公に封ぜられた。聞喜にいたって刁雲らが慕容忠を殺して、慕容永を大将軍・大単于・河東王に推した。後燕に藩属し、前秦の苻丕を襄陵で破った。長子において帝を称し、中興と改した。中興九年(394)、後燕の慕容垂に長子に攻め入られ、捕殺された。西燕はここに滅んだ。

人物事典トップへもどる