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(前11c.~前284)]
西周,東周,春秋,戦国,,,,,,,,,蔡,曹,鄭,燕,,越,趙,,韓
微子啓-微仲(衍)-公(稽)-丁公(申)-湣公(共)-煬公(煕)-厲公(鮒祀)-釐公(挙)-恵公-哀公-戴公-武公(司空)-宣公(力)-穆公(和)-殤公(与夷)-荘公(馮)-湣公(捷)-君(游)-桓公(禦説)-襄公(茲甫)-成公(王臣)-君(禦)-昭公(杵臼)-文公(鮑)-共公(瑕)-平公(成)-公(佐)-景公(頭曼)-昭公(特)-悼公(購由)-休公(田)-辟公(辟兵)-剔成-偃
微子啓(?~?)
  微子啓⇒。
微仲(?~?)
  名は衍。の帝乙の庶子。微子啓の弟にあたる。微子啓の跡を継いで公となった。
公稽(?~?)
  名は稽。の微仲(衍)の子。微仲が亡くなると、跡を継いだ。
の丁公(?~?)
  名は申。公稽の子。公稽が亡くなると、跡を継いだ。
の湣公(?~?)
  名は共。の丁公(申)の子。丁公が亡くなると、跡を継いだ。
の煬公(?~?)
  名は煕。の丁公(申)の子。の湣公(共)の弟にあたる。湣公が亡くなると、跡を継いだ。
の厲公(?~前859)
  名は鮒祀。在位前?~前859。の湣公(共)の子。煬公(煕)を殺して、自ら即位した。
の釐公(?~前831)
  名は挙。在位前859~前831。の厲公(鮒祀)の子。厲公が亡くなると、跡を継いだ。
の恵公(?~前801)
  名はカン。在位前831~前801。の釐公(挙)の子。釐公が亡くなると、跡を継いだ。
の哀公(?~前800)
  在位前801~前800。の恵公の子。恵公が亡くなると、跡を継いだ。
の戴公(?~前766)
  在位前800~前766。の哀公の子。哀公が亡くなると、跡を継いだ。
の武公(?~前748)
  名は司空。在位前766~前748。の戴公の子。戴公が亡くなると、跡を継いだ。
の宣公(?~前729)
  名は力。在位前748~前729。の武公(司空)の子。武公が亡くなると、跡を継いだ。十九年(前729)、病床に臥し、弟の和(穆公)に位を継ぐよう懇請して亡くなった。
の穆公(?~前720)
  名は和。在位前729~前720。の武公(司空)の子。の宣公(力)。宣公が亡くなると、跡を継いだ。九年(前720)、病床に臥し、孔父嘉を召して甥の与夷(殤公)を位につけるよう遺言して亡くなった。
の殤公(?~前710)
  名は与夷。在位前720~前710。の宣公(力)の子。宣公のとき、太子となった。宣公十九年(前729)、宣公が弟の和(穆公)を即位させるよう遺言したため、与夷は即位できなかった。穆公九年(前720)、穆公は与夷が即位するよう遺言し、穆公が亡くなると、跡を継いだ。年(前719)、穆公の子の馮が鄭にいることをおそれて、鄭を討ち、鄭の東門までいたった。翌年、鄭の報復を受けて、攻め込まれた。連年、攻戦にけ暮れ、・蔡と結んで鄭に対抗した。十年(前710)、太宰の華父督が大司馬の孔父嘉を殺して、その妻を奪った。殤公が華父督を譴責したので、華父督は「十年で十一戦して、民は命に堪えられない」という名分を口実に殤公を弑した。
の荘公(?~前692)
  名は馮。在位前710~前692。の穆公(和)の子。穆公が与夷(殤公)に位を継がせることを決めると、馮は鄭に出された。殤公(与夷)が華父督に殺されると、迎えられて跡を継いだ。年(前709)、華父督を宰相とした。九年(前701)、鄭の祭仲を捕らえて、突(厲公)を鄭君として立てることを承諾させた。
の湣公(?~前682)
  名は捷。在位前692~前682。の荘公(馮)の子。荘公が亡くなると、跡を継いだ。三年(前689)、とともにを討ち、の恵公を復位させた。八年(前684)、とともにを攻めたが乗丘で敗れ、将の南宮万が捕らえられた。送還を求めたところ、南宮万の身柄は返還された。翌年、に洪水が起こり、この災いを湣公は自分の罪といって責めた。十年(前682)、南宮万とともに狩猟に出かけ、博の勝負をして争いとなり、湣公は「の捕虜」と言って南宮万を辱めた。湣公は蒙沢で南宮万に殴り殺された。
君游(?~前682)
  在位前682。の湣公十年(前682)秋、湣公が南宮万に殺されると、游は南宮万によって擁立された。同年冬、蕭国との公子たちの攻撃を受けて殺された。
の桓公(?~前651)
  名は禦説。在位前682~前651。の荘公(馮)の子。湣公(捷)の弟にあたる。の湣公十年(前682)秋、湣公が南宮万に殺されると、亳に逃れた。南宮万の弟の南宮牛の軍に亳を包囲された。同年冬、蕭国との公子たちが南宮牛を攻めて殺し、君游を拭すと、禦説はの君主として擁立された。に逃れた南宮牛を捕らえさせて殺させた。二年(前680)、諸侯の攻撃を受け、の都の郊外まで攻め込まれた。二十三年(前660)、の公子燬(文公)をから迎えて、の君主の位につかせた。三十年(前652)、病の床についた。太子の茲甫が庶兄の目夷に跡目を譲ろうとしたが、桓公は許さなかった。翌年春、亡くなった。
の襄公(?~前637)
  名は茲甫。在位前651~前637。の桓公(禦説)の子。桓公の死後、跡を継いだ。庶兄の目夷を宰相とした。父の葬儀の終わらぬうちに、の桓公(小白)の主催した葵丘の会に参加した。八年(前643)、の桓公が卒すると、五人の公子が後継を争ったが、太子昭がに亡命してきた。襄公は兵を発して、の国人や他公子たちと戦い、昭をの国君に立てた。襄公は、覇者たらんことを望み、十二年(前639)秋に盂において会盟を主催しようとしたが、の軍に捕らえられた。その年冬に釈放された。翌年、襄公は鄭に出兵すると、鄭を救援すると称して、軍が敵対した。軍と軍は泓水を挟んで対峙。軍が泓水を渡りはじめたとき、渡りきらないうちに攻撃するよう進言する目夷の意見を、襄公は取りあげなかった。軍が渡河を終えて陣列を整えたところを攻撃し、大敗して敗走した。いわゆる「襄の仁」である。十四年(前637)、泓水での戦傷がもとで死んだ。
の成公(?~前620)
  名は王臣。在位前637~前620。の襄公(茲甫)の子。襄公が亡くなると、跡を継いだ。三年(前634)、との盟約にそむき、と結んだ。翌年、の成王の軍に攻められ、に救援を求めた。五年(前632)、の連合軍が・蔡の軍を城濮で破り、軍は引きあげた。以後、の征戦に従って、数度の出兵を行った。十七年(前620)、亡くなった。
君禦(?~前620)
  在位前620。の襄公(茲甫)の子。成公(王臣)の弟にあたる。成公が亡くなると、太子と公孫固を殺して、の君主として即位した。の国人に攻められて殺された。
の昭公(?~前611)
  名は杵臼。在位前620~前611。の成公(王臣)の子。成公が亡くなると、叔父の君禦が立ったが、国人に殺され、杵臼が擁立された。即位後、敵対する公子たちを除こうとした。危険を感じた穆公・襄公の子孫たちは、先手を打って公を攻撃し、公孫固・公孫鄭を殺した。やむなく昭公は公子たちと和解し、公族排除をとりやめた。三年(前617)、・鄭・蔡が会して、への侵攻を決めた。昭公はおそれて孟諸沢におもむき、狩猟の場での子舟に辱められた。翌年、長丘で長狄縁斯を討ち、これを殺した。九年(前611)、襄公(茲甫)の夫人王姫が伯に命じて昭公を襲撃させ、昭公は殺された。
の文公(?~前589)
  名は鮑。在位前611~前589。の成公(王臣)の子。昭公(杵臼)の弟にあたる。昭公が王姫のために殺されると、鮑が君として擁立された。文公年(前610)、・鄭がを攻め、昭公を弑したことを責めたが、に贈与をわたして引きあげさせた。翌年、の武氏が昭公の遺児を引き入れ、文公の同母弟の司城須を奉じて乱を起こした。文公は弟の須と昭公の子を殺し、武氏と穆氏を追放した。公孫師を司城とし、楽呂を司寇に任じた。四年(前607)、が鄭に命じてを討たせた。は華を将として迎撃させたが、華は捕らえられた。馬四百匹の賠償で華の身柄を返還してもらおうとしたが、支払う前に華は逃げてに戻った。十六年(前595)、の領内を通過しようとしたの使者を捕らえて殺した。の荘王の軍により、の都は包囲された。翌年、包囲は続き、人肉相食む惨状となった。華の子反に内情を語り、の荘王はそれを聞いて軍を引きあげた。二十二年(前589)、文公は亡くなった。その葬儀は華美であり、このため華と楽挙は非難された。
の共公(?~前576)
  名は瑕。在位前589~前576。の文公(鮑)の子。文公が亡くなると、跡を継いだ。九年(前580)、華の子重と親しく、またの欒書とも親しかったので、の両大国と友好の誓約を交わした。
の平公(?~前532)
  名は成。在位前576~前532。の共公(瑕)の末子。共公が亡くなると、司馬の蕩沢が太子の肥を殺し、右師の華を殺そうとした。華に逃れようとしたが、魚石に止められ、引き返して蕩沢を殺した。華により成がの君主に擁立された。魚石・向為人・鱗朱らはに亡命した。三年(前573)、の共王に攻められて彭城を奪われ、は彭城に魚石らを封じた。翌年、諸侯が共同して彭城を攻め、魚石を殺し、彭城をに返した。八年(前568)、・鄭・曹らの諸侯と戚で会し、盟を結んだ。十三年(前563)、らの諸侯と相で会し、盟を結んだ。三十年(前546)、向戌が諸侯間の和平を訴えて、らの諸侯がの西門外で盟を結んだ。四十四年(前532)、亡くなった。
公(?~前517)
  名は佐。在位前532~前517。の平公(成)の子。平公が亡くなると、跡を継いだ。十年(前522)、公が大夫の華氏と尚氏を憎んでいたので、華亥・華定・向寧らは公子たちを欺いて殺し、人質を取って公を脅迫した。公も華氏と尚氏から人質を取って対抗し、華費遂に華亥を攻めさせた。華亥・向寧はに逃れた。翌年、華氏と尚氏はにもどり南里に拠った。が華氏側の増援として入った。公子城がの援軍を連れて帰国した。の軍が華氏を赭丘で破った。十二年(前520)、華亥・華定・向寧らはに出国し、の危機は去った。公孫忌を大司馬に任じた。十五年(前517)、の昭公の帰国を援助して、同行したが、その途中で亡くなった。
の景公(?~前453)
  名は頭曼。在位前517~前453。公(佐)の子。公が亡くなると、跡を継いだ。十六年(前501)、の陽虎がに亡命してきたが、のちにまた去った。二十二年(前495)、孔子に来たが、司馬の桓魋が孔子を憎んで殺そうとしたので、孔子を去った。三十年(前487)、曹がにそむき、またにもそむいたので、は軍を出して曹を滅ぼした。三十七年(前478)、熒惑が心星に重なったため、景公は災難が起こることをおそれた。司星の子韋が、災難を宰相・民・年に移せることを景公に説いた。景公は、宰相は自分の手足である、民あっての君主である、年が不作では民が苦しむとして拒んだ。熒惑は移動し、災難は起こらなかったという。六十四年(前453)、亡くなった。
の昭公(?~前406)
  名は特。在位前453~前406。の公孫糾の子。公(佐)の曾孫にあたる。景公(頭曼)が亡くなると、太子を殺して、自ら即位した。四十七年(前406)、亡くなった。
の悼公(?~前398)
  名は購由。在位前406~前398。の昭公(特)の子。昭公が亡くなると、跡を継いだ。八年(前398)、亡くなった。
の休公(?~前375)
  名は田。在位前398~前375。の悼公(購由)の子。悼公が亡くなると、跡を継いだ。二十三年(前375)、亡くなった。
の辟公(?~前372)
  名は辟兵。在位前375~前372。の休公(田)の子。休公が亡くなると、跡を継いだ。三年(前372)、亡くなった。
君剔成(?~?)
  在位前372~前331。の辟公(辟兵)の子。辟公が亡くなると、跡を継いだ。四十一年(前331)、弟の偃に襲われて敗れ、に亡命した。
君偃(?~前284)
  在位前331~前284。の辟公(辟兵)の子。剔成の弟にあたる。剔成を襲撃して破り、自ら即位した。十一年(前320)、王号を称した。東にに勝って五邑を奪い、南にに勝って三百里を切り取り、西にを討ち破り、滕国を滅ぼした。革の袋に血を詰めてぶら下げ、矢を射て「天を射る」と称した。酒色に溺れ、諫める臣下には矢を射かけた。このため諸侯から桀と呼ばれた。四十七年(前284)、の攻撃を受けて、偃は逃亡し、は滅んだ。偃はで没した。
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