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雍正期

(1636~1912)]
後金,清初,康熙期,雍正期,乾隆期,嘉慶道光期,咸豊同治期,光緒宣統期),チベット,ジュンガル部
太祖(ヌルハチ)-太宗(ホンタイジ)-順治帝(福臨)-康熙帝(玄燁)-雍正帝(胤禛)-乾隆帝(弘暦)-嘉慶帝(顒琰)-道光帝(旻寧)-咸豊帝(奕詝)-同治帝(載淳)-光緒帝(載湉)-宣統帝(溥儀)
雍正帝(1678~1735)
  胤禛,の世宗⇒。
何焯(1661~1722)
  字は屺瞻、号は茶仙、または義門先生。江蘇省長洲の人。抜貢出身。康煕四十一年(1702)、李光地の推薦で召されて、南書房に当直を命ぜられた。翌年、挙人を賜った。ついで進士を賜り、翰林院庶吉士に任ぜられた。まもなく武英殿に当直し、翰林院編修に任ぜられた。蔵書数万巻におよび、『書』『後漢書』『三国志』などの校定を行った。門弟が多く、なかでも沈彤・景雲などが知られた。『義門読書記』。
湯右曹(1656~1722)
  字は西厓。仁和の人。康煕年間に進士に及第した。翰林院編修から吏部侍郎・院学士に上った。『懐堂集』。
楊賓(1652?~1722?)
  字は可師、号は大瓢。浙江省山陰の人。『柳辺紀略』。
王鴻緒(1645~1723)
  字は季友、号は儼斎。江蘇省松江の人。康煕年間に進士に及第した。康煕二十一年(1682)、『史』編纂の総裁となった。のち収賄の罪で弾劾されて、罷免されて故郷に帰った。三十三年(1694)、北京に召還されて、工部尚書に任ぜられた。五十三年(1714)、万斯同の『史稿』を発展させて、『史』列伝二百八巻を完成させた。翌年、『省方盛典』編纂の総裁官に任ぜられた。『賜園集』。
汪士鋐(1658~1723)
  字は文升、号は退谷。江蘇省長洲の人。康煕三十六年(1697)、進士に及第した。翰林院修撰から右中允に上った。『秋泉居士集』。
年羮堯(?~1726)
  字は亮工、号は双峰。軍鑲黄旗の人。康煕年間に進士に及第した。内閣学士に累進し、四川巡撫に上った。康煕五十六年(1717)、四川総督に上り、ジュンガル部の叛乱を鎮定した。雍正年(1723)、雍正帝の擁立に功績があって、太保を加えられた。青海でチベット族の叛乱が起こると、撫遠大将軍に任ぜられて平定した。三年(1725)、謀反を図った罪を問われ、責められて自殺した。
允禩(1681~1726)
  胤禩。の康熙帝(玄燁)の八男。康熙三十七年(1698)、貝勒に封ぜられた。四十七年(1708)、皇太子允礽が廃位されると、太子として立てられるよう工作して、朝臣の推挙を受けたが、康熙帝に斥けられた。雍正帝が即位すると、廉親王に封ぜられ、総理事務にあたった。表むき重用されたが、実際は抑制を受けた。四年(1726)、宗室の籍を奪われ、阿其那(アキナ、満洲語で犬を指す)と改名させられた。幽閉され、まもなく没した。
允禟(1683~1726)
  胤禟。の康熙帝(玄燁)の九男。康熙四十八年(1709)、貝子に封ぜられた。允禩を支持して、皇太子となるよう工作した。雍正四年(1726)、宗室の籍を奪われ、塞思黒(サスヘ、満洲語で豚を指す)と改名させられた。保定に幽閉され、まもなく没した。
査慎行(1650~1727)
  字は悔余、号は初白。浙江省海寧の人。若いころは従軍して西南辺境に鎮した。また地方を遍歴した。康煕四十二年(1703)、進士に及第した。翰林院庶吉士から編修となった。命を受けて『佩文韵府』を編纂した。武英殿校勘官に上った。雍正四年(1726)、弟の査嗣庭が文字の獄で罪をえたのに連座して獄に入った。翌年、赦されて故郷に帰り、没した。地方の風物や人々の生活を題材にして、多くの詩を残した。また戯曲『陰陽判』を書いた。『周易玩辞集解』。
隆科多(?~1728)
  満洲鑲黄旗の人。佟佳氏。佟國維の三男。孝懿仁皇后の弟にあたる。康熙二十七年(1688)、一等侍に任ぜられた。五十年(1711)、歩軍統領となった。五十九年(1720)、歩軍統領のまま、理藩院尚書に進んだ。北京城内外の武力をつかさどった。六十一年(1722)、康熙帝の病が重篤となったとき、内外の大臣は謁見できなかったのに、ただ隆科多ひとりのみが康熙帝の身辺に近侍することができたので、その遺託をえた。のちに隆科多は康熙帝の遺命を受けたとして、雍正帝を擁立して帝位にのぼらせた。この功績により、かれは総理事務四大臣のひとりとして吏部尚書となり、太保の位を加えられた。収賄にはげみ、権勢をふるって、かれの任用した官吏は「佟選」と称された。雍正五年(1727)、ロシアとの間のキャフタ条約の締結に参与した。まもなく四十一大罪を数えられて弾劾され、失脚して幽閉された。翌年、幽閉先の暢春園で没した。
允祥(1686~1730)
  胤祥。の康熙帝(玄燁)の十三男。貝子に封ぜられた。廃太子(允礽)の事件で罪をえて、免職され爵位を奪われた。雍正帝が即位すると、怡親王に封ぜられ、総理事務として戸部を主管し、また宮中の侍を管理した。さらに議政・軍機大臣を兼ねた。雍正帝の異母弟にして腹心として活躍した。雍正八年(1730)、薨去すると、雍正帝も深く悲しみ嘆いたという。『善堂詩集』。
黄鼎(1650~1730)
  字は尊古、号は曠亭。江蘇省常熟の人。画家として年羮堯に招かれた。「終南雲気」、「武功太白」など。
ブーヴェ(1656~1730)
  名は白。字は遠。フランスの人。ジェスイット会の宣教師となった。康煕二十六年(1687)、ルイ14世の命を受けて、ゼルビヨン(張誠)らとともに渡した。翌年、北京にいたり、宮中で西洋の学問を講義した。三十二年(1693)、康熙帝から法王への贈答品を携えて帰国。三十八年(1699)、ふたたび渡した。四十五年(1706)、康熙帝の命によりローマへの使者に立ったが、まもなく途中の広州から召し戻された。四十七年(1708)、「皇輿全覧図」の作成に参与した。北京で没した。『康熙帝伝』、『法小字典』。
蒋廷錫(1669~1732)
  字は揚孫、号は酉君。江蘇省常熟の人。はじめ挙人として内庭に供奉し、康煕四十二年(1703)に進士を賜った。文華殿大学士に上った。詩と画にすぐれ、江左の十五子のひとりとされる。『青桐軒集』、『秋風集』。
田文鏡(1662~1732)
  軍正黄旗の出身。康煕二十二年(1683)、監生から長楽県丞に任ぜられた。知県・知州・御史などを歴任した。五十六年(1717)、内閣侍読学士となった。雍正初年、山西省で飢饉に苦しむさまを雍正帝に奏上し、特使に任ぜられて民衆の救恤にあたった。この功績を雍正帝に認められて、河南布政使に任ぜられ、河南巡撫、ついで河南総督に上った。六年(1728)、河南山東総督に進んだ。官紀の粛、地方財政の整理、黄河の治水などに活躍した。十年(1732)、病のために退官した。雍正帝時表する地方官のひとり。『撫豫宣化録』。
允祉(1677~1732)
  胤祉。の康熙帝(玄燁)の三男。康熙三十七年(1698)、誠郡王に封ぜられた。四十八年(1709)、親王に上った。蒙養齋館を開き、夢雷・方苞らとともに『古今図書集成』、『律暦淵源』などの書を編纂した。雍正八年(1730)、雍正帝のために幽閉された。十年(1732)、薨去した。
高其佩(?~1734)
  字は韋之、号は且園。軍鑲白旗の出身。高天爵の五男。高其位の弟にあたる。康煕年間に蔭官により宿州知州となり、累進して刑部侍郎となった。画にたくみで、人物・山水・花鳥をよく描いた。とくに鍾馗を描くのを好んだ。『且園詩鈔』。
(1686~1738)
  字は又玠。江蘇省銅山の人。康熙末年、捐資により員外郎となった。雍正二年(1724)、雲南布政使となり、塩業を監督した。翌年、浙江巡撫に進んだ。五年(1727)、浙江総督となり、私塩摘発に成果を上げた。十年(1732)、刑部尚書となり、直隷総督にうつった。翌年、戸部尚書・歩軍統領の鄂爾奇を弾劾した。乾隆帝の初年、解任された。
(1652~1739)
  満洲鑲黄旗の人。富察氏。米思翰の次男。康熙八年(1669)、蔭官により工部員外郎に任ぜられた。二十五年(1686)、山西巡撫に進んだ。二十七年(1688)、左都御史にうつり、ロシアとの談判の文書を字で併記するよう建言した。二十九年(1690)、議政大臣に列した。三十八年(1699)、武英殿大学士に任ぜられた。四十八年(1709)、百官とともに允禩を太子に立てるよう推挙して、免職された。五十五年(1716)、復職した。雍正年(1723)、保和殿大学士に転じた。十三年(1728)、病のため休職した。
図理琛(1667~1740)
  字は瑤圃。阿額覚羅氏。満洲正黄旗の人。康熙二十五年(1686)、監生から内閣中書に任ぜられた。のちに侍読に進んだ。五十一年(1712)、礼納らとともにトルグト部に使者として立った。雍正年(1723)、広東布政使に任ぜられた。三年(1725)、陜西巡撫に進んだ。五年(1727)、吏部侍郎となり、キャフタ条約の締結に参与した。乾隆初年、内閣学士に任ぜられた。のちに病のため致仕した。『異域録』。
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