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三国干渉

三国干渉(読み)さんごくかんしょう
さんごくかんしょう ‥カンセフさんごくかんしょう〔カンセフ〕
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

戦争の講和条約である下関条約で認められた,日本のリヤオトン (東) 半島領有に反対するロシア,フランス,ドイツの共同干渉。下関条約調印6日後の 1895年4月 23日,当時,満州への鉄道建設を目指していたロシア政府は,リヤオトン領有の放棄を日本に勧告し,ロシアとの同盟関係にあったフランス,ロシアの進出方向を極東にそらすことをねらっていたドイツもこれにならった。日本の国力では3国に対抗できないので,同5月5日これを受諾,リヤオトンを国に還付することとした。以後,ロシアは満州に鉄道敷設権を獲得,リヤオトン半島を租借地とし,フランス,ドイツ,イギリスも争って租借地を要求した。日本では「臥薪嘗胆」のスローガンで対ロシア報復の国民感情が扇動され,また外交面での対英接近が進められていった。
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デジタル大辞泉の解説
治28年(1895)、日戦争の講和条約(下関条約)締結後、ロシア・フランス・ドイツの3国が日本に干渉を加え、条約で日本が得た東半島を国に返還させた事件。
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百科事典マイペディアの解説

戦争の講和条約(下関条約)による日本の東半島領有に反対する露・独・仏3国の干渉。1895年4月,3国は日本の東半島領有は朝鮮独立を有名無実にするとして東洋艦隊の武力を背景に国への返還を要求。5月,日本は要求に屈して返還を決定,3国に通告。その結果,日間に東半島還付条約が締結され,日本は償として庫平銀3000テール(約邦貨4500万円)を取得した。しかし,これを契機に列強の中国分割が開始され,日本も臥薪嘗胆(がしんしょうたん)をスローガンに対露戦の準備を進めることになった。
→関連項目内田良平|臥薪嘗胆|御前会議|小村寿太郎|日戦争|ムラビヨフ|旅順
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世界大百科事典 第2版の解説
1895年4月23日,下関条約による日本の東半島割取要求に対し,ロシア,ドイツ,フランスが東洋艦隊の武力を背景に国への還付を勧告した干渉事件。日戦争の結果,日本が国の心臓部に分割の刃をむけることがわかったとき,列強は日本とともに即時国分割に着手するか否かの選択にせまられた。ロシアはイギリス,フランスと連合して朝鮮の独立と領土保全を要求することを決めた。ドイツは英仏露協調に取り残されることをおそれ,日本に領土割取の抑制を求めつつロシアに共同行動を提案した。
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大辞林 第三版の解説

1895年(治28)下関条約の調印の直後、露・仏・独の三国が日本に干渉し、東半島を国に返還させた事件。
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
日本の東(りょうとう/リヤオトン)半島分割に反対したロシア、ドイツ、フランス3国の干渉。日(にっしん)戦争の講和条約である下関(しものせき)条約(1895年4月17日調印)で、日本は台湾、澎湖(ほうこ/ポンフー)列島とともに、中国の中央部に絶大な戦略的位置を占める東半島を中国に割譲させた。これに対し、調印後6日目、批准後3日目の4月23日、ロシア、ドイツ、フランス3国公使が外務省を訪れ、東半島を日本が所有することは、国の首府を危うくし、朝鮮の独立を有名無実とし、極東の平和に障害となるから、その領有を放棄すべしと勧告してきた。ロシアをはじめとする列強の干渉を、日本政府は予期しないわけではなかったが、現実にそれが起こって対策に苦慮した。翌24日、大本営の置かれていた広島で急ぎ御前会議が開かれ、伊藤博文(ひろぶみ)総理大臣は、(1)勧告を拒絶して戦うか、(2)列国会議を開いて東半島問題をその会議で処理するか、(3)勧告を受け入れて恩恵的に国に還付するか、の3案を提案、結局第二案を採択した。しかし舞子(神戸市)で病気療養中の陸奥宗光(むつむねみつ)外務大臣は、列国会議はたな干渉を誘発する危険もあるとして反対、下関条約はあくまで批准交換し、日本の面目と威厳を保ち、それとは別に東半島の還付を考えるべきことを提案、伊藤もこれに賛成、天皇の裁可を得た。一方、陸奥は3国への回答を引き延ばすかたわら、イギリス、アメリカ、イタリアなどをしてロシアら3国を牽制(けんせい)させる方策、州庁(きんしゅうちょう)を除く東半島の放棄、開港場の自由港化など、打開策を打診したが、もっとも頼りにしたイギリスが動かず、万策つきて、5月4日、日本政府は東半島の放棄を決定、翌日3国に通告、10日には天皇が詔勅でその旨を国民に告げた。日両国は同年11月8日、東半島還付条約に調印、日本は還付の償として庫平銀(こへいぎん)3000万両(テール)(邦貨4500万円)を得た。東半島分割は、それまで中国の周辺部分の侵略にとどまっていた列強の中国分割を一気に中国の中央部まで広げる先鞭(せんべん)をつけたもので、三国干渉は中国分割をめぐる列強の公然たる争いの第一歩となった。三国干渉後、日本では「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」の声のもと、対ロシア戦争に備える動きが強まった。[中塚 
『陸奥宗光著『蹇蹇録』(岩波文庫) ▽宇野俊一著『日本の歴史26 日・日露』(1976・小学館)』
[参照項目] | 下関条約 | 日戦争
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精選版 日本国語大辞典の解説

戦争終了後、治二八年(一八九五)四月に調印された日講和条約(下関条約)で東半島を領有することになった日本に反対して、ロシア、フランス、ドイツの三国が日両国間に干渉、半島を国に返還させた事件。
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旺文社世界史事典 三訂版の解説
1895年4月23日,ロシア・フランス・ドイツが東半島をに返還するように日本に要求したこと
当時ロシアの極東政策は活発で,日本が日戦争に勝って東半島を領することに反対してに接近し,ドイツ・フランスがこれに同調。戦力の尽きていた日本はこの干渉に屈し,5月に半島を放棄し,朝からを得た。
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旺文社日本史事典 三訂版の解説

戦争の結果,東半島の日本領有に対して行われたロシア・フランス・ドイツ3国の対日干渉
1895年4月,東半島の割譲は下関条約で約されたが,南満州進出を企図するロシアはフランス・ドイツを誘い,条約調印の直後,日本に対して国へ返還することを勧告した。日本はやむなく庫平銀3000万両 (テール) (約4500万円)を償に受諾したが,政府は「臥薪嘗胆 (がしんしようたん) 」を叫び,全力を対ロシア戦争の準備にそそいだ。また,この干渉後に欧州列強による中国分割が開始された。
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世界大百科事典内の三国干渉の言及
【山東[省]】より

[山東の近と日本]
 上記のような性格をもつ山東は,末の列強の侵略に格好の門戸ともなった。日戦争ののち1895年(光緒21),ロシア,ドイツ,フランスは,いわゆる三国干渉によって日本の東半島での利権獲得を制したが,その見返りとしてロシアは東半島を,ドイツは山東半島を要求した。いずれも華北を南北よりうかがう絶好の拠点であった。…

【下関条約】より
国は対日賠償のため巨額の借款を余儀なくされ,列強の利権要求を招いた。しかし,日本の東半島割取はロシア,ドイツ,フランスの三国干渉を招き,3国の武力に屈した日本は東半島を国に還付し,国内では臥薪嘗胆(がしんしようたん)の声が起こった。【藤村 道生】。…

【日戦争】より
…日本が戦争目的を転じた結果民衆の抵抗が激化すると,日本軍は旅順で住民虐殺事件を起こし,朝鮮でも抗日反乱が再起した。
[講和と三国干渉
 国はたび重なる敗戦により講和を望み使節を派遣したが,占領地域が不十分なため講和はなお時期尚早とみた日本は全権委任状の不備を理由に交渉を拒否,李鴻章の任命をまって3月20日下関春帆楼で講和会議を開いた。会議は日本が過大な条件を固守したため難航したが,李全権を狙撃・重傷を負わせる事件が起こり,国際世論の非難をおそれた日本の条件緩和をへて4月17日調印をみた。…

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三国干渉
戦争後の1895年4月、日本に対しロシア・フランス・ドイツの三国東半島のへの還付を要求したこと。日本はそれを受諾し、東半島を還付した。

 日戦争に勝利した日本が、1895年、下関条約で中国から東半島を獲得したことに対して、ロシア・フランス・ドイツの三国が干渉し、その返還を迫ったこと。ロシア(ニコライ2世)の蔵相ウィッテが主唱して、フランスとドイツに働きかけ、日本の東半島の領有は極東の平和を妨げるという理由でそれを放棄するよう、下関条約調印のわずか6日後の4月23日に日本に勧告した。日本は当時の国際的な力関係から、この圧力に抗しきれず、同年11月に東半島還付条約をと結んで東半島をに還付し、かわりに3千万両を受けることとした。日本国内では「臥薪嘗胆」が叫ばれ、特にロシアに対する反発が強まった。
三国の状況

 ロシアはニコライ2世(在位1894~1917)のもとでウィッテに主導された工業化とアジア進出を狙っており、ドイツはヴィルヘルム2世(在位1888~1918)のもとでイギリスと対抗する世界政策を強め、フランスは第三共和政下で右派が台頭し、ドレフュス事件が始まるころであった。ロシアはシベリア鉄道への投資などでフランスに接近し、1894年露仏同盟を結び、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟に対抗しようとしていた。ドイツは、極東でのイギリスの勢力を牽制するためにはアジアでのロシアの進出をむしろ歓迎し、ロシアがバルカンから後退することを望んだ。またヴィルヘルム2世は日本の進出を黄禍として恐れていた。
日本の状況

 伊藤博文内閣の陸奥宗光外相は、日本が中国から領土を獲得すれば、他国の干渉を招くことを予想していたが、戦勝に酔い大きな戦果を獲得すべしと言う国論の高まりを背景に、内政的観点から国側に大きな償を求めざるを得ないと判断した。1895年4月23日、三国干渉という形で強い圧力が加えられると、伊藤首相は広島で御前会議を召集、1.勧告の全面的拒否、2.この問題の処理を列国会議に委ねる、3.勧告を受けいれる、の三つの選択肢を検討した。御前会議は第2案に傾いたが、当時病床にあった陸奥宗光は、第2案では東半島還付以外に波及する怖れがあるとして、第3案を主張し、それが結論となった。政府はこの痛恨事に悲憤慷慨する国民に対し、日本はロシアと戦うには国力は微弱で、この際「臥薪嘗胆」をスローガンに、国力を培養することを訴えた。<細谷千博『日本外交の軌跡』1993 NHKブックス p.27>
三国干渉後の中国分割

 ロシア・フランス・ドイツは極東での日本の進出を危惧して結束し、三国干渉を行い、それに成功した報酬(見返り)をに求め、租借地の獲得・鉄道敷設権の獲得などの形で、中国分割を進めることになる。イギリスはロシア・ドイツの進出に対抗して中国分割に加わった。特にロシアの進出に対しては日本と利害が一致するので、日本の軍事力の急速な膨張を警戒しながらも、1902年には日英同盟を締結することとなる。
 朝政府の李鴻章はロシアと結んで日本の進出を抑えようとしたので三国干渉を歓迎し、東半島の還付を受けた。しかし、三国に対してその報酬を求め、ロシアは1896年に東鉄道敷設権を獲得、さらに98年に東半島の南端の旅順・大連の租借権を認められた。同様にフランスは95年に安南鉄道の延長や雲南・広東などでの鉱山採掘権を獲得し、98年には広州湾の租借権を延長させ、ドイツは98年に膠州湾の租借権を獲得した。このような三国の中国侵出に対抗するため、イギリスも威海と九竜半島の租借を認めさせた。が列強の租借に応じたのは、下関条約での日本への賠償支払いの原資を得るためであった。このような日戦争後の列強による露骨な中国分割の危機に直面し、朝内部にもようやく変革の動きが現れ戊戌の変法が始まるが、その運動は保守派によって弾圧されてしまう。
朝鮮情勢への影響

 日本政府が三国干渉を受け入れたことは、日本がロシアに屈したと受け取られたので、両国が勢力を争っていた朝鮮王朝においても大きな影響があった。日戦争は朝鮮内の親日派を台頭させたが、三国干渉の受諾は、親ロシア派が台頭することをもたらしたのである。親ロシア派は、王妃であった閔妃とその一派であった。ロシア公使ウェーベルは、盛んに閔妃に取り入り、通商条約の締結や鉄道敷設権・鉱山開発権などの利権を認めさせ、その一方で親日派を排除したり、日本軍人を顧問とした訓練隊を解散させるなどの手を打った。これに対して日本公使井上馨はロシア勢力の伸張を阻止するためには閔妃を除く必要があると考えるようになった。それが、次の公使となった三浦梧楼によって実行されたのが1895年の閔妃暗殺事件である。しかしそれはかえって日本の立場を悪化させ、さらにロシアとの対立はエスカレートし、日露戦争へとつながていく。
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