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歴代后妃(南朝)

歴代后妃伝説,,,周,,,三国,,北朝,南朝,,,五代,,,,
[(420~478)]
孝穆趙皇后(?~363)
  名は安宗。の武帝(劉裕)の母。下邳郡僮の人。平原太守趙裔の娘。東晋の升平四年(360)、劉翹にとついだ。劉裕を産み、丹徒の官舎で亡くなった。
孝懿蕭皇后(343~423)
  名は文寿。蘭陵郡の人。蕭卓の娘。劉翹の後添えとなり、長沙王劉道憐・臨川王劉道規を産んだ。東晋の義煕七年(411)、豫章公太夫人となった。劉裕が公となると、太妃となり、劉裕が王となると、太后となった。が建てられると、皇太后となり、宣訓宮に住んだ。景平年(423)、顕陽殿で崩じた。
武敬臧皇后(?~408)
  名は愛親。の武帝(劉裕)の臧夫人。東莞郡の人。臧儁の娘。劉裕にとつぎ、会稽公主を産んだ。東晋の義煕四年(408)正月、東城で亡くなった。豫章公夫人と追贈され、丹徒に葬られた。が建てられると、皇后と追尊された。
張夫人(?~425)
  名は闕。の武帝(劉裕)の張夫人。劉義符(のちの少帝)と義興公主恵媛を産んだ。永初年(420)、夫人となった。少帝が即位すると、皇太后となり、永楽宮と称された。少帝が廃されると、太后の璽を返して、郡に蟄居した。年(424)、営陽国太妃となった。二年(425)、薨去した。
胡婕妤(?~413)
  名は道安。の武帝(劉裕)の胡夫人。淮南郡の人。東晋の義煕初年、劉裕にとついだ。劉義隆(のちの文帝)を産んだ。五年後、死を賜った。が建てられると、婕妤の位を追贈された。
司馬皇后(?~439)
  名は茂英。の少帝(劉義符)の司馬皇后。東晋の恭帝(司馬徳文)の娘。海塩公主に封ぜられ、劉義符にとついだ。が建てられると、皇太子妃となった。少帝が即位すると、皇后に立てられた。年(424)、営陽王妃に降格され、さらに南豊王太妃となった。十六年(439)、薨去した。
袁皇后(?~440)
  名は嬀。の文帝(劉義隆)の袁皇后。郡陽の人。袁湛の娘。劉義隆にとついで、宜都王妃となった。劉劭・東陽公主を産んだ。劉劭が生まれたとき、将来の仇となることを予見して殺そうとしたと伝えられる。文帝が即位すると、皇后に上った。文帝は倹約家で、皇后の実家の袁家が貧窮して援助を求めたときも、わずかな銭帛しか供出しなかった。しかし、のちに寵愛を受けた潘淑妃の要求には、なんでも応じていた。このため皇后は嫉妬のあまり病と称して文帝と会うのを避けた。嘉十七年(440)、憂憤のうちに病没した。
文昭路淑媛(?~466)
  名は恵男。の文帝(劉義隆)の路夫人。丹陽郡建康の人。路興之の娘。容貌美しく、選ばれて後宮に入り、劉駿(のちの孝武帝)を産んだ。淑媛となった。孝武帝が即位すると、皇太后となり、崇憲宮と称した。一族の路瓊之・路休之・路茂之らが顕職にのぼり、政治に容喙した。前廃帝が立つと、太皇太后となった。帝が立つと、崇憲太后と号した。泰始二年(466)正月、帝に毒入りの酒を献じて飲ませようとしたが、帝に察知され、その日に崩じた。事件は秘され、皇太后の礼遇どおりに葬られた。
文宣沈婕妤(?~453)
  名は容姫。の文帝(劉義隆)の沈婕妤。後宮に入って美人となり、劉彧(のちの帝)を産んで、婕妤となった。嘉三十年(453)、亡くなった。孝武帝が即位すると、湘東国太妃に追贈された。帝が即位すると、皇太后の位を贈られた。
文穆王皇后(427~464)
  名は憲嫄。の孝武帝(劉駿)の王皇后。琅邪郡臨沂の人。王偃の娘。嘉二十年(443)、武陵王妃となり、劉子業(のちの前廃帝)・豫章王劉子尚・山陰公主・臨淮公主・皇女琇・康楽公主を産んだ。孝武帝が即位すると、皇后となった。前廃帝が即位すると、皇太后となり、永訓宮と称した。
何皇后(?~461)
  名は令婉。の前廃帝(劉子業)の何夫人。廬江郡の人。何瑀の娘。孝建三年(456)、皇太子妃となった。大五年(461)、東宮で薨去した。前廃帝が即位すると、献皇后と追尊された。
恭王皇后(?~479)
  名は貞風。帝(劉彧)の王皇后。琅邪郡臨沂の人。王僧朗の娘。王景文の妹にあたる。劉彧にとついで、淮陽王妃となり、のちに湘東王妃となった。陵公主・建安公主を産んだ。帝が即位すると、皇后に立てられた。帝は宮中に人々を集め、裸の婦人たちを鑑賞して楽しんだが、皇后は扇で顔を隠してひとり見なかったという。後廃帝(劉昱)が即位すると、皇太后となり、弘訓宮と称された。あるとき毛扇を後廃帝に賜ったが、後廃帝は毛扇が気に入らず、それを理由に太后を毒殺しようとした。側近に止められてやめた。が建てられると、順帝(劉准)とともに東邸に蟄居し、丹陽宮にうつって汝陰王太妃となった。順帝が亡くなると、建康の都内に屋敷を建ててうつった。建年(479)、屋敷で薨去した。
昭華(?~?)
  名は法容。帝(劉彧)の夫人。丹陽郡建康の人。桂陽王劉休範の妃だったが、帝により後宮に入れられた。劉准(のちの順帝)を産んだ。順帝が即位すると、皇太妃となった。が建てられると、太妃と称された。
江皇后(?~?)
  名は簡珪。の後廃帝(劉昱)の江皇后。済陽郡考城の人。泰始六年(470)、皇太子妃となった。後廃帝が即位すると、皇后に立てられた。帝が廃されると、蒼梧王妃に降格された。
謝皇后(?~?)
  名は梵境。の順帝(劉准)の謝皇后。郡陽の人。謝颺の娘。昇二年(478)十月、皇后に立てられた。が建てられると、汝陰王妃に降格された。

[(479~501)]
宣孝皇后(?~?)
  名は道止。の高帝(蕭道成)の母。臨淮郡東陽の人。家は貧しく、機織りにはげんで働いた。蕭承之にとついだ。蕭道成を産み、乳をやって育てた。蕭承之の死後も自ら働き、端女に過ちがあってもみな許して不問とした。自らは粗食に甘んじて、子孫に食べさせた。建康の県舎で亡くなった。の建年(479)に考皇后に追尊された。
高昭劉皇后(?~472)
  名は智容。の高帝(蕭道成)の劉夫人。広陵郡の人。劉寿之の娘。はじめ裴方の子と婚約したが、裴氏との結婚は成らなかった。蕭道成にとついで、蕭サク・蕭嶷を産んだ。の泰豫年(472)に亡くなった。の建年(479)、昭皇后と追尊された。
武穆裴皇后(?~480)
  名は恵昭。の武帝(蕭サク)の裴夫人。河東郡聞喜の人。裴璣之の娘。蕭サクにとついだ。豫章王妃庾氏と姉妹のように扱われたが、庾氏が女仕事にはげみ、高昭劉皇后にまめまめしく仕えたので、裴氏は庾氏に及ばず、蕭家に重んじられることがなかった。また蕭サクの寵愛も薄かった。蕭長懋(のちの文恵太子)を産んだ。性格は剛毅厳格で、竟陵王妃袁氏に過ちがあったとき、裴氏が罰を加えた。昇三年(479)、世子妃となった。建年(479)、皇太子妃となった。二年(480)、薨去した。武帝が即位すると、皇后と追尊された。
文安王皇后(?~512)
  名は宝の鬱林王(蕭昭業)の母。琅邪郡臨沂の人。王曄之の娘。の末年に蕭長懋(のちの文恵太子)にとついだ。蕭昭業を産んだ。の建年(479)、南郡王妃となった。四年(482)、皇太子妃となった。永十一年(493)、蕭長懋が亡くなると、皇太孫太妃となった。蕭昭業が帝位につくと、皇太后に上った。帝(蕭鸞)が即位すると、鄱陽王の旧邸にうつり、宣徳宮と称した。蕭衍(のちのの武帝)が建康に入ると、宮殿に迎えられ、臨朝称制した。が建てられると、外宮にうつった。天監十一年(512)、薨去した。
何妃(?~?)
  名は婧英。の鬱林王(蕭昭業)の何皇后。廬江郡灊県の人。何戢の娘。永三年(485)、蕭昭業にとついだ。近侍の馬澄を寵愛し、また巫女の楊珉之を愛して寝所をともにしたという。十一年(493)、皇太孫妃となった。蕭昭業が帝位につくと、皇后に上った。蕭昭業には阿奴と呼ばれた。蕭昭業が廃殺されると、鬱林王妃に降格された。
王妃(?~?)
  名は韶の海陵王(蕭昭文)の王皇后。琅邪郡臨沂の人。王慈の娘。永八年(490)、蕭昭文にとついで、臨汝公夫人となった。蕭昭業が即位すると、安王妃となった。蕭昭文が即位すると、皇后となった。蕭昭文が廃位されると、海陵王妃に降格された。
敬劉皇后(?~489)
  名は恵端。帝(蕭鸞)の劉夫人。彭城郡の人。建三年(481)、蕭鸞にとついで、西昌侯夫人となった。永七年(489)、亡くなった。帝が即位すると、敬皇后と追尊された。
褚皇后(?~?)
  名は令璩。の東昏侯(蕭宝巻)の褚皇后。河南郡陽翟の人。褚澄の娘。建武二年、蕭宝巻にとついで皇太子妃となった。蕭宝巻が即位すると、皇后となった。蕭宝巻は潘妃を寵愛して、皇后をかえりみなかった。蕭宝巻が廃位されると、庶人に落とされた。
王皇后(?~?)
  名は蕣華。の和帝(蕭宝融)の王皇后。琅邪郡臨沂の人。王倹の孫娘にあたる。蕭宝融にとつぎ、随王妃となった。和帝が即位すると、皇后となった。が建てられると、妃に降格された。

[(502~556)]
文献張皇后(?~471)
  名は尚柔。の武帝(蕭衍)の母。范陽郡方城の人。張穆之の娘。嘉年間、蕭順之にとつぎ、蕭懿・蕭敷・蕭衍・蕭暢・義興公主を産んだ。泰始七年(471)、秣陵県同里で亡くなった。の天監年(502)五月、献皇后と追尊された。
武徳郗皇后(467~498)
  名は徽。の武帝(蕭衍)の郗夫人。高平郡郷の人。郗曄の娘。生まれたとき、赤光が部屋を照らしたという。幼いころから聡で、隷書をたしなみ、史伝をよく読んだ。の後廃帝(劉昱)が後宮に入れようとしたが、病を理由に断り、また初に王緬が求婚したが、やはり病を理由に断った。の建末年、蕭衍にとついだ。永興公主・永世公主・永康公主を産んだ。蕭衍が雍州刺史となると、襄陽の官舎で亡くなった。が建てられると、皇后に追尊された。
丁貴嬪(485~526)
  名は令光。の武帝(蕭衍)の丁夫人。譙国の人。丁道遷の娘。天監年(502)五月、貴人となり、八月、貴嬪に立てられた。性格は思いやり深く、華美を好まなかった。仏教に帰依し、戒を受けた。普通七年(526)十一月、亡くなった。
文宣阮脩容(477~543)
  もとの姓は石。名は令嬴。の武帝(蕭衍)の阮夫人。会稽郡余姚の人。はじめの始安王蕭遙光にとついだ。蕭遙光が敗れると、東昏侯(蕭宝巻)の後宮に入った。蕭衍が建康を平定すると、蕭衍のもとで采女となった。の天監七年(508)八月、蕭繹(のちの帝)を産んだ。脩容の位に上り、姓を賜った。大同九年(543)六月、江州で亡くなった。帝が即位すると、文宣太后と追尊された。
王皇后(505~549)
  名は霊賓。の簡文帝(蕭綱)の王夫人。琅邪郡臨沂の人。王騫の娘。幼いとき、性質がおだやかで聡だったので、叔父の王暕が我が家の女師であるとほめたという。天監十一年(512)、安王妃となった。蕭大器・蕭大連・長山公主を産んだ。大通三年(529)、皇太子妃となった。太三年(549)三月、永福省で薨去した。簡文帝が即位すると、皇后に追尊された。
徐妃(?~549)
  名は昭佩。帝(蕭繹)の徐夫人。東海郡郯県の人。徐緄の娘。天監十六年(517)十二月、湘東王妃となった。蕭方等・益昌公主を産んだ。酒をたしなみ、また多情でもあり、瑤光寺の智遠道人と密通し、また帝の側近の曁季江とも通じていたといわれる。太三年(549)、迫られて自殺した。
妃(?~?)
  帝(蕭繹)の夫人。会稽郡の人。普通年間に湘東王蕭繹にとついだ。蕭方智(のちの敬帝)を産んだ。承聖年(552)冬、安王国太妃となった。紹泰年(555)、皇太后となった。翌年冬、江陰国太妃に降格された。
敬王皇后(?~?)
  の敬帝(蕭方智)の王皇后。琅邪郡臨沂の人。王僉の娘。承聖年(552)十一月、安王妃となった。紹泰年(555)十月、皇后に上った。翌年、江陰王妃に降格された。

[(557~589)]
武宣章皇后(506~570)
  もとの姓は鈕。名は要兒。の武帝(覇先)の章皇后。興郡烏程の人。章景の娘。生まれたとき、紫光が部屋を照らしたという。若くして聡で、容姿ふるまいが美しく、手の爪を五寸に伸ばしていた。書をよくし、また詩経や辞を暗誦することができた。覇先は銭仲方の娘を妻としたが、早く亡くしたので、章氏を後妻として迎えた。侯景の乱のとき、覇先が豫章に下ると、章氏は侯景に捕らえられた。侯景の乱が平定されると、覇先は長城県公となり、章氏は夫人となった。永定年(557)、が建てられると、皇后に立てられた。武帝が崩ずると、蔡景歴の計を容れて、死を秘して喪を発せず、文帝(蒨)を召した。文帝が即位すると、皇太后となり、慈訓宮と称した。廃帝(伯宗)が立つと、太皇太后となった。光大二年(568)、伯宗を廃して臨海王とし、宣帝(頊)を擁立した。太建年(569)、また皇太后となった。二年(570)正月、紫極殿で崩御した。
沈皇后(?~?)
  名は妙容。の文帝(蒨)の沈皇后。興郡武康の人。沈法深の娘。の大同年間に蒨にとついだ。侯景の乱が起こると、蒨とともに捕らえられた。乱が平定されると、解放された。伯宗(のちの廃帝)を産んだ。が建てられると、臨川王妃となった。文帝が即位すると、皇后に立てられた。伯宗が即位すると、皇太后となり、安徳宮と称した。宣帝(頊)が立つと、文皇后となった。に滅ぼされると、長安にうつされた。大業初年、江南に帰り、まもなく亡くなった。
王皇后(?~?)
  の廃帝(伯宗)の王皇后。琅邪郡臨沂の人。王固の娘。天嘉年(560)、皇太子妃となった。蕭至沢を産んだ。伯宗が即位すると、皇后に立てられた。伯宗が廃位されると、王皇后も廃されて、臨海王妃となった。至徳年間に薨去した。
柳皇后(534~616)
  名は敬言。の宣帝(頊)の柳皇后。河東郡解県の人。柳偃の娘。容姿が美しく、身長七尺二寸で、手を垂らすと膝に届いたという。侯景の乱が起こると、江陵にうつり、帝(蕭繹)の庇護を受けた。頊にとつぎ、叔宝(のちの後主)を産んだ。西魏が江陵を落とすと、頊は関右にうつり、柳氏は叔宝とともに穰城に残った。天嘉二年(561)、建康にうつり、安成王妃となった。宣帝が即位すると、皇后に立てられた。先妻の銭貴妃に対してへり下り、上納された供物は良いものを銭氏に進め、自分はその次のものを取ったという。後主が即位すると、皇太后となり、弘範宮と称した。が滅ぶと、長安にうつされた。大業十二年(616)、洛陽で薨去した。
施夫人(551~609)
  名は。の宣帝(頊)の施夫人。京兆郡長安の人。施績の娘。臨賀王叔敖・沅陵王叔興・寧遠公主(のちの宣華夫人)を産んだ。宣帝が崩ずると、太妃を号した。に滅ぼされると、大興城にうつった。大業五年(609)、頒政里で没した。
沈皇后(?~628?)
  名は婺華。の後主(叔宝)の沈皇后。興郡武康の人。沈君理の娘。幼いころから経史に通じ、書法・詩詞をよくした。太建年(569)、皇太子叔宝の妃となった。十四年(582)、後主が即位すると、皇后に立てられた。豪奢な生活になじめず、後主が張貴妃を寵愛するようになると、求賢殿に別居し、寂しい生活を送った。が滅ぶと、後主とともに長安に送られた。後主の死後、江南に帰り、毗陵の天静寺で尼となって余生を送った。法名を観音といった。著に『沈皇后集』があったが、今は失われている。
張貴妃(?~589)
  名は麗華。の後主(叔宝)の張貴妃。叔宝が太子となると、選ばれて東宮に入った。深を産んだ。後主が即位すると、貴妃となった。後主が始興王の乱で傷を負って承香殿に伏せったとき、諸姫は近づくことができなかったが、張貴妃がひとりそばに侍った。至徳二年(584)、臨春・結綺・望仙の三楼閣を建て、後主は臨春閣に住み、張貴妃は結綺閣に住み、龔貴嬪と孔貴嬪は望仙閣に住んで、互いに往来した。宮人諸姫とともに遊宴にふけり、詩を贈りあい、「玉樹後庭花」「臨春楽」などの曲を歌わせた。軍が台城を落とすと、後主と張貴妃は井戸の中に隠れていたが、軍に引き出され、貴妃は高熲のために青渓で斬られた。
歴代后妃(隋・唐)

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