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歴代后妃(宋)

歴代后妃伝説,,,周,,,三国,,北朝,南朝,,,五代,,,,
北宋(960~1127)]
昭憲杜太后(902~961)
  の太祖(趙匡胤)や太宗(趙匡義)の母。定州安喜の人。杜爽の娘。趙弘にとついだ。趙光済・趙匡胤・趙匡義・趙廷美・趙光賛・燕国長公主・国長公主を産んだ。後周の顕徳年間、南陽郡夫人に封ぜられた。太祖が即位すると、皇太后となった。建隆二年(961)、滋徳殿で崩じた。太宗が帝位についたとき、杜太后の遺命に仮託して、太宗に位を伝えるよう約したという匱の盟の話が偽作された。
孝恵賀皇后(929~958)
  の太祖(趙匡胤)の賀夫人。開封の人。賀景思の長女。後晋の開運初年、趙匡胤にとついだ。国公主・国公主・趙徳昭を産んだ。後周の顕徳三年(956)、会稽郡夫人に封ぜられた。五年(958)、病のため薨去した。の建隆三年(962)、皇后の位を追贈された。
王皇后(942~963)
  の太祖(趙匡胤)の王皇后。邠州平の人。王饒の三女。後周の顕徳五年(958)、後妻として趙匡胤にとついだ。琅邪郡夫人に封ぜられた。太祖が即位すると、建隆年(960)八月に皇后に立てられた。子女三人を産んだが、いずれも夭逝した。乾徳年(963)十二月、崩じた。
孝章皇后(952~995)
  の太祖(趙匡胤)の皇后。河南洛陽の人。偓の娘。乾徳五年(967)、太祖に召された。開宝年二月、後宮に入って皇后に立てられた。太祖が崩ずると、開宝皇后と号した。太平興国二年(977)、西宮に住んだ。雍熙四年(987)、東宮にうつった。至道年(995)四月、崩じた。
淑徳尹皇后(?~?)
  の太宗(趙匡義)の尹夫人。相州鄴の人。尹廷勳の娘。後周のとき、趙匡義にとついだ。早くに亡くなった。太宗が即位すると、皇后の位を追贈された。
懿徳符皇后(942~975)
  の太宗(趙匡義)の符夫人。州宛丘の人。王符彦卿の六女。後周の顕徳年間に趙匡義にとついだ。の建隆初年、汝南郡夫人に封ぜられた。のちに国夫人に進んだ。趙匡義が王となると、越国夫人となった。開宝八年(975)、薨去した。太宗が即位すると、皇后の位を追贈された。
徳李皇后(960~1004)
  の太宗(趙匡義)の李皇后。潞州上党の人。李処耘の次女。太平興国三年(978)、後宮に入った。雍熙年(984)十二月、皇后に立てられた。至道三年(997)、太宗が崩じ、真宗が即位すると、皇太后となり、西宮嘉慶殿に住んだ。咸平四年(1001)、万安宮にうつった。景徳年(1004)、崩じた。
徳李皇后(944~977)
  の太宗(趙匡義)の李夫人。真定の人。李英の娘。開宝年間、隴西郡君に封ぜられた。太宗が即位すると、夫人に進んだ。皇女二人を産んだが早く亡くなった。趙佐を産み、趙恒(のちの真宗)を産んだ。太平興国二年(977)、薨去した。真宗が即位すると、賢妃に追封され、さらに皇太后に追尊された。
章懐潘皇后(968~989)
  の真宗(趙恒)の潘夫人。大名の人。潘美の八女。韓王趙恒にとつぎ、莒国夫人に封ぜられた。端拱二年(989)五月、薨去した。真宗が即位すると、皇后の位を追贈された。
章穆郭皇后(976~1007)
  の真宗(趙恒)の郭皇后。太原の人。郭守文の次女。淳化四年、襄王趙恒にとつぎ、国夫人に封ぜられた。のちに国夫人に進んだ。真宗が即位すると、皇后に立てられた。景徳四年(1007)、病のため崩じた。
章献肅劉皇后(969~1033)
  の真宗(趙恒)の劉皇后。益州華陽の人。はじめの人の龔美にとついだ。龔美は彼女とともに京師に入り、襄王趙恒の邸に彼女を潜り込ませた。真宗が即位すると、徳妃となり、劉姓を名乗り、劉美(龔美)を兄ということにした。大中祥符五年(1012)十二月、皇后に立てられた。李宸妃が趙禎(のちの仁宗)を産むと、皇后はこの子を奪って自分の子ということにした。聡機敏で、書史に通暁したので、真宗に重んじられ、しばしば政治に干渉した。真宗が崩ずると、皇太后となった。仁宗が立つと、十一年にわたって垂簾聴政した。晩年は外戚や宦官を重用した。
李宸妃(987~1032)
  の真宗(趙恒)の李宸妃。杭州の人。李仁徳の娘。後宮に入り、章献劉皇后の侍児をつとめた。真宗の寵愛を受け、趙禎(のちの仁宗)を産んだが、劉皇后に奪われて、皇后の子とされた。真宗が崩ずると、幽閉された。年(1032)、病が重くなり、宸妃の位に進められて、まもなく没した。翌年、劉皇太后が薨去すると、仁宗ははじめて李宸妃が実母であったことを知り、皇太后に追冊し、諡を荘懿といった。慶暦四年(1044)、章懿と改諡された。
楊淑妃(984~1036)
  の真宗(趙恒)の楊淑妃。益州郫の人。楊知儼の娘。十二歳のとき、皇子宮に入った。真宗が即位すると、才人となり、婕妤となり、婉儀に進んだ。大中祥符七年(1014)、淑妃となった。幼い趙禎(のちの仁宗)を撫育した。真宗が崩ずると、遺詔により皇太妃となった。章献太后が薨ずると、遺誥により皇太后と尊称された。仁宗と軍事や国事を討議した。住んでいた宮の名から保慶皇太后と号された。荘恵と諡された。慶暦四年(1044)、章恵と改諡された。
沈貴妃(994~1076)
  の真宗(趙恒)の沈貴妃。沈継宗の娘。選ばれて真宗の後宮に入り、才人となった。美人を経て、婕妤となり、充媛に進み、徳妃にいたった。節倹を尊び、華美を好まなかった。嘉祐末年、貴妃に上った。熙寧九年(1076)、薨去した。
郭皇后(1012~1035)
  の仁宗(趙禎)の郭皇后。応州城の人。天聖二年(1024)、皇后に立てられた。尚美人・楊美人としばしば諍いを起こし、仁宗にうとんじられるようになった。宦官の閻文応が仁宗とともに皇后の廃位をはかり、宰相の呂夷簡の協力をえた。道二年(1033)十二月、子がないという理由で廃され、浄妃・玉京冲妙仙師となり、長楽宮に蟄居した。景祐年(1034)、瑤華宮にうつった。庭教主・冲静師の号を賜った。二年(1035)、急死した。翌年、皇后に追復された。
慈聖光献曹皇后(1016~1079)
  の仁宗(趙禎)の曹皇后。真定霊寿の人。曹彬の孫娘にあたる。道二年(1033)、郭皇后が廃されると、後宮に入った。景祐年(1034)九月、皇后に立てられた。禁苑で手ずから農耕や養蚕をおこなったという。慶暦八年、宮中の卒が乱を起こしたとき、あわてて逃げようとする仁宗をとどめ、宦官に叱咤して乱をおさめさせた。嘉祐八年(1063)、英宗(趙曙)が即位すると、皇太后となった。英宗が病となると、朝政を聴いた。翌年、英宗の病が癒えると、政権を返した。治平四年(1067)、神宗(趙頊)が即位すると、太皇太后となった。投獄されていた蘇軾を釈放させ、王安石の法に反対し、祖法を軽々しく変えるべきではないと主張した。
張貴妃(1023~1053)
  の仁宗(趙禎)の張貴妃。河南永安の人。張堯封の娘。幼くして父母を失い、後宮に入れられた。仁宗にもっとも寵愛を受けた。慶暦年(1041)、河郡君に封ぜられた。才人となり、修媛にうつった。皇祐初年、貴妃に進んだ。
苗貴妃(1023~1091)
  の仁宗(趙禎)の苗貴妃。開封の人。苗継宗の娘。後宮に入って容徳となり、趙昕・福康公主を産んだ。仁寿郡君に封ぜられ、才人となり、昭容となり、徳妃に進んだ。趙曙(のちの英宗)をなにくれとなく世話した。英宗が即位すると、貴妃に上った。祐六年(1091)、薨去した。
周貴妃(?~?)
  の仁宗(趙禎)の周貴妃。開封の人。四歳のとき、後宮に入った。仁宗の寵愛を受けて、ふたりの公主を産んだ。一日一食菜食し、一室に引きこもって、仏書を誦する生活を送った。賢妃に進んだ。徽宗(趙佶)が即位すると、貴妃の位を加えられた。九十三歳で薨去し、昭淑と諡された。
楊徳妃(1019~1072)
  の仁宗(趙禎)の楊徳妃。定陶の人。楊忠の娘。天聖年間、後宮に入った。原武郡君に封ぜられ、美人に進んだ。婕妤となり、修媛に進み、修儀にいたった。熙寧五年(1072)、薨去し、徳妃の位を贈られた。
馮賢妃(?~?)
  の仁宗(趙禎)の馮賢妃。東平の人。九歳のとき、後宮に入った。仁宗の寵愛を受けて、邢国公主・国公主を産んだ。始平郡君に封ぜられた。才人となり、婕妤に進み、修容にいたった。徽宗(趙佶)のころ、七十七歳で薨去し、賢妃の位を贈られた。
宣仁聖烈高皇后(1032~1093)
  の英宗(趙曙)の高皇后。亳州蒙城の人。慶暦八年(1048)、趙頊(のちの神宗)を産んだ。神宗が立つと、皇太后となった。哲宗(趙煦)が立つと、太皇太后となり、聴政にあたった。祖宗の法を恢復するようつとめ、司馬光・呂光著らを起用し、法党を排斥し、煕寧・豊年間に立てられた法を廃止していった。これを祐更化と称する。九年間にわたって臨朝称制した。
欽聖憲肅向皇后(1046~1111)
  の神宗(趙頊)の向皇后。懐州河内の人。治平三年(1066)、穎王趙頊にとつぎ、安国夫人となった。神宗が即位すると、皇后に立てられた。哲宗が即位すると、皇太后となった。符三年(1110)、哲宗が崩じ、嗣子がなかったので、端王趙佶を迎えて帝位につけた。これが徽宗である。徽宗が立つと、垂簾聴政した。半年ほどで政権を帝に返した。
欽成朱皇后(1052~1102)
  の神宗(趙頊)の朱徳妃。開封の人。崔傑の娘。父を早く亡くし、母は再嫁して、任氏に育てられた。熙寧初年、後宮に入って御侍となり、才人に進み、婕妤にいたった。趙煦(のちの哲宗)・趙似・徐国公主を産んだ。徳妃に累進した。哲宗が即位すると、皇太妃に上った。殿下と称され、聖瑞宮に住んだ。崇寧年(1102)二月、薨去し、皇后に追尊された。
欽慈皇后(1054~1085)
  の神宗(趙頊)の美人。開封の人。後宮に入って御侍となった。趙佶(のちの徽宗)を産み、美人に進んだ。神宗が崩ずると、自ら体をこわし、治療を拒否して、「早く先帝のもとにお仕えしたい」といって、まもなく亡くなった。建中靖国年(1101)、皇太后に追冊された。
林賢妃(?~1090)
  の神宗(趙頊)の林婕妤。南剣の人。林洙の娘。幼くして選ばれて後宮に入った。成長すると、寵愛を受けて永嘉郡君に封ぜられ、美人に上った。趙俁・趙偲・邢国公主を産み、婕妤に進んだ。祐五年(1090)、薨去した。貴儀の位を贈られ、のち賢妃の位を贈られた。
武賢妃(?~1107)
  の神宗(趙頊)の武賢妃。選ばれて後宮に入った。豊五年(1082)、才人に進んだ。趙佖・賢和公主を産んだ。美人・婕妤と累進した。徽宗が即位すると、昭儀・賢妃に進んだ。大観年(1107)、薨去した。
昭慈聖献孟皇后(1072~1131)
  の哲宗(趙煦)の孟皇后。洺州の人。祐七年(1092)、哲宗の皇后に立てられた。紹聖三年(1096)、掖庭秘獄が起こり、左道の罪で廃され、瑤華宮に蟄居した。符三年(1110)、哲宗が崩ずると、内廷に召され、向太后とともに聴政した。祐皇后と号した。崇寧年(1102)、また廃された。靖康の変では、廃位されていたことが幸いして北に連れ去られずにすんだ。靖康二年(1127)、の張邦昌によって、再び祐皇后として立てられた。手ずから書して康王趙構(高宗)が立ちの皇統を継いだことを内外に告げた。建炎年(1127)、祐太后となり、さらに隆祐太后と改号した。
昭懐劉皇后(?~?)
  の哲宗(趙煦)の劉皇后。はじめ哲宗の御侍となった。美貌で多芸多才なため、寵愛を受けた。歌を作って孟皇后を誹謗し、皇后に取ってわった。徽宗が即位すると、符皇后となった。翌年、皇太后となり、崇恩宮と称された。しばしば朝政に干渉し、品行は改まらなかったので、徽宗は彼女の廃位を準備した。下人に迫られて、自ら縊死した。
顕恭王皇后(1084~1108)
  の徽宗(趙佶)の王皇后。開封の人。王藻の娘。符二年(1099)六月、端王趙佶にとつぎ、順国夫人に封ぜられた。徽宗が即位すると、皇后に立てられた。趙桓(欽宗)と崇国公主を産んだ。大観二年(1108)、崩じた。
鄭皇后(1080~1132)
  の徽宗(趙佶)の鄭皇后。開封の人。鄭紳の娘。容姿美しく、詩才にもすぐれ、徽宗に寵愛された。政和年(1111)、皇后に立てられた。欽宗(趙桓)が立つと、太上皇后となり、寧徳宮にうつって、寧徳太后を称した。開封が陥落すると、徽宗・欽宗らとともに北方に連れ去られた。多くの侮辱を受け、の燕京に着いたときには白髪と化していたという。抑留されること五年、五国城において崩じた。
王貴妃(?~1117)
  の徽宗(趙佶)の王貴妃。徽宗が即位すると、平昌郡君に封ぜられ、貴妃に進んだ。趙楷・趙植・趙機・柔福帝姫らを産んだ。
韋賢妃(1080~1159)
  の徽宗(趙佶)の韋賢妃。開封の人。韋安道の娘。後宮に入り、侍御となった。崇寧末年、平昌郡君に封ぜられた。大観初年に婕妤となり、のちに婉容に進んだ。趙構(のちの高宗)を産んだ。趙構が康王となると、彼女は龍徳宮賢妃に封ぜられた。徽宗・欽宗らとともに北方に連れ去られた。南宋が建てられると、宣和皇后と尊せられた。紹興七年(1137)、皇太后と尊せられた。十二年(1142)、江南に送還され、高宗自らに迎えられた。臨安に入り、慈寧宮に住んだ。
喬貴妃(?~?)
  の徽宗(趙佶)の喬貴妃。はじめ鄭皇后に仕え、韋賢妃とは姉妹の契りを結んだ。徽宗・欽宗らとともに北方に連れ去られた。韋妃が帰国するときには、酒を酌み交わし、涙を流して別れを惜しんだという。
劉貴妃(?~1113)
  の徽宗(趙佶)の劉貴妃。徽宗にもっとも愛された。才人から貴妃に累進した。趙棫、趙模、趙榛を産んだ。
朱皇后(?~?)
  の欽宗(趙桓)の朱皇后。開封祥符の人。朱伯材の娘。太子趙桓にとつぎ、皇太子妃となった。欽宗が即位すると、皇后に立てられた。徽宗・欽宗らとともに北方に連れ去られ、消息は伝わらなかった。
南宋(1127~1279)]
憲節邢皇后(1106~1139)
  の高宗(趙構)の邢皇后。開封祥符の人。邢煥の娘。康王趙構にとつぎ、嘉国夫人に封ぜられた。開封が陥落すると、徽宗・欽宗らとともに北方に連れ去られた。高宗が即位すると、不在のまま皇后に立てられた。紹興九年(1139)、五国城で崩じた。
憲聖慈烈皇后(1115~1197)
  の高宗(趙構)の皇后。開封の人。近の娘。十四歳のとき、選ばれて康王趙構の宮に入った。古典に広く通じ、書画をよくしたので、日増しに寵遇を受けるようになった。高宗が即位すると、戎服を着てそばに仕えた。和義郡夫人に封ぜられ、才人となり、婉儀に進んだ。紹興十二年(1142)、貴妃に立てられた。翌年、皇后に立てられた。高宗が孝宗に帝位を譲ると、太上皇后と号し、徳寿宮にうつった。高宗が崩ずると、皇太后となった。光宗が即位すると、寿聖皇太后と改号された。孝宗が崩ずると、太皇太后となった。ときに光宗が病と称して、喪を執り行わなかったので、知枢密院事趙汝愚の建議を納れて、光宗退位の手詔を宣布し、皇子嘉王を立てた。これが寧宗である。「古烈女図」などの画を残した。
潘賢妃(?~1148)
  の高宗(趙構)の潘賢妃。開封の人。潘永寿の娘。康王趙構にとつぎ、懿太子を産んだ。高宗が即位すると、賢妃となった。
張賢妃(?~1142)
  の高宗(趙構)の張婉儀。開封の人。建炎初年、才人となった。高宗の寵愛を受け、婕妤に進んだ。趙伯琮(のちの孝宗)を母がわりに養育した。婉儀に上った。死後、賢妃の位を贈られた。
劉貴妃(?~?)
  名は希。の高宗(趙構)の劉貴妃。銭塘人。紹興十八年(1148)、後宮に入った。のちに達貴妃に封ぜられ、御前文字を管掌した。書法にたくみで、絵画をよくした。絵画にはみな「奉華堂印」の図章が加えられた。表作に「太真酔浥花露」、「宮衣添銭」、「枚卜」、「宮綉」。
劉婉儀(?~?)
  の高宗(趙構)の劉婉儀。康王趙構の宮に入り、宜春郡夫人に封ぜられた。のちに婉儀に封ぜられた。建炎年間に内翰文字と写宸翰字を管掌した。画をよくし、とくに人物画を得意として、古人の筆法を模した。
張貴妃(?~1190)
  の高宗(趙構)の張貴妃。開封祥符の人。後宮に入り、永嘉郡夫人に封ぜられた。乾道六年(1170)、婉容に進んだ。淳熙七年(1180)、太上皇淑妃となった。十六年(1189)、貴妃に上った。
成穆郭皇后(1125~1156)
  の孝宗(趙シン)の郭夫人。開封祥符の人。郭瑊の娘。普安郡王趙伯琮(のちの孝宗)にとついで咸寧郡夫人に封ぜられた。光守・荘文太子・趙愷・趙恪を産んだ。死後、淑国夫人に追封され、孝宗が立つと、皇后の位が贈られた。
成恭皇后(?~1167)
  の孝宗(趙シン)の皇后。袁州宜春の人。協の娘。後宮に入り、憲聖太后に仕えた。普安郡王趙伯琮(のちの孝宗)の郭夫人が亡くなると、後妻として迎えられ、安郡夫人に封ぜられた。孝宗が即位すると、賢妃に立てられた。翌年、皇后に上った。
成肅謝皇后(?~1203)
  の孝宗(趙シン)の謝皇后。丹陽の人。幼くして孤児となり、翟氏に育てられた。成長すると、選ばれて後宮に入り、普安郡王趙伯琮(のちの孝宗)にとついで、咸安郡夫人に封ぜられた。孝宗が即位すると、婉容となった。翌年、貴妃に進んだ。淳熙三年(1176)、皇后に立てられた。孝宗が光宗に帝位を譲ると、寿成皇后と号した。孝宗が崩ずると、皇太后となった。慶初年、恵慈皇太后と号した。嘉泰二年(1202)、慈佑太皇太后となった。
蔡貴妃(?~1185)
  の孝宗(趙シン)の蔡貴妃。蔡滂の娘。後宮に入り、和義郡夫人に封ぜられた。婉容に進んだ。淳熙十年(1183)冬、貴妃に任ぜられた。
李賢妃(?~1183)
  の孝宗(趙シン)の李婕妤。後宮に入り、典字となり、通義郡夫人に封ぜられた。婕妤に進んだ。死後、賢妃の位を贈られた。
慈懿李皇后(1145~1200)
  字は鳳娘。の光宗(趙惇)の李皇后。相州安陽の人。李道の娘。恭王趙惇にとつぎ、妃として迎えられ、栄國夫人に封ぜられた。乾道四年(1168)、嘉王を生んだ。七年(1171)、皇太子妃となった。淳煕十六年(1189)、光宗が即位すると、皇后に冊立された。嘉王を皇太子に立てるよう願ったが、太上皇(孝宗)に反対されたため、太上皇が廃立を企んでいると光宗に讒言した。光宗は皇后の言に惑わされて、父子の間は険悪になった。黄貴妃が光宗の寵愛を受けていたが、皇后はこれを謀殺した。太上皇の死後は、一族を重用して、専横をきわめた。寧宗が立つと、太上皇后となった。
黄貴妃(?~1191)
  の光宗(趙惇)の黄貴妃。淳熙末年、徳寿宮に入り、和義郡夫人に封ぜられた。皇太子趙惇にもっとも愛された。光宗が即位すると、貴妃に上った。紹熙二年(1191)十一月、李皇后に謀殺された。
恭淑韓皇后(?~1200)
  の寧宗(趙擴)の韓皇后。韓同卿の娘。選ばれて後宮に入り、平陽郡王趙擴にとついで、安郡夫人に封ぜられた。崇国夫人に進んだ。寧宗が即位すると、皇后に冊立された。
恭聖仁烈楊皇后(1162~1233)
  の寧宗(趙擴)の楊皇后。会稽の人。楊懿之の娘。美貌をもって選ばれて後宮に入った。慶年(1195)、平楽郡夫人に封ぜられた。婉儀、次いで貴妃に上った。韓皇后が薨ずると、曹夫人と皇后の位を争った。嘉泰二年(1202)、皇后に立てられ、曹夫人を推した韓侘冑を謀殺した。太子趙拡が皇后と宰相史弥遠の専権を憎み、史弥遠を追放しようとした。史弥遠は趙拡を廃位すべく、趙昀(のちの理宗)を皇后に会わせた。皇后はやむをえず、趙拡を廃して済王とし、趙昀を皇太子とした。理宗が立つと、皇太后となり、垂簾聴政した。『楊太后宮詞』。
謝皇后(1210~1283)
  名は道。天台の人。の理宗(趙昀)の謝皇后。謝渠伯の娘。生まれたときは肌が黒く、片眼を失していたという。祖父の謝深甫が楊太后と親しかったので、選ばれて後宮に入った。まもなく病にかかり、快復すると肌は白くなり、目も見えるようになったと伝えられる。通義郡夫人に封ぜられた。宝慶三年(1255)九月に貴妃となり、十二月に皇后に立てられた。理宗は賈貴妃や閻貴妃を寵愛したが、皇后は意に介さなかった。開慶初年、蒙古兵が長江を渡って攻めてきたので、理宗は遷都を議論させたが、皇后は民心の動揺するのを恐れて反対した。そのため遷都は取りやめとなった。理宗が崩じて、度宗(趙キ)が立つと、咸淳三年(1267)に寿和聖福皇太后となった。徳祐二年(1276)二月、恭宗(趙ケン)がに降ると、太后は八月に大都に入り、寿眷郡夫人に封ぜられた。
全皇后(?~?)
  の度宗(趙キ)の全皇后。会稽の人。忠王の妃として選ばれ、後宮に入った。景定二年(1261)十一月、永嘉郡夫人に封ぜられた。十二月に皇太子妃に立てられた。咸淳三年正月、皇后に立てられた。十年、度宗が崩ずると、皇太后となった。徳祐二年(1276)、恭宗(趙ケン)がに降ると、大都に入り、尼となって正智寺に住持した。
楊淑妃(?~1279)
  の度宗(趙キ)の楊淑妃。後宮に入って美人となった。咸淳三年(1267)、淑妃に上った。建国公趙昰を産んだ。徳祐二年(1276)五月、趙昰(端宗)が福州で立つと、皇太后と尊称され、臨朝聴政した。景炎三年(1278)、端宗が崩ずると、異母弟の趙昺が立てられた。祥興二年(1279)二月、厓山で軍が敗れると、陸秀夫が趙昺を背負って海に身を投げた。妃はこれを聞いて、また身を投げて死んだ。
歴代后妃(遼・金・元)

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