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歴代后妃(秦・漢)

歴代后妃伝説,,,周,,,三国,,北朝,南朝,,,五代,,,,
(前221~前206)]
恵文后(?~?)
  の恵文王(駟)の妃。武王(蕩)を産んだ。
宣太后(?~前265)
  羋氏。の恵文王(駟)の妃。の人。恵文王の宮に入り、八子となった。昭襄王(稷)・涇陽君(悝)・高陵君(顕)を産んだ。昭襄王が立つと、太后の異父弟の冉を相とし、同父弟の羋戎を華陽君に封じた。太后が若年の昭襄王にわっての朝政を決裁した。前266年、范雎が昭襄王に進言して、太后は廃され、冉は相国の任を解かれ、華陽君・涇陽君・高陵君も領地に帰された。翌年、憂憤のうちに亡くなった。
武后(?~?)
  の武王(蕩)の妃。の人。王の娘。子がなく、昭襄王が即位して、諸公子の乱が静まると、に帰された。
太后(?~?)
  の昭襄王(稷)の妃。昭襄王の宮に入り、八子となった。孝文王を産んだ。
華陽夫人(?~?)
  の孝文王(柱)の正妃。寵愛を受けたが、子がなく、子(のちの荘襄王)を太子に立てさせ、地位を保全した。のちに荘襄王が即位すると、華陽太后と号された。
太后(?~前240)
  姫。の孝文王(柱)の妃。子(のちの荘襄王)を産んだ。あまり寵愛されず、子は趙に人質に出された。
帝太后趙氏(?~前228)
  趙姫。の荘襄王(子)の妃。邯鄲の人。容貌すぐれ、舞をよくした。呂不韋の妾として納れられた。のちに子に献上され、政(のちの始皇帝)を産んだ。政が王となったのちも、素行がおさまらなかった。呂不韋の画策で宦官と称して嫪アイを宮中に入れ、房事を楽しんだ。二人の子をひそかに儲けた。密事が洩れて、嫪アイは王に誅され、二人の子も殺され、彼女は雍にうつされた。のちに呂不韋の失脚と入れわりに、咸陽に呼び戻された。

歴代后妃伝説,,,周,,,三国,,北朝,南朝,,,五代,,,,
前漢(西)(前206~8)]
呂皇后(前241~前180)
  名は雉。字は娥姁。の高祖(劉邦)の呂皇后。山陽郡単父の人。呂公の娘。呂公は劉邦を見て非凡だと思い、娘の呂雉をめあわせた。彼女は劉盈(のちの恵帝)と公主を生んだ。が争って、劉邦が彭城に敗れると、呂雉は項羽に捕らえられた。広武山で両軍が和睦すると返された。劉邦が皇帝に即位すると、皇后として立てられた。政敵の謀殺や叛乱の鎮圧をよく進言した。劉邦が戚姫を寵愛して、その子の如意を太子にしようとすると、張良に策を献じさせてこれを防いだ。劉盈が即位すると、皇太后となり、垂簾政治をおこなった。戚姫を捕らえ、趙王如意を殺した。少帝恭が立ったが、不満を漏らした少帝を幽閉して殺し、少帝弘を立てた。呂一族を王に封じ、劉姓の諸侯を圧迫した。
薄姫(?~前155)
  の高祖(劉邦)の薄夫人。文帝(劉恒)の母。郡の人。豹が立つと、の宮中に入った。豹はと通じたため曹参に捕らえられた。豹の死後、薄姫は高祖(劉邦)の後宮に入った。劉恒を産んで、劉恒は八歳で王に立てられた。王に立って十七年して、呂太后が崩じ、呂氏が滅ぼされると、大臣たちは相談して劉恒を帝に迎えた。このため薄氏は皇太后となった。
張皇后(?~前163)
  の恵帝(劉盈)の張皇后。張敖の娘。母は公主。恵帝が即位すると、帝にめあわされ、皇后となった。子ができなかったので、後宮の美人の子を引き取って太子とした。呂氏の滅亡後、廃されて北宮に幽閉された。
呂皇后(?~前180)
  の少帝弘(劉弘)の呂皇后。呂禄の娘。少帝の后に立てられたが、呂氏が大臣たちに滅ぼされると廃殺された。
竇皇后(?~前135)
  の文帝(劉恒)の竇皇后。景帝(劉啓)の母。河郡観津の人。呂太后のとき、良家の子女として選ばれて宮中に入った。太后が宮女を出して諸王に賜うこととしたとき、実家に近い趙を望んだが、手違いでに送られた。王劉恒の寵愛を受けて、娘の劉嫖を産み、息子の劉啓を産んだ。劉恒が京師に入って帝位につくと、皇后に立てられた。劉啓は太子となり、劉嫖は館陶長公主となった。末子の劉武は王、のちに王となった。后は病気のため失した。文帝が崩じ、劉啓が帝位につくと皇太后となった。彼女は黄老を好み、政治にも影響を与えて、無為緊縮で国庫は潤った。武帝(劉徹)の治世の初頭にも影響力を保持し、武帝が登用しようとした儒家をしりぞけた。
薄皇后(?~前147)
  の景帝(劉啓)の薄皇后。郡の人。薄太后に選ばれて太子劉啓の妃となった。劉啓が帝位につくと、皇后となった。子がなく、薄太后が亡くなると、廃位された。廃されて四年後に亡くなった。
王皇后(?~前126)
  の景帝(劉啓)の王皇后。武帝(劉徹)の母。槐里の人。王仲の娘。母は臧児。はじめ王孫の妻となったが、臧児がこれを離別させようとしたため、王孫が怒って王氏を太子劉啓の宮に入れた。劉啓の寵愛を受けて三女一男を産んだ。劉啓が即位して数年、息子の劉徹は膠東王となった。景帝の姉の館陶長公主と太子の母栗姫が対立し、館陶長公主は栗姫を讒言し、王夫人の子を褒めちぎったので、ついに景帝は太子を廃し、わって劉徹を太子とした。栗姫は憤死し、王夫人は皇后に立てられた。劉徹が即位すると、皇太后となった。
皇后(?~?)
  の武帝(劉徹)の皇后。堂邑侯午の娘。母は館陶長公主劉嫖。館陶長公主ははじめ栗姫の子の太子に娘をとつがせようとしたが、栗姫が拒絶して対立が深まったので、王夫人の子の膠東王劉徹に娘をとつがせた。長公主の工作により、劉徹は太子となることができた。劉徹が即位すると、氏は皇后となった。尊貴に驕ったが、子ができなかった。子夫に嫉妬して呪詛をおこなっていたことが発覚し、廃位されて長門宮に幽閉された。
皇后(?~前91)
  字は子夫。の武帝(劉徹)の皇后。河東郡平陽の人。鄭季の娘。青の姉にあたる。生まれは身分が低く、平陽公主の歌手となった。武帝が平陽公主のもとを訪れたとき、子夫を見初めた。宮中に入れられ、寵愛を受けて三女を産んだ。年(前128)、劉拠(戻太子)を産み、皇后に立てられた。征和二年(前91)、巫蠱事件が起こり、戻太子が起兵して敗れると、皇后の璽綬を剥奪され、自殺した。
李夫人(?~?)
  の武帝(劉徹)の李夫人。中山の人。李広利・李延年の妹にあたる。舞をよくした。楽人として宮中に上げられ、武帝の寵愛を受けた。昌邑哀王劉髆を産んだ。夫人は若くして亡くなった。
趙婕妤(?~前88)
  の武帝(劉徹)の趙婕妤。昭帝(劉弗陵)の母。河間国の人。武帝が巡狩して河間を通ったとき見出した。拳夫人、鉤弋婕妤ともいう。
上官皇后(前88~前37)
  の昭帝(劉弗陵)の上官皇后。隴西郡上邽の人。上官安の娘。六歳で昭帝にとつぎ、皇后に立てられた。上官桀・上官安父子が滅ぼされても、廃されなかった。昭帝の死後、皇太后となった。霍光とともに昌邑王劉賀を廃して、宣帝(劉詢)を立てた。宣帝が立つと、太皇太后となった。
史良娣(?~前91)
  の宣帝(劉詢)の祖母。太子(劉拠)の史夫人。戻后。国の人。鼎四年(前113)、宮中に入り、史皇孫(劉進)を産んだ。巫蠱事件で殺された。
王夫人(?~前91)
  名は翁須。の宣帝(劉詢)の母。史皇孫(劉進)の王夫人。悼后。涿郡蠡吾の人。王廼始の娘。歌舞をよくし、劉仲卿の家に寄食した。泰始年間、史皇孫の寵幸を受けた。征和二年(前91)、宣帝を産んだ。巫蠱事件で殺された。
許皇后(?~前71)
  名は平君。の宣帝(劉詢)の許皇后。帝(劉奭)の母。昌邑郡の人。許広の娘。内者令欧侯氏の子と婚約していたが、欧侯氏の子が亡くなったため、民間にあった皇曾孫劉病已(のちの宣帝)にとついだ。のちに帝を産んだ。宣帝が皇帝として立つと、婕妤となり、皇后に立てられた。霍光夫人顕が末娘の霍成君を立てさせようとして、女医淳于衍を用いて皇后を毒殺した。恭哀皇后と諡された。
霍皇后(?~前54)
  名は成君。の宣帝(劉詢)の霍皇后。霍光の娘。許皇后の死後、後宮に入り、皇后に冊立された。許皇后の子の劉奭(のちの帝)が太子に立てられると、母の顕が太子を殺すため皇后に毒をもたせ、失敗すると謀反をはかったため、皇后は廃位された。昭台宮に軟禁され、のち雲林館にうつされると、まもなく自殺した。
王皇后(?~前16)
  の宣帝(劉詢)の王皇后。京兆郡長陵の人。王奉光の娘。宣帝が民間にいたころ、しばしば王奉光と会った。宣帝が皇帝として立つと、王氏は後宮に入り、位が進んで婕妤となった。霍皇后が廃位されると、恭謹で子がなかったため選ばれて皇后に立てられた。皇后となった以後は、宣帝にまみえることも稀で、寵愛されなかった。帝(劉奭)が立つと、皇太后となり、成帝(劉驁)が立つと、太皇太后となった。邛成太后と尊称された。七十余歳で亡くなった。
王皇后(前71~13)
  名は政君。帝(劉奭)の王皇后。城の人。王禁の娘。母は李親。
傅昭儀(?~前2)
  帝(劉奭)の傅昭儀。哀帝(劉欣)の祖母。河内郡温県の人。宮中に上って上官太后の才人をつとめた。太子劉奭の寵愛を受けた。帝が即位すると、婕妤となった。定陶共王劉康と平都公主を産んだ。昭儀に上った。帝が崩ずると、劉康に従って定陶国に下向し、定陶太后を称した。劉康が亡くなると、孫の劉欣を養育した。延四年(前9)、趙昭儀と王根に賄賂を贈って、劉欣が帝室の後継者になれるよう運動し、ついに劉欣を皇太子に立てさせた。哀帝が即位すると、帝太太后となった。まもなく皇太太后と改め、永信宮を称した。王太皇太后(王政君)に対する恨みを忘れず、寿年(前2)に祝詛の罪に落とされて自殺させられた。
許皇后(?~前8)
  の成帝(劉驁)の許皇后。昌邑郡の人。許嘉の娘。帝(劉奭)の命により選ばれて、皇太子(劉驁)にとついだ。書をよくし、寵愛された。男子を産んだがまもなく死んだ。成帝が皇帝として立つと皇后に立てられ、女子を産んだがまた亡くなった。ときに天変災異が多く、その責めを皇后に帰せられ、寵愛も衰えた。姉の平安剛侯夫人許謁らが王美人や王鳳を呪詛した事件に連座して、皇后は廃位された。昭台宮に軟禁され、のち長定宮にうつされた。定陵侯淳于長と通じて、皇后に返り咲こうと謀った。淳于長の書信に成帝をあなどる言葉があって、書信が官の手に落ちて発覚すると、廃后は毒薬を賜って自殺した。
班婕妤(?~前7)
  の成帝(劉驁)の班婕妤。成帝が即位すると、選抜されて後宮に入った。はじめ少使だったが、寵愛を受けて婕妤に上った。男児を産んだが、数ヶ月で亡くした。趙飛燕姉妹が成帝の寵愛を受けるようになると、かえりみられなくなった。陥れられることをおそれて、自ら身を退き、長信宮で太后に仕えた。成帝が崩ずると、園陵の奉仕にあたった。
趙皇后(?~前1)
  号は飛燕。の成帝(劉驁)の趙皇后。趙臨の娘。はじめ長安の官婢であった。陽阿公主の家に入って、歌舞を学んだ。成帝が陽阿公主の家を訪れたとき、飛燕を見出して後宮に入れた。妹とともに婕妤となった。許皇后が廃されると、飛燕は皇后に立てられ、妹は昭儀となった。姉妹で十余年にわたって寵をもっぱらにしたが、子がなかった。傅太后が彼女たちに賄賂を贈ることで、定陶王劉欣(のちの哀帝)が皇太子に立てられた。成帝が突然に崩じ、民間に謡言が流布すると、罪をえて趙昭儀は自殺した。哀帝が立つと、趙皇后は皇太后となった。趙昭儀が成帝と許美人の間の子を死なせた事件が発覚したが、太后は連座をまぬかれた。哀帝が崩ずると趙太后は王莽に廃されて庶民に落とされて自殺した。
丁太后(?~前5)
  の哀帝(劉欣)の母。定陶郡の人。山陽王劉康(定陶共王)にとつぎ、劉欣を産んだ。哀帝が即位すると、帝太后となり、中安宮を称した。死後、王莽により丁姫と貶号され、一族は失脚し、墓は暴かれ、平地とされた。
傅皇后(?~前1)
  の哀帝(劉欣)の傅皇后。河内郡温県の人。傅晏の娘。定陶太后(傅昭儀)の甥の子にあたる。定陶王劉欣にとついだ。劉欣が皇太子となると、皇太子妃となった。哀帝が即位すると、皇后に立てられた。哀帝が崩じ、平帝が立つと、王莽の上奏が容れられて桂宮にうつされた。まもなく趙太后(趙飛燕)とともに廃されて庶民とされ、自殺した。
中山孝王姫(?~9)
  の平帝(劉カン)の母。中山孝王(劉興)の夫人。中山郡盧奴の人。子豪の娘。中山孝王にとつぎ、延四年に平帝を産んだ。翌年、中山孝王が亡くなり、平帝が中山王を継いだ。平帝が即位したが、京師に行くことを王莽に禁じられた。中山孝王后となり、苦陘県を湯沐の邑とした。京師に行けるよう請願したが中山の故安の戸七千を加封されただげだった。王宇が宝と結んで王莽の邸に牛血を塗りつける事件が発覚し、王宇は服毒死し、氏一族はことごとく処刑された。后ひとり無事であったが、王莽が帝位を簒奪すると、庶民に落とされ、のち一年あまりで没した。
王皇后(前9~23)
  の平帝(劉カン)の王皇后。城の人。王莽の娘。王莽が王太皇太后の反対を押し切って後宮に入れさせた。皇后に立てられた。平帝が崩ずると、皇太后となった。王莽が帝位につくと、定安公太后と改めた。以後、病と称して公の場に姿を現さなかった。王莽が太后を再嫁させようと図り、黄皇室主と改号し、成公孫建の子を見舞いに行かせた。太后は怒って、近侍を鞭打ち、そのまま寝込んだ。このため王莽は再び強いようとしなかった。更始帝の軍が王莽を殺し、未央宮を焼くと、自ら火中に身を投じて亡くなった。

(8~23)]
孝穆王皇后(?~21)
  王莽の王皇后。宜春侯王咸の娘。王莽にとつぎ王宇・王獲・王安・王臨を産んだ。王莽がしばしば我が子を殺したため涕泣のあまり失したという。太子王臨に扶養された。
原碧(?~21)
  孝穆皇后に仕えた。王莽に寵愛されたが、太子王臨とも密通した。事が洩れるのをおそれて、王臨とともに王莽暗殺を計画した。王莽が孝穆皇后を見舞ったとき、王臨の書簡を発見して事を詮議し、彼女は捕らえられて陰謀を自白した。

後漢(東)(25~220)]
郭皇后(10~52)
  名は聖通。後漢の光武帝(劉秀)の郭皇后。真定郡稾の人。郭昌の娘。母は真定恭王の娘。劉秀が王郎を討って真定にいたると、彼女をめとって貴人とした。建武二年(26)、子の劉疆が皇太子となり、彼女は皇后に立てられた。のちに寵愛が衰え、帝に恨みをいだくようになった。十七年(41)、廃位されて中山王太后となった。のちに中山王劉輔が沛王に転封されると、沛太后と改号した。
光烈陰皇后(5~64)
  名は麗華。後漢の光武帝(劉秀)の陰皇后。南陽郡野の人。劉秀が野にいたとき、「官に仕えるなら執吾となるべし、妻にめとるなら陰麗華を得るべし」と言わしめた。更始年(23)、劉秀にとついだ。光武帝が即位すると、洛陽に迎えられ、貴人となった。建武四年(28)、劉荘(のちの帝)を産んだ。十七年(41)、郭皇后が廃されると、皇后に立てられた。兄の陰識や弟の陰興はともに高位に上った。帝が即位すると、皇太后となった。
徳馬皇后(40~79)
  後漢帝(劉荘)の馬皇后。扶風郡茂陵の人。馬援の娘。建武二十八年(52)、太子劉荘の宮に入った。陰皇后によく仕えた。帝が即位すると、貴人となった。子がなく、皇子劉烜を養い育てた。永平三年(60)、皇后に立てられた。『易経』をよく誦し、『春秋』、『周官』を好んだ。自ら『帝起居注』を撰した。慎み深く公平な態度で、帝の政務に適切な助言を与えた。章帝が立つと皇太后となった。章帝が彼女の実家の人々に封地や爵位を与えようとしたが、前漢敗亡の禍が外戚にあったことを持ち出してこばみ続けた。
賈貴人(?~?)
  後漢帝(劉荘)の賈貴人。南陽郡の人。建武末年、選ばれて太子宮に入った。章帝(劉烜)を産んだ。
章徳竇皇后(?~97)
  後漢の章帝(劉烜)の竇皇后。扶風郡平陵の人。竇勳の娘。建初二年(77)、妹とともに長楽宮に入った。翌年、皇后に立てられた。子がなく、太子劉慶を産んだ貴人と劉肇(のちの和帝)を産んだ貴人を死に追いやった。
貴人(?~82)
  後漢の章帝(劉烜)の貴人。扶風郡平陵の人。楊の娘。妹とともに後宮に入った。太子劉慶を産んだ。邪媚の道を用いたと誣告されて、服毒自殺した。劉慶は河王に降格された。
貴人(?~83)
  後漢の章帝(劉烜)の貴人。竦の娘。建初二年(77)、姉とともに後宮に入り、貴人となった。四年(79)、和帝(劉肇)を産んだ。八年(83)、竦が匿名の怪文書のために陥れられて獄中で死に、一族が九真郡に流されると、貴人姉妹も憂憤のうちに没した。
陰皇后(?~102)
  後漢の和帝(劉肇)の陰皇后。南陽郡野の人。永四年(92)、貴人となり、寵愛を受けた。八年(96)、皇后に立てられた。鄧氏が入内すると寵愛が衰え、恨みをいだくようになった。十四年(102)、外祖母の鄧朱とともに巫蠱媚道をおこなったとして罪をえて、廃されて桐宮に蟄居した。のちに憂死した。
和熹鄧皇后(81~121)
  名は綏。後漢の和帝(劉肇)の鄧皇后。南陽郡野の人。鄧訓の娘。鄧禹の孫娘にあたる。幼くして学問に通じ、つつしみ深かった。永七年(95)、宮中に入った。翌年、貴人となった。十四年(102)、陰皇后が廃されると、皇后に立てられた。和帝が崩ずると、皇太后として臨朝聴政した。贅沢をいましめ、簡素で寛容な政治につとめた。殤帝・安帝の間、執政にあたった。
安思閻皇后(?~126)
  名は姫。後漢の安帝(劉祐)の閻皇后。河南郡滎陽の人。閻暢の娘。年(114)、選ばれて後宮に入り、貴人となった。翌年、皇后に立てられた。安帝が李氏を寵愛し、李氏が劉保(のちの順帝)を産むと、皇后は李氏を毒殺した。江京・樊豊らとともに皇太子劉保を讒言し、済陰王に落とさせた。延光四年(125)、安帝が崩ずると、皇太后となり、北郷侯劉懿(少帝)を擁立した。孫程が江京を殺し、順帝を迎えると、閻顕・閻景・閻晏も誅され、皇太后は離宮に幽閉された。翌年、亡くなった。
順烈皇后(106~150)
  名は妠。後漢の順帝(劉保)の皇后。安定郡烏氏の人。商の娘。幼くして女仕事をよくし、『論語』や『韓詩』を読んだ。永建三年(128)、選ばれて後宮に入り、貴人となった。陽嘉年(132)、皇后に立てられた。建康年(144)、順帝が崩ずると、冲帝(劉炳)を擁立した。皇太后となり、臨朝聴政した。冲帝がまもなく亡くなると、質帝(劉纘)を立て、引き続き聴政した。太尉李固らを抜擢したが、兄の冀が質帝を毒殺し、専権をふるい、桓帝(劉志)を立て、李固らを殺した。また太后は宦官を寵愛して、その台頭を許し、士人たちの失望を買った。和平年(150)、政権を桓帝に返し、まもなく病のため崩じた。
虞美人(?~?)
  後漢の順帝(劉保)の虞美人。虞詩の娘。十三歳で後宮に入り、舞陽長公主と冲帝(劉炳)を産んだ。虞大家と称された。熹平四年(175)、憲陵貴人に任ぜられた。
夫人(?~?)
  郡の人。渤海孝王劉鴻の宮に入り、後漢の質帝(劉纘)を産んだ。
孝崇匽皇后(?~152)
  名は。蠡吾侯劉翼の媵妾となり、後漢の桓帝(劉志)を産んだ。桓帝が即位すると、博園貴人となった。和平年(150)、太后が崩ずると、匽氏は孝崇皇后となった。
懿献皇后(?~160)
  名は女瑩。後漢の桓帝(劉志)の皇后。安定郡烏氏の人。商の娘。順烈皇后の妹にあたる。桓帝が蠡吾侯のとき、とついだ。建和年(147)、皇后に立てられた。自ら産んだ子がおらず、桓帝の子をはらんだ宮女たちを殺した。延熹三年(160)、憂憤のうちに崩じ、懿陵に葬られた。同年に冀が誅殺されたため、懿陵は貴人冢と改められた。
鄧皇后(?~165)
  名は猛女。後漢の桓帝(劉志)の鄧皇后。南陽郡野の人。鄧香の娘。幼いときに孤児となり、母の実家の家に育てられた。永興年間に後宮に入り、采女となった。延熹三年(160)、皇后に立てられた。尊貴をたのんで驕慢であり、一族はみな校・郎将に列した。八年(165)、廃位され、幽閉されて憂死した。
桓思竇皇后(?~172)
  名は妙。後漢の桓帝(劉志)の竇皇后。扶風郡平陵の人。竇武の娘。延熹八年(165)、鄧皇后が廃されると、竇妙は後宮に入って貴人となり、同年冬に皇后に立てられた。桓帝にまみえることもまれで、帝の寵愛は田聖らにあった。子がないまま桓帝が崩ずると、皇太后となり、解犢亭侯劉宏(霊帝)を擁立した。田聖らを殺して積年の恨みを晴らした。父の竇武が宦官誅殺を図り、かえって中常侍曹節らに殺され、太后は南宮雲台に幽閉された。
孝仁董皇后(?~189)
  河間郡の人。解犢亭侯劉萇の夫人となり、後漢の霊帝(劉宏)を産んだ。霊帝が即位すると、慎園貴人となった。のちに孝仁皇后の尊号を受け、南宮嘉徳殿に住み、永楽宮と称した。
皇后(?~178)
  後漢の霊帝(劉宏)の皇后。扶風郡平陵の人。鄷の娘。建寧三年(170)、選ばれて後宮に入り、貴人となった。翌年、皇后に立てられた。王甫らが皇后が呪詛をおこなっていると讒言し、帝はこれを信じたため、光和年(178)に自ら謹慎し、まもなく憂死した。
霊思何皇后(?~189)
  後漢の霊帝(劉宏)の何皇后。南陽郡宛の人。屠殺業者の家に生まれ、のちに選ばれて宮に入った。皇子劉弁を産み、貴人に立てられた。光和三年(180)、皇后に進んだ。劉弁が帝に立てられると、皇太后となり、臨朝聴政した。兄の大将軍何進による宦官誅殺の謀をたびたびはばんだ。董卓が少帝を廃して弘農王とすると、永安宮にうつされて、まもなく毒殺された。
伏皇后(?~214)
  名は寿。後漢の献帝(劉協)の伏皇后。琅邪郡東武の人。伏完の娘。興平二年(195)、皇后に立てられた。献帝が都を許にうつした後、曹操が専権をにぎった。皇后は伏完に曹操誅殺の密命を発したが、伏完は曹操を恐れて実行しなかった。建安十九年(214)になってその事が洩れて廃されて死に、彼女の兄弟や彼女が産んだ二子も殺された。
献穆曹皇后(?~237)
  名は節。後漢の献帝(劉協)の曹皇后。曹操の次女。建安十八年(213)、曹操は曹憲・曹節・曹華の三人の娘を後宮に入れた。翌年、そろって貴人となった。伏皇后が拭されると、二十年(215)に曹節が皇后に立てられた。献帝がの文帝(曹丕)に禅譲して退位すると、皇后は山陽公夫人となった。の景初年(237)に薨去した。
歴代后妃(三国・晋)

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