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歴代皇帝(北朝)

歴代皇帝,,三国,,北朝,南朝,,,五代,,,,
[北魏(386~534)] Northern WEI(Later WEI)
拓跋珪(371~409) Toba Gui
  北魏の初道武帝(Daowudi)。廟号は太祖。在位386~409。鮮卑族拓跋部の出身。拓跋寔君の子。王拓跋什翼犍の孫にあたる。太年(376)、拓跋什翼犍は前秦に敗れて没し、は崩壊。当時六歳だった拓跋珪は、独孤部の劉庫仁のもとに身を寄せた。のちに母方の親戚の賀蘭部に移った。前秦が淝水の戦いで東晋に敗れて国勢が衰えると、拓跋珪は中川で旧民を糾合し、太安二年(386)、王の位につき、登国と建した。同年、盛楽に都を定め、国号をと改めた。庫莫奚・高車・匈奴を破って、鮮卑各部を統一した。皇始二年(397)には後燕を破って燕都・中山を抜き、天興年(398)には平城に遷都して、帝を称した。北方の旧俗を捨て、官制・律令を定め、北方人も人と同じく戸籍に編入し、いわゆる化政策を取った。五年(402)には後秦の姚興を破った。晩年は寒食散を嗜んで性が粗暴苛酷となり、しばしば大臣を殺したため、朝野の危惧を買った。天賜六年(409)、次男・拓跋紹に殺害されて崩じた。
拓跋嗣(392~423) Toba Si
  北魏の二帝(Mingyuandi)。廟号は太宗。在位409~423。道武帝(拓跋珪)の長男。天賜六年(409)、十八歳で即位した。族の士人を籠絡することに意をそそぎ、各地に使者を送って俊彦と先賢を求めさせた。農業生産を重視して、たに帰属した民を大寧川に移住させ、農具を支給して耕させた。神瑞二年(415)、崔浩の策に従い、雲中・郡の貧民を冀・定・相州に分けて、食にありつかせた。泰常七年(422)、を攻めて、兗・青二州を占領させた。柔然を防ぐため、赤城から五原にいたる二千余里の長城を修築して、鎮戌を設けさせた。史伝を好み、劉向の『序』『説苑』の欠けたところを補い、『書』を撰した。
拓跋燾(408~452) Toba Tao
  字は仏理。北魏の三太武帝(Taiwudi)。廟号は世祖。在位423~452。帝(拓跋嗣)の長男。十六歳のとき、父が崩じて即位。はじめはと修交し、華北の統一に意をそそいだ。北方の柔然がしばしば侵犯したので迎撃してこれを破り、また親征して高車族三十余万を帰服させた。北燕北涼を滅ぼして、太延五年(439)には華北を統一した。崔浩を信任して、人官僚の首席とし、尚書省の下に八部を編入した。太平真君十一年(450)、を討つために親征し、に大勝した。この南征のときに行われた殺戮はすさまじく、北魏軍の通過した郡県は荒涼を極めたという。長江を渡る直前に引き返して、凱旋した。内政においては法の厳格な適用をつらぬいた。寇謙之の道教を重んじて、仏教を大弾圧した。晩年、宦官の宗愛の言を容れて、皇太子のふたりの重臣を処刑したため、皇太子は衝撃を受けて病没した。責任を問われるのを恐れた宗愛によって、帝は殺された。
拓跋濬(440~465) Toba Jun
  北魏の四文成帝(Wenchengdi)。廟号は高宗。在位452~465。太武帝(拓跋燾)の孫にあたる。正平二年(452)、中常侍宗愛が太武帝を殺して南安王拓跋余を立て、また拓跋余も殺した。殿中尚書源賀・南部尚書陸麗らが宗愛を捕殺し、拓跋濬を擁立した。ときに齢十三で、陸麗らが輔政にあたった。民力休養につとめ、たびたび巡幸して吏治を監察し、開墾植産を奨励した。仏教弾圧をやめさせ、沙門統の曇曜の上奏を容れて僧祇戸・仏図戸を設けた。また詔を下して、異なる身分間の通婚を禁じた。南朝に遣使して通交を保ち、北方の柔然を攻撃した。馮氏を皇后に立てた。
拓跋弘(454~476) Toba Hong
  北魏五代献文帝(Xianwendi)。廟号は顕祖。在位465~471。文成帝(拓跋濬)の長男。太安二年(456)、皇太子に立てられた。和平六年(465)、十二歳にして帝位についた。はじめ丞相の乙渾が専権をふるったが、母の馮太后が乙渾を殺して称制した。鎮東大将軍尉らを遣わして南朝を討ち、淮北の青・冀・徐・兗州と豫州の淮西の地を奪った。皇興三年(469)、子の宏を皇太子とし、親政をはじめた。三等九品の制を定め、九品混通の制を行った。黄老・仏教を好んだ。五年(471)、位を譲り、太上皇帝を自称した。馮太后の寵愛する李奕を殺したため、太后に憎まれて毒殺されたという。
宏(467~499) Yuan Hong
  北魏の六孝文帝(Xiaowendi)。廟号は高祖。在位471~499。献文帝(拓跋弘)の長男。五歳のとき、父から譲られて即位した。はじめ祖母の馮太皇太后に政権を握られた。このころ北魏は、人官僚の活躍によって、儒教的礼制を採用し、均田制を施行し、三長制を確立した。太和十四年(490)、馮太皇太后が没すると親政を開始し、さらに急激な化政策を進めた。十七年(493)、都を平城から洛陽に遷し、胡服・弁髪を廃し、言語を語とすることを定めた。また、北族の姓を風に改め、みずから帝室の姓をと改めた。これらの急激な改革は、北族に不満をつのらせ、皇太子・恂の叛乱を誘発した。また、帝の死後の北鎮の乱の遠因ともなった。
恪(483~515) Yuan Ke
  北魏の七宣武帝(Xuanwudi)。廟号は世宗。在位499~515。孝文帝(宏)の次男。太和二十三年(499)、十六歳にして帝位につき、咸陽王禧・尚書令王粛らの輔政を受けた。景二年(501)、親政をはじめた。宗室を遠ざけ、外戚の高肇に政治を委ねた。禧・勰・愉らの諸王を誅殺した。在位中、国家財政は傾き、政治は腐敗し、仏教が隆盛をきわめた。売官が横行し、貴族は奢侈に溺れ、南にを攻めて失敗を重ねた。州主簿呂苟児の乱・冀州の僧法慶の乱など、蜂起が相次いだ。
詡(510~528) Yuan Xu
  北魏の八帝(Xiaomingdi)。廟号は粛宗。在位515~528。宣武帝(恪)の次男。延昌四年(515)、六歳にして即位し、母胡太后が称制し、高陽王雍らの輔政を受けた。正光年(520)、侍中叉が政権を奪うと、叉を叔父と呼んで尊んだ。孝昌年(525)、胡太后・雍らが再び政権を奪回すると、鄭儼・徐紇を重用した。胡太后・鄭儼らの権勢に不満を抱き、母子間の軋轢は日増しに深まった。ついに武泰年(528)、爾朱栄に密詔を下して、太后を掣肘しようとしたが、鄭儼・徐紇らによって毒殺された。
子攸(507~530) Yuan Ziyou
  北魏の九孝荘帝(Xiaozhuangdi)。廟号は敬宗。在位528~530。彭城王勰の三男。孝昌二年(526)、長楽王に封ぜられ、侍中・中軍将軍に任ぜられた。武泰年(528)、胡太后が孝帝を毒殺すると、爾朱栄により擁立された。爾朱栄が朝政を専断したため、永安三年(530)にこれを除くため殿中で誅殺した。爾朱兆が復仇の軍を起こしたため、これに敗れて三級仏寺で縊り殺された。
曄(?~532) Yuan Ye
  字は華興。北魏の十東海王。在位530~531。はじめ起居郎となり、通直散騎常侍に進んだ。孝荘帝のとき、長広王に封ぜられた。太原太守として出され、行并州事となった。永安三年(530)、天柱大将軍爾朱栄が孝荘帝に殺されると、領軍将軍爾朱世隆・汾州刺史爾朱兆らが并州に奔って、曄を帝に擁立した。翌年、廃された。節閔帝が即位すると、東海王に改封された。孝武帝のとき殺された。
恭(498~532) Yuan Gong
  字は修業。北魏の十一前廃帝。節閔帝(Jiemindi)。在位531~532。広陵王羽の子。正始年間に広陵王の位を継ぎ、給事黄門侍郎に任ぜられた。义が専権を握ると、病気で口がきけなくなったと称して、竜花仏寺に暮らした。建二年(531)、爾朱世隆に擁立されて普泰と改した。翌年、高歓により廃されて崇訓仏寺に幽閉され、まもなく殺された。
朗(512?~532) Yuan Lang
  字は仲哲。北魏の十二後廃帝。在位531~532。章武王融の三男。永安二年(529)、肆州郡王・後軍府録事参軍・儀同開府司馬となった。建二年(531)、冀州の渤海太守となる。ときに丞相高歓が起兵して爾朱氏を討ち、朗を擁立して帝位につけ、中興と改した。翌年、高歓は朗が北魏の宗室の中でも傍流だったことを理由に譲位を迫り、廃されて修が立った。安定王(Andingwang)に封ぜられたが、のち殺された。
修(510~534) Yuan Xiu
  字は孝則。北魏の十三孝武帝(Xiaowudi)。出帝。在位532~534。広平王懐の三男。十八歳のとき、汝陽県公に封ぜられた。永安三年(530)、平陽王に封ぜられた。のち侍中・尚書左僕射を加えられた。中興二年(532)、丞相の高歓が爾朱氏を破り、節閔帝と後廃帝を廃すると、修を擁立して帝位につけた。高歓は陽にあって洛陽の朝政に容喙した。永煕三年(534)、を討つ名目で兵を集め、高歓を討とうとした。高歓の軍二十万が洛陽に迫ると、洛陽を捨てて関西大行台の宇文泰を頼った。のち宇文泰に毒殺された。

[東魏(534~550)] Eastern WEI
善見(524~551) Yuan Shanjian
  東魏の孝静帝(Xiaojingdi)。在位534~550。河王亶の子。永煕三年(534)、孝武帝が宇文泰のもとに逃れると、鄴で丞相高歓に擁立されて帝位につき、天平と改した。史上、東魏と称される。武定五年(547)、宗室寵臣らと共謀して高澄を誅殺しようとしたが、事が洩れて幽閉された。八年(550)、丞相高洋に位を譲り、中山王に封ぜられた。北斉の天保二年(551)、毒殺された。

[西魏(534~556)] Western WEI
宝炬(507~551) Yuan Baoju
  西魏の初文帝(Wendi)。在位535~551。京兆王愉の子。正光年間に直閣将軍に任ぜられた。永安三年(530)、南陽王に封ぜられた。太昌年(532)、太尉に任ぜられ、侍中を加えられた。永煕三年(534)、中軍四面大都督となる。孝武帝が宇文泰を頼って長安に逃れると、太宰・録尚書事に任ぜられた。閏十二月、孝武帝が宇文泰に毒殺されると、帝位につき、大統と改した。これが西魏のはじめである。朝政の実権は宇文泰に握られた。
欽(?~554) Yuan Qin
  西魏の二廃帝(Feidi)。在位551~554。文帝(宝炬)の長男。大統年(535)、皇太子に立てられた。十七年(551)、即位した。廃帝三年(554)、ひそかに宇文泰を殺そうと謀って、事が洩れて廃された。まもなく毒殺された。
廓(?~556) Yuan Kuo
  西魏の三恭帝(Gongdi)。在位554~556。文帝(宝炬)の四男。大統十四年(548)、王に封ぜられた。廃帝三年(554)、宇文泰に擁立されて、帝位につき、姓を拓跋に戻した。恭帝三年(556)、宇文泰が没すると、宇文覚に禅譲を迫られて、帝位を譲った。これにより西魏は滅んだ。公に封ぜられ、まもなく殺された。

[北斉(550~577)] Northern QI
高洋(529~559)
  字は子進。北斉の初文宣帝(Wenxuandi)。廟号は顕祖。在位550~559。渤海郡蓨県の人。高歓の次男。高澄の弟にあたる。東魏のとき、太原公に封ぜられ、尚書令などを歴任した。武定七年(549)、高澄が蘭京らに殺されると、高洋は叛乱者らを殺して、相国・王の位を受け継いだ。八年(550)、孝静帝から禅譲を受けて帝位についた。国号は。天保と建した。侯景の乱に乗じてに出兵し、淮南を奪い、郢州で勝利した。また西魏と争って江陵を奪った。北伐して、契丹・突厥柔然など諸民族を破り、百八十万人を動員して長城の修築にあたった。また楊愔らの学者を登用して内治につとめた。次第に酒乱粗暴がひどくなり、理由なく臣下や人民を殺したり、宮殿造営のため濫費したりするようになった。またの宗族をことごとく殺して、その死体を川に投じたという。陽で暴死した。
(545~561)
  字は正道。北斉の二廃帝。在位559~560。文宣帝(高洋)の長男。天保年(550)、太子に立てられた。李宝鼎・邢峙らに講学を受けた。学問を好み、文化に傾倒した。父により自分に似ていないとして、廃されて太原王に落とされた。十年(559)、文宣帝が崩じると、楊愔らに擁立されて位を継ぎ、乾と改した。大工事を中止し、賦役を軽くし、叔父の常山王高演や長広王高湛の権限を削ろうと図った。翌年二月、高演・高湛が勳貴と結び、太皇太后婁氏の命令をえて、楊愔らを殺し尽くした。八月、帝位を廃されて済南王となった。太寧年(561)、陽で殺された。
高演(535~561)
  字は延安。北斉の三孝昭帝。在位560~561。高歓の六男。高澄・高洋の弟にあたる。天保初年、常山王に封ぜられた。廃帝のとき、太傅・録尚書事に任ぜられて、朝政に参与した。乾年(560)、尚書令楊愔らに排斥され、権勢を日々削られたので、弟の高湛と謀って楊愔らを殺し、帝を廃して自ら立ち、皇建と改した。翌年、落馬して重傷を負い、陽で崩じた。
高湛(537~568)
  北斉の四武成帝。廟号は世祖。在位561~565。高歓の九男。高澄・高洋の弟にあたる。文宣帝のとき、長広王に封ぜられた。尚書令・司徒に任ぜられ、太尉に遷った。天保十年(559)、廃帝と楊愔らが宗室諸王の権勢を削ろうと図ったので、常山王高演や賀抜仁らとひそかに謀って、乾年(560)には政変を発動して楊愔を殺し、帝を廃して、高演を帝に立てた。翌年、孝昭帝が亡くなると、位を継いで大寧と改した。詔を下して均田制を徹底させ、高叡・趙秀深・収らに律十二篇を制定させた。翌年、和士開らの奏議を受け、太子の高緯に位を譲り、自らは太上皇帝となって政治をみた。のち病没した。
高緯(556~578)
  字は仁網。北斉五代後主。在位565~576。武成帝(高湛)の長男。河四年(565)、武成帝より位を譲られ、天統と改した。天統四年(568)、父が亡くなると親政をはじめた。穆提婆・高阿那肱らを寵愛して、宗室や外戚・大臣たちを誅殺し、朝政を腐敗させた。自ら無愁の曲を作って歌い、無愁天子の称があった。隆化年(576)、位を譲った。承光年(577)、幼主とともに北周の軍に捕らえられ、温国公に封ぜられた。のち謀反の罪で殺された。
高延宗(?~577)
  北斉の安徳王。在位576。高澄の五男。幼いころから叔父の高洋に養われ、安徳王に封ぜられた。武平七年(576)、北周の軍に平陽を攻められ、北斉の軍の多くが潰走したとき、ひとりその部隊を保全した。後主により相国・并州刺史に任ぜられ、山西の軍事を担当し、北周の進攻を防いだ。并州の将帥に帝として擁立され、徳昌と改した。陽において北周に大敗し、城が陥落して捕らえられ、長安に送られた。翌年、謀反をはかったと誣告され、自殺した。
高恒(570~578)
  北斉の七幼主。在位577。後主(高緯)の長男。守国天王。隆化二年(577)、位を継ぎ、承光と改した。ときに北周の大軍が鄴に迫り、東のかた済州に逃亡した。任城王高湝に位を譲って、自分は守国天王を自称した。青州にて周将の尉遅勤に捕らえられて長安に送られた。翌年初頭に殺された。

[北周(557~581)]Northern ZHOU
宇文覚(542~557) Yuwen Jue
  字は陁羅尼。北周の初孝閔帝(Xiao Min Di)。在位557。郡武川の人。宇文泰の三男。西魏の恭帝三年(556)、安定公世子となる。同年、宇文泰が没すると、太師・大冢宰を継ぎ、周公に封じられた。翌年、恭帝から禅譲を受けて天王位についた。国号は周。天王年を称した。朝廷で実権を握っていた中山公宇文護を除こうとして、大臣の李植・孫恒らと密謀していたが、事洩れて、宇文護に廃殺された。
宇文毓(536~560) Yuwen Yu
  北周の二帝(Min Di)。在位557~560。廟号は世宗。宇文泰の長男。西魏の大統十四年(548)、寧都郡公に封ぜられた。恭帝三年(556)、大将軍に任ぜられて、隴右に鎮した。翌年、北周の孝閔帝が宇文護に廃殺されると、天王に立てられ、宇文護に政務を専断された。帝三年(559)、親政をはじめ、年号を武成と定めた。武成二年(560)、食中毒により崩じた。
宇文邕(543~578) Yuwen Yong
  字は祢羅突。北周の三高祖武帝(Wu Di)。在位560~578。廟号は高祖。宇文泰の四男。幼年のころより敏で、宇文泰に「我の志をなす者は必ずこの児なり」と称された。帝が即位すると大司空に上った。武成二年(560)に即位。はじめ宇文護が大冢宰・都督中外諸軍事として専権をふるっていた。天和七年(572)、宇文護を誅殺して親政した。建徳三年(574)、仏・道の二教を禁じ、経像を破壊し、沙門・道士に還俗を強要して、弾圧した。翌年に北斉攻撃の軍を起こし、六年(577)に鄴を陥落させ、北斉後主(高緯)を捕らえて滅ぼした。翌年、突厥に親征して雲陽にいたり、病を発して帰還途中に没した。
宇文贇(559~580) Yuwen Yun
  字は乾伯。北周の四宣帝(Xuan Di)。在位578~579。武帝(宇文邕)の長男。宣政年(578)、父の武帝の死により、位を継いだ。杖の痕をなでて「死おそし」とののしったという。武帝時の旧臣を粛し、刑経聖制とよばれる刑法を制定した。大成年(579)、四輔官を置き、越王宇文盛を大前疑とし、公尉遅迥を大右弼とし、申公李穆を大左輔とし、随国公楊堅を大後承とした。山東諸州の兵を発して洛陽宮を改修させ、に匹敵する規模とした。二月、太子の宇文衍に位を伝えて、自ら天皇帝を称し、制・詔を天制・天詔と改めた。洛陽に遷都した。五人の皇后を置き、酒色と奢侈にふけった。
宇文衍(573~581) Yuwen Chan
  北周五代静帝(Jing Di)。在位579~581。宣帝(宇文贇)の長男。大成年(579)、王に封ぜられ、皇太子に立てられた。父の宣帝より位を譲られて帝となった。大象二年(580)、太上皇が亡くなると、随国公楊堅に政務を専断された。翌年、楊堅に位を譲り、介国公となって臣籍に下った。ここに北周は滅んだ。まもなく楊堅により殺害された。
歴代皇帝(南朝)
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