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歴代后妃(五代)

歴代后妃伝説,,,周,,,三国,,北朝,南朝,,,五代,,,,
後梁(907~923)]
文恵王皇后(?~891)
  後梁の太祖(朱全忠)の母の王氏。単州単父の人。朱誠にとつぎ、朱全昱・朱存・朱温(朱全忠)の三子を産んだ。若くして寡婦となったので、三子を連れて蕭県の劉崇に寄食した。黄巣の乱が起こると、朱存・朱温は乱に加わり、朱存は広州で戦死した。朱温は部将として頭角をあらわし、のちにに帰順して宣武軍節度使となった。王氏は朱温に迎えられ、国太夫人に封ぜられた。朱存の諸子が午溝にいたので、迎えさせた。朱温には殺戮のことが多かったので、王氏はしばしば諫めた。大順二年(891)秋、亡くなった。太祖が即位すると、四廟を立て、王氏は文恵皇后と追尊された。
貞張皇后(?~904)
  後梁の太祖(朱全忠)の張夫人。単州碭山県渠亭里の人。若くして朱温(朱全忠)にとつぎ、朱友貞(のちの末帝)を産んだ。国夫人に封ぜられた。朱温はしばしば激怒して人を殺すことがあったが、張夫人が弁護したので、救われた者も少なくなかった。朱友裕を斬死から救い、朱瑾の妻を尼にして衣食を給した。天祐年(904)、病没した。太祖が即位すると賢妃を追贈し、末弟が立つと貞皇太后を贈られた。
昭儀(?~?)
  後梁の太祖(朱全忠)の昭儀。州の人。太祖の妃嬪数百人の中でもっとも寵愛を受けた。太祖が病となると、尼数百人とともに昼夜仏法の祈祷をおこなった。開平三年(909)、尼となり、州の仏寺に住持した。
李昭容(?~?)
  後梁の太祖(朱全忠)の李昭容。
張徳妃(892~915)
  後梁の末帝(朱友貞)の張徳妃。張帰覇の娘。均王朱友貞にとついだ。末帝が即位すると、彼女を皇后に立てようとしたが、張妃は郊天の祭を行うのを待つよう願った。しかし郊天をおこなえず、皇后に立てられることはなかった。貞年(915)、病が重くなったので、急遽として徳妃の位を与えられたが、その夕に亡くなった。
郭次妃(?~?)
  後梁の末帝(朱友貞)の郭次妃。郭帰厚の娘。容色により選ばれて後宮に入った。後梁が滅ぶと、後唐の荘宗(李存勗)に召された。のちに得度して尼となり、誓正の名を賜って、洛陽に住んだ。

後唐(923~936)]
劉太妃(?~925)
  李克用の正室劉氏。北の人。李克用の征戦につき従い、知略すぐれ、兵の臨機応変を学び、侍妾たちに騎射を教えて、李克用を助けた。李克用が東方に黄巣を討ち、軍を返して汴州を通ったとき、朱全忠が迎えて上源駅で酒宴に招いた。その夜、朱全忠が軍を率いて襲撃してきた。劉夫人は毅然として報告を聞き、主君を見捨てて逃げてきた者を斬るよう命じ、大将を呼んで軍を保ち、河東に帰る手はずを整えさせた。李克用が戻ってくると、憤激あらわにして朱全忠を討つべしと叫んだが、劉夫人は理非を説いて諫め、兵を陽に退かせた。李克用が王となると、国夫人に封ぜられた。のちに後梁が氏叔琮・康懐英らを遣わして連年にわたってを攻め、太原を囲んだ。李克用は弱気になって、李存信らの勧めを容れて北辺に逃れようと図った。劉夫人は李存信をののしり、かつて王行瑜が邠州を捨てて逃げたときに李克用があざ笑ったことを思い出すよう諫めた。李克用は夫人の言に従った。劉夫人には子がなかったので、子のある曹夫人を立てるよう譲った。荘宗(李存勗)が帝位につくと、皇太妃となった。荘宗が後梁を滅ぼしたのちも、ひとり陽にとどまった。同光三年(925)五月、亡くなった。
貞簡曹皇后(?~925)
  李克用の次妃曹氏。太原の人。国夫人に封ぜられた。李存勗(のちの荘宗)を産んだ。李克用はしばしば怒りにまかせて人を殺したが、曹夫人が従容として諫めると、よく聞き入れられた。李存勗はこの母にまめまめしく仕え、戦場からもしばしば駆けつけたので、世の人に孝と称された。荘宗が帝位につくと、曹氏は皇太后となった。荘宗が後梁を滅ぼすと、洛陽に迎えられ長寿宮に住んだ。同光三年(925)七月、亡くなった。
神閔敬劉皇后(891~926)
  名は玉娘。後唐の荘宗(李存勗)の劉皇后。州成安の人。劉叟の娘。王李克用が州を攻めると、劉氏は裨将袁建豊に捕らえられて、陽の宮に入れられた。曹夫人に吹笙歌舞を教えられた。李存勗が王となると、第三夫人として迎えられ、国夫人に封ぜられた。李継笈を産んだ。長らく李存勗の征戦に従った。荘宗の同光二年(924)、皇后に立てられた。怪僧誠恵を尊崇し、仏教に傾倒した。水害のため、民衆が苦しむ中、荘宗とともに遊猟を楽しんだ。郭従謙がそむき、荘宗が流れ矢に当たって負傷し、やがて崩じた。皇后は李存渥と通じ、嘉慶殿を焼き、器宝帯をかかえて、太原で尼となった。宗(李嗣源)が即位すると、劉皇后は死を賜った。
韓淑妃(?~?)
  後唐の荘宗(李存勗)の韓淑妃。李存勗の正室として迎えられ、国夫人に封ぜられた。荘宗の同光二年(924)、淑妃となった。荘宗が拭されたのち、太原にいたが、後晋のときに契丹に捕らえられて連れ去られた。
伊徳妃(?~?)
  後唐の荘宗(李存勗)の伊徳妃。李存勗の次妃として迎えられ、燕国夫人に封ぜられた。荘宗の同光二年(924)、徳妃となった。荘宗が拭されたのち、太原にいたが、後晋のときに契丹に捕らえられて連れ去られた。
和武憲曹皇后(?~936)
  後唐宗(李嗣源)の曹皇后。国公主を産んだ。宗が立つと、国夫人に封ぜられた。長興年(930)、皇后に立てられた。
昭懿皇后(?~?)
  後唐宗(李嗣源)の夫人。王李従栄・李従厚(のちの閔帝)を産んだ。宗即位の前に亡くなった。宗が立つと、国夫人に追封された。のちに二子が王となると、皇后に追冊された。
宣憲皇后(?~?)
  後唐宗(李嗣源)の夫人。鎮州平山の人。はじめ平山の王氏にとついで、子の阿三を産んだ。この阿三がのちの李従珂(末帝)である。李嗣源が騎将となり、平山を攻めたとき、母子ともにさらわれた。李嗣源のそばにあること数年、氏は亡くなり、太原に葬られた。宗のとき、国夫人に追封された。末帝が立つと、皇太后に追尊された。
王淑妃(?~947)
  後唐宗(李嗣源)の王淑妃。邠州の人。餅屋の家に生まれた。容貌美しく、花見羞と号された。後梁の将の劉鄩に売られて侍児となったが、劉鄩が亡くなると頼るところがなかった。たまたま李嗣源が夫人を亡くして後添えを求めており、安重誨の勧めで王氏を迎えた。王氏は劉鄩のところで得ていた子を李嗣源の側近や諸子の妻たちにばらまき、好評をえた。李嗣源の寵愛を受けた。宗が立つと、皇后の座を曹氏に譲り、自分は淑妃となった。宗と曹皇后にまめまめしく仕えた。許王李従益の母わりとして養育した。閔帝が立つと、皇太妃となった。李従益の乳母王氏が王李従栄と通じていたため、李従栄が誅されると、王皇太妃も連座しそうになったが、曹皇太后に庇護された。末帝(李従珂)が立つと、尼になりたいと願い出たが許されなかった。後晋の高祖(石敬瑭)が立つと、また尼になるべく願ったが許されず、至徳宮にうつされた。後晋が汴京に遷都すると、李従益とともに従った。出帝(石重貴)が立つと、李従益とともに洛陽に帰った。契丹()が汴京を落とすと、趙延寿が李従益の妹の永安公主を妻に迎えた。汴京で婚礼が行われ、王氏も参列した。の太宗(耶律徳光)は亡き宗の画像に敬意を示し、王氏を兄嫁の礼で遇した。の太宗が北帰すると、汴州を守る蕭翰が李従益を知南朝軍国事として迎え、中原を統治するための傀儡にしようとした。のちに後漢の高祖(劉知遠)が郭従義を汴州に派遣すると、王氏と李従益は殺された。
哀皇后孔氏(?~934)
  後唐の閔帝(李従厚)の孔皇后。孔循の娘。四子を産んだ。閔帝が即位すると、皇后に立てられた。末帝(李従珂)が立つと、孔皇后と四子は殺された。
劉皇后(?~?)
  後唐の末帝(李従珂)の劉皇后。応州渾の人。劉茂威の娘。強情な性格で、李従珂は彼女を恐れはばかったという。はじめ沛国夫人に封ぜられた。末帝が即位すると、皇后に立てられた。弟の劉延晧が枢密使に上り、収賄はなはだしく、他人の財産を奪ったので、軍士に恨まれた。

後晋(936~947)]
李皇后(?~?)
  後晋の高祖(石敬瑭)の李皇后。後唐宗(李嗣源)の娘。はじめ永寧公主と号した。泰二年、国長公主に封ぜられた。高祖が即位すると、皇后に立てられた。
安太妃(?~949)
  後晋の出帝(石重貴)の母の安太妃。北の人。石敬儒にとつぎ、石重貴を産み、国夫人に封ぜられた。出帝が立つと、皇太妃となった。老いて失し、出帝とともに契丹に連れ去られ、陽から建州にうつされる途上に亡くなった。
馮皇后(?~?)
  後晋の出帝(石重貴)の馮皇后。定州の人。馮濛の娘。石重胤にとつぎ、国夫人に封ぜられた。石重胤は早逝し、馮氏は寡婦となった。出帝が馮氏の容色を喜び、高祖(石敬瑭)の喪中にもかかわらず、彼女を後宮に入れて皇后に立てた。兄の馮玉が執政にあたるようになり、国政は混乱した。のちに出帝とともに契丹に連れ去られた。

後漢(947~951)]
李皇后(?~954)
  後漢の高祖(劉知遠)の李皇后。陽の人。農家に生まれ、劉知遠が若いときに家に押し入られて奪われた。劉知遠が頭角を現すと、国夫人に封ぜられた。劉承祐(のちの隠帝)を産んだ。開運三年(946)、劉知遠が太原で起兵したとき、軍費が不足していたので、民財を奪って充てようとしたが、彼女が強く諫めたので思いとどまった。高祖が即位して後漢を建てると、皇后となった。乾祐年(949)、隠帝が立つと、皇太后となった。隠帝が郭允・後賛らと遊び戯れていたのを、しばしば叱責した。広順年(951)、郭威が後周を建てると、太平宮にうつされ、昭聖皇太后と尊称された。

後周(951~960)]
聖穆柴皇后(?~?)
  後周の太祖(郭威)の柴夫人。邢州堯山の人。はじめ後唐の荘宗(李存勗)の後宮に入り、嬪となったが、荘宗が崩ずると、実家に帰った。郭威と同郷で、これに再嫁した。郭威は頭角をあらわす以前、飲酒や賭博を好み、任侠をこととして、細かいことにこだわらなかったので、夫人がしばしばいさめた。太祖が即位すると、すでに夫人は亡くなっていたので、皇后として追冊した。
楊淑妃(?~?)
  後周の太祖(郭威)の楊夫人。鎮州真定の人。楊弘裕の娘。幼くして趙王の宮に入り、王鎔に仕えた。王鎔が張文礼に殺され、鎮州が乱れると、楊氏は民間を流寓し、石光輔にとついだ。数年して石光輔は亡くなった。ときに郭威が柴夫人を亡くしたところだったので、楊氏の美しく賢であることを聞き、後添えとして求めた。郭威とともに太原に住み、天福年間中に亡くなった。太祖が即位すると、淑妃の位を追贈された。
張貴妃(?~950)
  後周の太祖(郭威)の張夫人。鎮州真定の人。張同芝の娘。王鎔が張文礼に殺され、鎮州が乱れると、武従諫の家に引き取られて、武従諫の子にとついだ。武従諫の子は亡くなり、ときに郭威が楊夫人を亡くしたところだったので、張氏を後添えとして求めた。郭威が頭角をあらわすと、国夫人に封ぜられた。郭威が開封を攻めたとき、後漢の劉銖のために張氏と諸子はみな殺された。太祖が即位すると、貴妃の位を追贈された。
董徳妃(915~953)
  後周の太祖(郭威)の董徳妃。鎮州霊寿の人。董光嗣の娘。言語晰で、声楽音律をよくした。七歳のとき、鎮州の乱で家を失うと、潞州の牙将に庇護された。十三歳のとき、兄の董瑀に再会して家に戻った。劉進超にとついだが、契丹の侵攻で劉進超は捕らえられて亡くなった。洛陽で寡婦暮らしをしたが、後漢高祖(劉知遠)が太原から開封を攻めたとき、郭威が洛陽で董氏を見いだし、めとった。太祖が即位すると、徳妃に立てられた。
貞恵劉皇后(?~950)
  後周の世宗(柴栄)の劉夫人。柴栄が左監門将軍となると、夫人は彭城県君に封ぜられた。郭威が挙兵したとき、開封にいた夫人は、後漢のために害された。後周が建てられると、彭城郡夫人に追封された。世宗の顕徳四年(957)四月、皇后に追冊された。
宣懿符皇后(?~956)
  後周の世宗(柴栄)の符皇后。王符彦卿の娘。はじめ李守貞の子の李崇訓にとついだ。李守貞が乱を起こすと、後漢は郭威を討伐に向かわせ、李崇訓は自殺した。符氏は郭威の兵を一喝したので、軍士は迫ることができなかった。郭威は符氏を符彦卿のもとに帰した。ときに柴栄が劉夫人を亡くしたので、後添えとして符氏を迎えた。国夫人となった。世宗が即位すると、皇后に立てられた。世宗は怒りっぽく、後になって後悔することが多かったが、世宗が側近に怒ろうとするたびに、皇后が顔色をうかがってなだめ、また世宗の意図をよく理解したので、ますます重んじられた。世宗が淮水地方に親征したとき、皇后は諫めたが、聞き入れられなかった。軍は功をあげず、暑熱と大雨にあって苦しみ、皇后は憂いのあまり病にかかって崩じた。
符皇后(?~?)
  後周の世宗(柴栄)の符皇后。王符彦卿の娘。宣懿皇后の妹にあたる。顕徳六年(959)六月、皇后に立てられた。が建てられると、西宮にうつされ、周太后と号された。
歴代后妃(宋)

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