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歴代后妃(北朝)

歴代后妃伝説,,,周,,,三国,,北朝,南朝,,,五代,,,,
[北魏(386~534)]
皇后賀氏(351~396)
  北魏の道武帝(拓跋珪)の母。東部大人賀野干の娘。の拓跋寔君にとついだ。前秦に敗れて国が崩壊すると、拓跋珪とともに北に逃れた。高車に襲われて南にうつり、独孤部の劉庫仁のもとに身を寄せた。劉庫仁の子の劉顕が拓跋珪を殺そうとしたので、珪を賀蘭部に逃し、自らも車に隠れること三日、難を逃れた。のちに弟の染干が道武帝に叛き、兵をもって行宮を囲んだが、説得して退かせた。末子の拓跋觚が後燕に抑留されると、心配のあまり床につき、そのまま亡くなった。
慕容皇后(?~?)
  北魏の道武帝(拓跋珪)の慕容皇后。慕容宝の末娘。北魏軍による中山平定後、後宮に入り、道武帝に寵愛された。王拓跋儀らの奏請により皇后に立てられた。人を鋳造して立后されたという。
宣穆皇后劉氏(?~?)
  北魏の道武帝(拓跋珪)の劉皇后。劉眷の娘。登国初年、道武帝の夫人となった。華陰公主と拓跋嗣(のちの帝)を産んだ。人を鋳造して完成しなかったので、皇后位に上らなかったという。帝が皇太子となると、旧法によって死を賜った。帝が即位すると、皇后位を追贈された。
昭哀皇后姚氏(?~420)
  北魏帝(拓跋嗣)の姚皇后。後秦の姚興の娘。西平長公主。帝の後宮に入り、夫人となった。人を鋳造して完成しなかったので、皇后位に上らなかった。しかし、帝の礼遇は皇后に対するもののようだった。泰常五年(420)、薨じた。死後、帝により皇后位を追贈された。
密皇后杜氏(?~420)
  北魏帝(拓跋嗣)の杜皇后。郡鄴の人。陽平王杜超の妹にあたる。拓跋燾(のちの太武帝)を産んだ。帝が即位すると、貴嬪となった。泰常五年(420)、薨じた。太武帝が即位すると、皇后位を追贈された。
赫連皇后(?~?)
  北魏の太武帝(拓跋燾)の赫連皇后。赫連屈丐の娘。太武帝が統万を落とすと、彼女とふたりの妹をあわせて後宮に入れ、ともに貴人とした。のちに皇后に立てられた。文成初年に崩じた。
敬哀皇后賀氏(?~428)
  北魏の太武帝(拓跋燾)の賀皇后。郡の人。太武帝の夫人となり、拓跋晃(のちの景穆帝)を産んだ。死後、貴嬪を追贈された。のちに皇后位を追贈された。
恭皇后郁久閭氏(?~460)
  北魏の景穆帝(拓跋晃)の郁久閭皇后。才能をもって選抜され、東宮に入った。拓跋濬(のちの文成帝)を産んで薨じた。文成帝が即位すると、皇后位を追贈された。
皇后馮氏(442~490)
  北魏の文成帝(拓跋濬)の馮皇后。長楽郡信都の人。西城郡公馮朗の娘。祖父の馮弘や従祖父の馮跋は、北燕の国主であった。父の馮朗は北魏に降り、雍二州刺史に任ぜられたが、のち誅殺された。このため彼女は宮廷に入れられ、貴人となった。太安二年(456)、文成帝が即位すると、皇后として立てられた。和平六年(465)、文成帝が崩じたとき、悲しみのあまり火中に飛び込んだが、一命を取りとめたという。献文帝(拓跋弘)が立つと、皇太后に上った。丞相の乙渾の謀反を平定して、幼年の帝にわり称制して朝政に臨んだ。翌年に政権を帝に返した。のちに寵愛する李弈を帝に殺されたことを深く怨んだという。皇興五年(471)、献文帝が孝文帝(宏)に位を伝えると、太上皇を自称した。延興六年(476)、献文帝を毒死させた。太皇太后を称して再び朝政に臨んだ。李冲らの族士人を重用して改革を断行し、同姓不婚・俸禄制・均田制・三長制・租調制などを定めて吏治につとめた。
皇后李氏(?~456)
  北魏の文成帝(拓跋濬)の李皇后。国蒙県の人。李方叔の娘。頓丘王李峻の妹にあたる。成長すると姿かたちが美しかったという。太武帝(拓跋燾)の南征のとき、永昌王拓跋仁が軍を率いて寿春にいたると、彼女をえた。永昌王が長安で誅殺されると、平城に送られた。白楼で文成帝に見いだされ、妊娠した。拓跋弘(のちの献文帝)を産み、貴人となった。大安二年(456)、旧法によって死を賜った。のちに皇后位を追贈された。
思皇后李氏(?~469)
  北魏の献文帝(拓跋弘)の李皇后。中山郡安喜の人。南郡王李恵の娘。十八歳のとき、選抜されて東宮に入った。献文帝が即位すると、夫人となり、宏(のちの孝文帝)を産んだ。皇興三年(469)、薨じた。承年(476)、皇后位を追贈された。
貞皇后林氏(?~483)
  北魏の孝文帝(宏)の林皇后。平涼郡の人。平涼太守林勝の娘。丞相乙渾が誅殺されると、父や叔父が連座して処刑された。彼女は姉妹とともに後宮に入り、孝文帝の寵愛をえて、恂を産んだ。恂が太子に立てられることとなった太和七年(483)、旧法に従って死を賜った。死後に皇后位を追贈された。恂が死を賜ると、さかのぼって庶人に落とされた。
廃皇后馮氏(476~?)
  北魏の孝文帝(宏)の馮皇后。長楽郡信都の人。太師馮煕の娘。太和十七年(493)、太尉の丕らの奏請により、皇后に立てられた。のちに姉の馮昭儀(のちの幽皇后)が帝に寵愛されるようになると、皇后の寵愛は衰えた。のちに廃位されて庶民に落とされ、尼となって瑤光仏寺に入った。
幽皇后馮氏(469~499)
  北魏の孝文帝(宏)の馮皇后。長楽郡信都の人。太師馮煕の娘。十四歳のとき、後宮に入った。洛陽にうつり、帝の寵愛を受けた。左昭儀に立てられ、のちに皇后に立てられた。帝の南征中、高菩薩と密通し、隻蒙らが手引きをした。帝が洛陽に帰ると、醜聞は帝の知るところとなり、皇后は寵愛を失った。孝文帝の死後、帝の遺詔に従って、北海王詳らが皇后に毒薬を渡した。皇后が自殺を受け入れなかったので、白整が死を強い、皇后の礼で葬った。
文昭皇后高氏(?~496)
  名は照容。北魏の孝文帝(宏)の高皇后。渤海郡脩県の人。高颺の娘。高肇の妹にあたる。母は蓋氏。文太后に見いだされて後宮に入った。恪(のちの宣武帝)・広平王懐・長楽公主を産んだ。洛陽に向かう途中、汲郡共県で薨じた。
順皇后于氏(?~?)
  北魏の宣武帝(恪)の于皇后。于勁の娘。宣武帝が親政をはじめると、于烈が領軍として信任され、于烈の姪にあたる于氏が後宮に入り、貴人となった。皇后に立てられた。寡黙にして寛容で、嫉妬をもたない性格だったという。昌を産んだが、三歳で早逝した。その後、皇后は突然死したが、真相は宮中の秘事となった。世間では高夫人の仕業と噂された。
高皇后(?~518)
  北魏の宣武帝(恪)の高皇后。渤海郡脩県の人。高偃の娘。文昭皇后の姪にあたる。後宮に入って貴嬪となり、皇子を産んだが、子は早逝した。また建徳公主を産んだ。皇后に立てられた。孝帝が立つと、皇太后となった。まもなく尼となり、瑤光寺に住持した。
霊皇后胡氏(?~528)
  北魏の宣武帝(恪)の胡皇后。安定郡臨涇の人。胡国珍の娘。宣武帝の初年、禁中に妃として入った。詡(のちの孝帝)を生んだ。孝帝が即位すると、皇太后と尊称され、称制して朝政に臨んだ。仏教を尊崇して永寧寺などを建立した。ほか河王・懌と密通し、乱行が多かったとされる。正光年(520)、叉に軍権を掌握され、長秋卿・劉騰により幽閉された。劉騰の死後、叉の権を解き、ふたたび朝政に臨んだ。武泰年(528)、孝帝を殺し、釗を擁立したが、爾朱栄が兵を率いて洛陽に入ったため、殺害されて河に沈められた。
胡皇后(?~?)
  北魏の孝帝(詡)の胡皇后。安定郡臨涇の人。胡盛の娘。霊太后が一門の繁栄を図るため、後宮に入れて、皇后に立てさせた。孝帝は潘氏を寵愛して、皇后をかえりみなかった。武泰初年、仏門に入り、瑤光寺に住持した。
高皇后(?~?)
  北魏の孝武帝(修)の高皇后。渤海郡脩県の人。高歓の長女。孝武帝が立つと、皇后となった。孝武帝が関中に逃れると、彭城王韶のもとに改嫁させられ、王妃となった。

[東魏(534~550)]
高皇后(?~?)
  東魏の孝静帝(善見)の高皇后。渤海郡脩県の人。高歓の次女。天平四年(537)、皇后として招聘された。興和年(539)、陽の丞相第から迎えられた。五月、皇后として立てられ、大赦がおこなわれた。北斉が建てられると、中山王妃に降格された。のちに尚書左僕射楊遵彦のもとに再嫁した。

[西魏(534~556)]
文皇后乙弗氏(508~538)
  西魏の文帝(宝炬)の乙弗皇后。河南郡洛陽の人。乙弗瑗の娘。十六歳のとき、宝炬にとついで妃となった。文帝が即位すると、皇后に立てられた。男女十二人を産んだが、太子欽と武都王戊のみが成人した。郁久閭氏が皇后となると、剃髪して尼となり、州に移り住んだ。まもなく文帝により死を賜った。
悼皇后郁久閭氏(525~540)
  西魏の文帝(宝炬)の郁久閭皇后。柔然の阿那瓌の娘。大統初年、柔然がしばしば西魏の北辺を犯したので、文帝は柔然と和を結び、通婚を約した。扶風王孚が使者として郁久閭氏を迎えに向かった。四年(538)、長安にいたり、皇后に立てられた。六年(540)、懐妊した。文帝は不吉な犬の鳴き声を聞き、医者は廃皇后乙弗氏の霊であると答えたという。死産となり皇后も崩じた。
宇文皇后(?~554)
  西魏の廃帝(欽)の宇文皇后。郡武川の人。宇文泰の娘。欽が太子となると、妃となった。欽が即位すると、皇后に立てられた。帝が廃されて毒殺されると、皇后も殉じて亡くなった。
若干皇后(?~?)
  西魏の恭帝(廓)の若干皇后。郡武川の人。若干恵の娘。廓にとついで妃となった。恭帝が立つと、皇后となった。のちに出家して尼となり、仏寺で薨じた。

[北斉(550~577)]
皇后婁氏(501~562)
  名は昭君。高歓の婁夫人。婁内干の娘。幼いころから聡で、多く強族が求婚したが、こばみつづけたという。高歓を見て驚き、「これ真に吾が夫なり」といって、私財をなげうって援助し、自分を迎えさせたので、父母もやむをえず許した。高歓の密謀には彼女もしばしば参与した。倹約を尊び、寛容で嫉妬をあらわさない性格だった。渤海王妃となり、高澄・高洋(のちの文宣帝)・高演(のちの孝昭帝)・高湛(のちの武成帝)・襄城王高淯・博陵王高済を産み、またの孝武皇后高氏と孝静皇后高氏を産んだ。高歓が蠕蠕公主を迎えると、正妻の座を譲った。高澄が跡を継ぐと、太妃となり、文宣帝が北斉を建てると、皇太后に上った。廃帝(高)が立つと太皇太后となり、孝昭帝が立つと、また皇太后に復した。孝昭帝が崩ずると、武成帝を立てさせた。大寧二年(562)春、病の床につくと、巫媼の言を用いて石氏と改姓した。四月、北宮にて崩じた。
敬皇后氏(?~?)
  高澄の夫人。東魏の孝静帝(善見)の姉にあたる。北魏の孝武帝(修)のとき、馮翊公主に封ぜられた。高澄にとつぎ、高孝琬や両公主を産んだ。文宣帝(高洋)が北斉を建てると、文襄皇后となり、静徳宮に住んだ。武平年間に崩じた。
李皇后(?~?)
  名は祖娥。北斉の文宣帝(高洋)の李皇后。趙郡柏仁の人。李希宗の娘。高洋にとつぎ、太原公夫人となった。文宣帝が立つと、高隆之・高徳正が人を皇后に立てることに反対したが、楊愔の支持で皇后に立てられた。文宣帝は妃嬪を多く鞭打ち、また殺したが、ただ皇后に対してだけは礼をつくした。天保十年(559)、可賀敦皇后となった。孝昭帝(高演)が立つと、昭信宮にうつり、昭信皇后と号した。武成帝(高湛)に迫られて通じ、妊娠して娘を産んだが、取り上げなかった。武成帝は「おまえが我が娘を殺したのに、わたしがおまえの子を殺さないことがあろうか」と言って、后の前で太原王高紹徳を殺した。后は大いに嘆き、武成帝はますます怒って裸の后を打ったが、天に叫んでやまなかった。妙勝尼寺に送られて、尼となった。北斉が滅んだ後、関中にうつった。のとき、故郷の趙郡に帰った。
顔夫人(530~576)
  名は玉光。北斉の文宣帝(高洋)の顔夫人。州の人。天保年(550)、召されて西朝嬪となった。四年(553)、隴西王高紹廉を産み、弘徳夫人となった。没後、太妃の位を追贈された。
李夫人(549~570)
  名は難勝。法名は等行。北斉の廃帝(高)の李夫人。趙郡柏仁の人。李祖勳の子。文宣帝の李皇后(李祖娥)の姪にあたる。天保十年(559)、皇太子妃となった。高が廃位されて済南王となると、済南王妃となった。高が殺されると、迫られて出家した。武平年(570)、妙勝尼寺で寂した。
皇后(?~?)
  北斉の孝昭帝(高演)の皇后。蛮の娘。高演にとつぎ、常山王妃となった。孝昭帝が即位すると、皇后に立てられた。武成帝が立つと、順成宮にうつった。北斉が滅ぶと、北周の宮中に入った。楊堅が宰相となると、山東に帰された。
胡皇后(?~?)
  北斉の武成帝(高湛)の胡皇后。安定郡の人。胡延之の娘。天保初年、高湛にとついで、長広王妃となった。後主(高緯)を産んだ。武成帝が立つと、皇后に立てられた。宦官と馴れあい、また寵臣の和士開と通じていたという。武成帝が崩ずると、皇太后となった。しばしば仏寺に詣で、沙門の曇献と通じたという。北斉が滅び、北周に入っても、醜行は改まらなかった。の開皇年間に亡くなった。
斛律皇后(?~?)
  北斉の後主(高緯)の斛律皇后。斛律光の娘。高緯にとついで、皇太子妃となった。後主が立つと、皇后に立てられた。武平三年(572)、娘を産んだが、後主は斛律光を喜ばせるために男の子が生まれたと偽った。斛律光が誅殺されると、皇后は廃されて別宮にうつされ、のちに尼にされた。北斉が滅ぶと、開府の仁に再嫁した。
胡皇后(?~?)
  北斉の後主(高緯)の胡皇后。胡長仁の娘。胡太后が彼女を宮中に入れて、後主に引きあわせた。弘徳夫人となり、左昭儀に進んだ。斛律皇后が廃されると、皇后に上った。陸媼の讒言を信じた胡太后の怒りを買い、髪を剃られて家に帰された。
穆皇后(?~?)
  名は邪利。小字は黄花。字は舎利。北斉の後主(高緯)の穆皇后。欽道の家で私生児として生まれた。欽道が誅されると、宮中に入れられ、斛律皇后の従婢となった。後主の寵愛を受け、舎利太監と称された。女侍中陸太姫の養女となり、弘徳夫人となった。皇子高恒を産み、穆姓を賜った。胡皇后が廃されると、皇后に立てられた。
馮淑妃(?~?)
  名は小憐。北斉の後主(高緯)の妃。穆皇后の従婢であった。琵琶をよくし、歌舞にたくみだった。後主の穆皇后に対する寵愛が衰えると、馮氏が見いだされて寵愛を受け、淑妃となった。曹昭儀と事あるごとに反目した。落城間近の州城に後主とともにやってきて、城西の石上の聖人の跡を見ようと言いだし、橋を渡って鑑賞し、橋を壊して帰ってきた。北斉が滅ぶと後主とともに長安にうつった。後主が殺されると、王宇文達に再嫁した。

[北周(557~581)]
文皇后氏(?~551)
  宇文泰の夫人。北魏の孝武帝の妹にあたる。平原公主に封ぜられ、張歓にとついだ。宇文泰が張歓を殺すと、馮翊公主に改封され、宇文泰に再嫁した。宇文覚(のちの孝閔帝)を産んだ。西魏の大統十七年(551)、薨去した。
文宣叱奴皇后(?~574)
  宇文泰の叱奴夫人。郡の人。宇文泰が西魏の丞相となると、叱奴氏がとつぎ、宇文邕(のちの武帝)を産んだ。天和二年(567)、皇太后となった。建徳三年(574)三月、崩じた。
皇后(?~616)
  名は胡摩。北周の孝閔帝(宇文覚)の皇后。西魏の文帝(宝炬)の五女。はじめ安公主に封ぜられた。宇文覚が略陽公となると、氏はとついだ。北周が建てられると、王后に立てられた。帝が廃されると、尼となった。建徳初年、武帝(宇文邕)が宇文護を誅殺すると、孝閔皇后と尊称され、崇義宮にうつった。が建てられると、宮殿を出て里の邸に住んだ。大業十二年(616)、亡くなった。
敬独孤皇后(?~558)
  北周帝(宇文毓)の独孤皇后。独孤信の長女。寧都郡公宇文毓にとついだ。帝二年(558)正月、王后に立てられた。同年四月、崩じた。
武成阿史那皇后(551~582)
  北周の武帝(宇文邕)の阿史那皇后。突厥の木杆可汗俟斤の娘。天和三年(568)三月、長安にいたり、武帝に迎えられた。宣帝(宇文贇)が立つと、皇太后となった。大象年(579)に天皇太后と改め、二年(580)には天上皇太后となった。静帝(宇文衍)が立つと、太皇太后となった。の開皇二年(582)、亡くなった。
李皇后(?~588)
  名は娥姿。北周の武帝(宇文邕)の李皇后。于謹が江陵を平定すると、李家は没落した。長安にいたり、宇文泰が李氏を宇文邕に与えた。のちに寵愛を受け、宇文贇(のちの宣帝)を産んだ。宣政年(578)七月、帝太后となった。大象年(579)二月に天帝太后となり、七月に天皇太后となった。静帝(宇文衍)が立つと、大帝太后となった。の開皇年(581)三月、出家して尼となり、常悲と改名した。八年(588)、亡くなった。
楊皇后(561~609)
  名は麗華。北周の宣帝(宇文贇)の楊皇后。弘農郡華陰の人。随国公楊堅の長女。宇文贇が東宮にあったとき、皇太子妃となった。宣政年(578)六月、皇后に立てられた。翌年、宣帝が天皇帝を自称すると、彼女は天皇后となった。まもなく天大皇后と号した。晩年の宣帝は粗暴になり、喜怒の感情を抑えられなくなって、彼女にも死を賜った。母の独孤氏が罪を謝して一命を許された。の開皇六年(586)、楽平公主に封ぜられた。大業五年(609)、煬帝に従って張掖に行き、河西で病没した。
朱皇后(?~586)
  名は満月。北周の宣帝(宇文贇)の朱皇后。郡の人。宇文贇が太子のとき、選ばれて東宮の衣服をつかさどった。寵愛を受けて宇文衍(のちの静帝)を産んだ。大象年(579)四月に天帝后となり、七月に天皇后と改められた。二年(580)二月、天大皇后と改められた。宣帝が崩ずると、帝太后と尊称された。の開皇二年(582)、出家して尼となり、法浄と名を改めた。六年(586)、亡くなった。
皇后(560~650?)
  名は月儀。北周の宣帝(宇文贇)の皇后。潁川郡の人。山提の八女。大象年(579)六月、選ばれて後宮に入り、徳妃となった。七月、天左皇后となった。二年(580)二月、天左大皇后と改められた。三月、天中大皇后となった。帝が崩ずると、出家して尼となり、華光と名を改めた。の永徽初年に亡くなった。
皇后(560~?)
  名は楽尚。北周の宣帝(宇文贇)の皇后。河南郡洛陽の人。晟の次女。大象年(579)六月、選ばれて後宮に入り、貴妃となった。七月、天右皇后となった。二年(580)二月、天右大皇后と改められた。皇后と同時期に後宮に入り、ともに皇后に上ったので、礼遇も等しく、とくに親密だったという。帝が崩ずると、出家して尼となり、華勝と名を改めた。の貞観年間にはまだ生存していたという。
尉遅皇后(?~595)
  名は繁熾。北周の宣帝(宇文贇)の尉遅皇后。尉遅迥の孫娘にあたる。はじめ西陽公宇文温にとついだが、宗室の夫人たちが入朝したとき、宣帝の目にとまり、帝に迫られて関係した。宇文温の父の杞公宇文亮の謀反のため、宇文温は処刑された。尉遅氏は後宮に入り、長貴妃に任ぜられた。大象二年(580)三月、天左大皇后に立てられた。帝が崩ずると、出家して尼となり、華道と名を改めた。の開皇十五年(595)、亡くなった。
司馬皇后(?~?)
  名は令姫。北周の静帝(宇文衍)の司馬皇后。司馬消難の娘。大象年(579)二月、宣帝(宇文贇)が静帝に帝位を譲ると、司馬氏は皇后に立てられた。二年(580)九月、司馬消難がに逃れたことを理由に、廃されて庶人となった。のちにの司隸刺史李丹に再嫁した。の貞観初年には、まだ生存していたという。
歴代后妃(南朝)

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