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歴代皇帝(三国・晋)

歴代皇帝,,三国,,北朝,南朝,,,五代,,,,
三国時代(220-280)]
(220~265)]
曹丕(187~226)
  字は子桓。の初文帝(Wendi)。廟号は世祖。在位220~226。曹操の次男。母は卞皇后。建安十六年(211)、五官中郎将に任ぜられた。二十二年(217)、の王太子となった。曹操が没すると、王の位を襲い、丞相を継いだ。延康年(220)、献帝より禅譲を受けて即位した。都を洛陽に置き、国号をとし、黄初と改した。九品官人法を定めて、有能な人材を集めようとした。三度にわたって、征の戦を起こしたが、成功しなかった。父・曹操、弟・曹植とともに文名が高かった。『典論』。
曹叡(205~239)
  字は仲。の二帝(Mingdi)。廟号は烈祖。在位226~239。文帝(曹丕)の長男。建安二十四年(219)、武徳侯に封ぜられ、黄初二年(221)に公、三年(222)には平原王となった。七年(226)、太子に立てられた。まもなく即位した。学問を好み、博識で、法理に留意し、諫言をよく聞きいれた。大きな争訟があるたびに臨席して自ら取り調べた。青龍二年(234)、の軍が北上すると、満寵に軍を防がせ、自らも東征して孫権を敗走させた。また司馬懿に諸葛亮と対陣させ、諸葛亮が陣中に没したので、軍もしりぞけた。このころ洛陽宮を大いに修築・増築した。景初二年(238)、司馬懿を派遣して東を討たせ、公孫淵を破り、海東諸郡を平定した。若くして病床にたおれ、遺詔を残して曹爽と司馬懿に曹芳の輔政に当たらせた。
曹芳(232~274)
  字は蘭卿。の三王。少帝。在位239~254。帝(曹叡)の養子。青龍三年(235)に王に封ぜられ、景初三年(239)に太子に立てられた。まもなく即位し、翌年正月に正始と改した。曹爽・司馬懿が輔政にあたった。曹爽は何晏らの名士を用い、玄学談の風を興し、のちに正始の風と称された。正始十年(249)、帝と曹爽が帝高平陵を詣でたとき、司馬懿が政変を発動して曹爽を殺し、司馬氏が政権を握った。嘉平六年(254)、司馬師に廃されて、王に落とされた。に入って邵陵県公に封ぜられた。厲公と諡された。
曹髦(241~260)
  字は彦士。の四高貴郷公(Gaoguixianggong)。在位254~260。東海定王曹霖の子。正始五年(244)、高貴郷公に封ぜられた。嘉平六年(254)、王曹芳が司馬師に廃されると、帝として擁立された。翌年、司馬師が没すると、司馬昭が政権を握った。実権を持たぬ帝は怒りを抑えられず、甘露五年(260)に侍中王沈らを召して「司馬昭の心は道行く人でも知っている。私は座して廃位の辱めを受けることができない」といって殿中の宿僮僕数百人を率いて司馬昭を攻めたが、中護軍の賈充に迎え撃たれ、成済によって刺殺された。
曹奐(245~302)
  字は景五代帝(Yuandi)。在位260~265。燕王曹宇の子。甘露三年(258)、安次県常道郷公に封ぜられた。五年(260)、司馬昭が高貴郷公を殺すと、帝に立てられ、景と改した。景四年(263)、鄧艾・鍾会をつかわしてを討たせ、劉禅を降伏させてを滅ぼした。咸煕年(264)、屯田官を廃止して租税・夫役を均等にした。翌年、司馬炎が帝を称してを興すと、廃されて留王となった。のち鄴に移住した。

(222~280)]
孫権(182~252)
  字は仲謀。の初大皇帝(Wudi)。廟号は太祖。在位222~252。郡富春の人。孫堅の次男。母は夫人。兄・孫策の跡を継ぎ、孫氏閥を率いた。赤壁の戦いで、劉備と連合して曹操を破り、江南の一大勢力となった。その後、と同盟して劉備より荊州を奪取。の文帝(曹丕)より王に封じられた。後、と断絶して独立し、黄初三年(222)自ら王の位について、黄武と改した。黄龍年(229)、皇帝として即位した。内政では奉邑制を布き、外には山越を討って内地化した。皇太子・孫登が没すると、孫和を後継者としたが、二宮の変が起こって、国が乱れた。孫亮を皇太子として決着。諸葛恪・滕胤らに後事を託して崩じた。
孫亮(242~260) Sun Liang
  字は子の二会稽王。廃帝、幼帝。在位252~258。孫権の末子。赤烏十三年(250)、太子に立てられた。太二年(252)、孫権が没すると、位を継ぎ、諸葛恪の輔政を受けた。建興二年(253)、孫峻が諸葛恪を殿中で待ち伏せして殺すと、孫峻を丞相とした。太平年(256)、孫峻が病没すると、孫峻の従弟の孫綝を大将軍・中外諸軍事とした。二年(257)、親政をはじめた。三年(258)、暴悪をほしいままにする孫綝を誅殺しようとしたが、事敗れて廃位され、会稽王に落とされた。永安三年(260)、孫亮が復位するとの流言が会稽郡に流れ、爵位を候官侯に落とされ、封地におもむく途中に自殺した。一説に毒殺されたともいう。
孫休(?~264) Sun Hsiu
  字は子烈。の三景帝(Jingdi)。在位258~264。孫権の六男。太二年(252)、琅邪王に封ぜられ、虎林に住んだ。孫権が没し、孫亮が継ぐと、丹楊に移された。郡守の李衡にたびたび圧迫を受けたので、他の郡に移るよう願い出て会稽に移った。太平三年(258)、孫綝が孫亮を廃位すると、孫休を迎えて帝位につけた。孫綝が謀反を企んでいるのを察知し、張布と諮って孫綝を殿中で捕らえさせ処刑した。濮陽興と張布に政務を委ね、自らは古典の研究や雉狩りを楽しんだ。に降ると、巴東に兵を出したが失敗して撤退し、交阯郡で叛乱が起こるなど、国力は衰微に向かった。
孫晧(242~284) Sun Hao
  字は宗。の四末帝(Modi)。在位264~280。孫和の子。永安年(258)、烏程侯に封ぜられた。七年(264)、景帝が亡くなると、万彧が孫晧の英であることを濮陽興と張布の耳に入れ、朱太后に説いたので、このため迎えられて帝位についた。興と改した。帝位につくと暴驕で酒色を好んだ。濮陽興と張布は讒言を受けてまもなく誅殺された。甘露年(265)、朱太后を殺し、武昌に遷都した。宝鼎年(266)、また建業に都を戻した。天紀四年(280)、軍が六路に別れてを攻めると、いたるところで軍は敗れ、ついに孫晧は自らを縛して降伏した。帰命侯の号を賜った。洛陽で没し、河南に葬られた。

(221~263)] SHU HAN
劉備(161~223)
  字は玄徳。蜀漢の初昭烈皇帝。先主。在位221~223。涿郡涿の人。劉弘の子。の中山靖王(劉勝)の後裔と称するが、定かではない。黄巾の叛乱を伐って名を挙げた。公孫瓚・陶謙・呂布・曹操・袁紹・劉表などの軍閥を渡り歩き、予州牧・左将軍などの官位をえた。荊州の劉表のもとにいたとき、諸葛亮を参謀としてえて、孫権と同盟して曹操を赤壁に破った。益州を平定して、曹操・孫権とともに天下を三分した。成都を拠点として固め、中王に上った。黄初二年(221)、後漢を継ぐと称して皇帝に即位。国号をとし、章武と建した。関羽の死に復仇し、荊州を回復するため、に戦いをしかけたが、夷陵に大敗した。病をえて、後事を諸葛亮と李厳に託して、永安に崩じた。『三国志演義』の主人公。
劉禅(207~271)
  字は公嗣。蜀漢の二後主(Houzhu)。在位223~263。先主(劉備)の子。十七歳で帝位を継ぎ、諸葛亮の輔政を受けた。諸葛亮の死後は、宦官の黄皓を信任して、朝政は乱れ、国勢は弱まった。炎興年(263)、将の鄧艾が兵を率いて入し、成都に迫られて、国を挙げて投降した。ここに蜀漢が滅んだ。洛陽に移され、により安楽公に封ぜられた。王司馬昭に「を思い出すことがあるか?」と問われると、「ここは楽しい。を思い出すことはありません」と答えた。のち、洛陽で没した。

歴代皇帝,,三国,,北朝,南朝,,,五代,,,,
西晋(265~316)] Western JIN
司馬炎(236~290)
  字は安世。西晋の初武帝(Wudi)。廟号は世祖。在位265~290。河内郡温県の人。司馬昭の長男。司馬懿の孫にあたる。咸煕二年(265)に司馬昭が没すると、王および相国の位を継いだ。同年の十二月に帝から禅譲を受け、帝位に就いた。国号をとした。が宗室を圧迫して皇室を孤立させた失敗を考慮して、親族に大封を与えた。羊祜を荊州に派遣して、の陸抗に対抗させた。また王濬に益州で水軍を整備させた。羊コが没すると、杜預にえ、賈充を大都督として二十万の兵を南征させた。太康年(280)、王濬に石頭城を攻めさせて、主・孫晧を捕らえ、天下は統一された。地方の武備を縮小し、屯田を廃して占田・課田法を制定した。また税制として戸調式を発布。九品官人法をさらに整備した。晩年になると、後宮に美女一万人を集め、女色に溺れたという。
司馬衷(259~306)
  字は正度。西晋の二恵帝(Huidi)。在位290~306。武帝(司馬炎)の次男。泰始三年(267)、皇太子に立てられた。永煕年(290)、帝位につき、皇后の賈氏に政権を握られた。八王の乱が起こって、しばしば玉として担ぎ上げられ翻弄された。永康二年(301)、趙王司馬倫により廃位され、永昌宮に幽閉された。まもなく司馬倫が殺されて、復位した。永安年(304)、東海王司馬越が帝を奉じて鄴を攻めたところ、成都王司馬穎に敗れて帝は捕らえられた。まもなく司馬穎は王浚に敗れたため、帝を連れて洛陽に逃げた。のち張方により長安に移された。光煕年(306)、司馬越の部将祁弘が長安を攻めて、恵帝を奪い返し、洛陽に帰還した。のち餅による食中毒で崩じた。毒殺されたともいう。かつて恵帝は華林園で蝦蟇の声を聞いて、「この鳴いているのは、君か?私か?」。天下が乱のため荒廃して穀物が取れず、人民が餓死していると聞いて、「どうして肉を食わないのだ?」。
司馬熾(284~313)
  字は豊度。西晋の三懐帝(Huaidi)。在位306~311。武帝(司馬炎)の二十五男。太煕年(290)、豫章郡王に封ぜられた。八王の乱のときは、交遊もたえてせず、世事と関わらなかった。はじめ、散騎常侍をつとめた。永興年(304)、鎮北大将軍・都督鄴城守諸軍事に任ぜられ、皇太弟に立てられた。光煕年(306)に即位したが、東海王司馬越に政権を握られた。永嘉五年(311)、将の劉曜が洛陽を陥落させたため、捕らえられて平陽に連行された。により会稽公に封ぜられた。七年(313)、主劉聡が宴会を開くと、青衣を着て酌をさせられた。まもなく殺された。
司馬鄴(300~317)
  字は彦旗。西晋の四愍帝(Mindi)。在位313~316。孝王司馬晏の子。はじめ王に封ぜられた。永嘉五年(311)、劉曜が洛陽を陥落させると、長安に逃れて、皇太子に立てられた。懐帝の死後、即位した。建興四年(316)、劉曜が長安に迫ると、降伏して捕らえられ、平陽に連行された。主劉聡により光禄大夫に任ぜられ、懐安侯に封ぜられた。翌年、劉聡は、猟に出るとかれに戟をもって先導させ、宴会があると酌をさせ杯を洗わせて、かれを辱めた。まもなく殺された。

東晋(317~420)] Eastern JIN
司馬睿(276~322)
  字は景文。東晋の初帝(Yuandi)。廟号は中宗。在位317~322。河内郡温県の人。司馬覲の子。母は氏。司馬懿の曾孫にあたる。十五歳のとき、父の跡を継いで琅邪王となった。恵帝が即位すると、員外散騎常侍に任ぜられ、左将軍に進んだ。永興年(304)、成都王・司馬潁討伐に従ったが、敗れた。王導の勧めにより、八王の乱のうち続く都を逃れ、山東の封国に帰った。永嘉年(307)、安東将軍・都督揚州諸軍事に任ぜられて、建康に鎮した。愍帝のとき、丞相・大都督中外諸軍事となった。五胡の乱が起こり、建興四年(316)には劉曜に愍帝が捕らえられて、西晋は滅亡した。翌年、司馬睿は王となり、建武と改した。建武二年(318)、愍帝の死報が伝わると帝位につき、朝を復し、建康に都を置いた(東晋)。旧都・洛陽を回復しようと試みたが果たせなかった。永昌年(322)、王導の従兄・王敦が叛乱を起こし、その叛乱を鎮圧する前に崩じた。
司馬紹(301~325)
  字は道畿。東晋の二帝(Mingdi)。廟号は粛宗。在位322~325。帝(司馬睿)の長男。幼いころから聡で、帝はことのほか彼を愛した。建興初年、東中郎将に任ぜられ、広陵に鎮し、皇太子に立てられた。王敦はかれを嫌って廃そうと謀ったが、未遂に終わった。帝が崩ずると、位を継いだ。王導の輔政を受け、諸将を監督して王敦の乱の平定にあたらせた。王敦が病没して、まもなく乱は静まった。陶侃・王舒にそれぞれ荊州・広州を担当させ、上流の勢力を分けた。
司馬衍(321~342)
  字は世根。東晋の三成帝(Chengdi)。廟号は顕宗。在位325~342。帝(司馬紹)の長男。太寧三年(325)、帝が崩ずると、年五歳にして即位し、咸和と改した。母の庾太后が朝政を執った。王導・庾亮が輔政にあたった。咸和二年(327)、蘇峻・祖約の乱が起こると、捕らえられて石頭城に移された。四年(329)、乱は平定された。後趙が強盛で、庾亮が北伐して失敗した。領内の豪族・貴族たちが、各地の山川を私領化していたため、咸康二年(336)に壬辰詔書を下して、これを禁じた。七年(341)、土断をおこなって、王公以下を戸籍に編入した。
司馬岳(322~344)
  字は世同。東晋の四康帝(Kangdi)。在位342~344。成帝(司馬衍)の弟。はじめ王に封ぜられ、のち琅邪王に改封された。咸康五年(339)、侍中・司徒に累進した。八年(342)、成帝の病が篤くなり、詔により後嗣に定められた。成帝が崩ずると、帝位につき、建と改した。政務を庾冰・何充に委ねた。まもなく庾氏が政権を掌握した。
司馬耼(343~361)
  字は彭子。東晋五代穆帝(Mudi)。廟号は孝宗。在位344~361。康帝(司馬岳)の子。建二年(344)、二歳で即位し、永和と改した。褚太后が朝廷にのぞんで摂政にあたった。庾冰・何充が相次いで没し、武陵王司馬晞・会稽王司馬旻らが政務にあたった。升平年(357)、褚太后が政権を返した。
司馬丕(341~365)
  字は千齢。東晋の六哀帝(Aidi)。在位361~365。成帝(司馬衍)の長男。はじめ琅邪王に封ぜられた。升平三年(359)、驃騎将軍に任ぜられた。五年(361)、穆帝が崩ずると、帝位につき、隆和と改した。興寧二年(364)三月の庚戌の日に、桓温らが中心となって土断を励行した。庚戌土断と称される。長生薬を服用して中毒となり昏迷におちいったため、褚太后が朝廷にのぞんで摂政にあたった。三年(362)、没した。
司馬奕(342~386)
  字は延齢。東晋の七廃帝。在位365~371。成帝(司馬衍)の末子。哀帝の弟。咸康八年(342)、東海王に封ぜられた。升平五年(361)、琅邪王に改封され、侍中・驃騎大将軍・開府をつとめた。興寧三年(365)、哀帝が崩ずると、帝位を継いだ。桓温が専権をにぎり、北伐をおこなったが、枋頭で敗れて失敗した。太和六年(371)、廃位されて東海王となった。翌年、海西県公に落とされた。県西柴里に移された。盧悚が皇太后の密詔を受けたと称して、復辟をはかろうとしたが、従わなかった。毎日飲酒にふけって、屈辱に耐えつつも、難を避けた。において没した。
司馬昱(321~372)
  字は道万。帝(司馬睿)の末子。東晋の八簡文帝。廟号は太宗。在位371~372。幼くして聡で、帝に愛された。永昌年(322)、琅邪王に封ぜられた。咸和年(326)、会稽王に改封され、散騎常侍に任ぜられた。永和年(345)、撫軍大将軍・録尚書六条事に進んだ。八年(352)、司徒となる。太和年(366)、丞相・録尚書事となった。太和六年(371)、廃帝(司馬奕)が廃されると、桓温に迎えられた。帝位につき、咸安と改した。桓温が実権を握り、帝は位を保つのみであった。
司馬曜(362~396)
  字は昌東晋の九孝武帝(Xiaowudi)。廟号は烈宗。在位372~396。簡文帝(司馬昱)の三男。はじめ会稽王に封ぜられ、咸安二年(372)に皇太子に立てられた。簡文帝が崩ずると、帝位についた。翌年、寧康と改した。桓温が没すると、褚太后が摂政にあたった。王彪之を尚書令とし、謝安を尚書僕射とした。太年(376)、親政をはじめ、謝安に中書監・録尚書事を加えた。八年(383)、淝水の大戦で、謝玄・謝石・劉牢之らが前秦の苻堅の軍を大いに破った。酒色にふけり、会稽王司馬道子を重用して、西府との不和をきたした。のち酒による急性中毒で没した。
司馬徳宗(382~418)
  東晋の十安帝(Andi)。在位396~418。孝武帝(司馬曜)の長男。太二十一年(396)、孝武帝が崩ずると、即位し、隆安と改した。幼くして知恵遅れで口が利けなかったという。朝政は会稽王司馬道子が専断した。桓玄が建康を占領し司馬道子を放逐すると、桓玄に政権を握られた。興二年(403)、桓玄が簒奪し帝を称すると、廃されて平固王に落とされ、尋陽に移され、さらに南郡・江陵に移された。桓玄が劉裕に敗れると、復位し、政権は劉裕に帰した。義煕十四年(418)、劉裕により殺された。
司馬徳文(386~421)
  東晋の十一恭帝(Gongdi)。在位418~420。孝武帝(司馬曜)の子。安帝(司馬徳宗)の弟。はじめ琅邪王に封ぜられた。桓玄が帝を称すると、石陽県公に落とされた。乱が平定されると、復爵し、大司馬・司徒に任ぜられた。劉裕の北伐に随行して、後秦が滅びると、帰京した。義煕十四年(418)、安帝が崩ずると、帝位についた。煕二年(420)、帝位を劉裕に譲り、零陵王に封ぜられて、秣陵に移った。翌年、殺された。
歴代皇帝(北朝)