年表・清朝
1861(咸豊11)総理各国事務衙門(がもん)を設置。同治帝即位。西太后、恭親王ら実権を握る。このころから洋務運動始まる1862(同治1)ウォードが常勝軍を組織、翌年イギリス人ゴードン指揮をとる。李鴻章(りこうしょう)が淮勇(わいゆう)を組織1864(同治3)洪秀全、李秀成が死に、太平天国滅亡1865(同治4)上海に江南製造総局を置く1866(同治5)ヤクブ・ベクが新疆(しんきょう)に独立する1867(同治6)左宗棠(さそうとう)が新疆の動乱鎮圧開始(~1878)。馬尾に福州船政局を置く1868(同治7)捻(ねん)軍が滅びる1870(同治9)民衆が天津のフランス領事館とキリスト教会を襲う1871(同治10)ロシアがイリ地方を占領。日清修好条規締結1873(同治12)同治帝の親政始まる1876(光緒2)上海(シャンハイ)~呉淞(ウースン)間に最初の鉄道が開通する。イギリスと芝罘(チーフ)条約を結ぶ1880(光緒6)李鴻章が海軍を創設する。天津電報総局を設置1881(光緒7)ロシアとイリ条約を結ぶ1882(光緒8)上海機器織布局を設置1884(光緒10)新疆を省にする。清仏戦争が起こる(~1885)1888(光緒14)李鴻章が北洋海軍を創設する1891(光緒17)哥老(かろう)会が暴動を起こす1894(光緒20)日清戦争始まる。孫文が興中会を結成1895(光緒21)下関条約締結。孫文、広州革命に失敗1896(光緒22)ロシアと東清鉄道密約を結ぶ1898(光緒24)ドイツが膠州湾、ロシアが旅順・大連を租借。日本と福建省不割譲協定。フランスと雲南・広西不割譲協定。イギリスが九竜半島・威海衛を租借。康有為ら変法を行う(戊戌(ぼじゅつ)の変法)1899(光緒25)アメリカが門戸開放宣言。フランスが広州湾を租借。義和団の攻撃活発化する1900(光緒26)義和団が北京入城。清が列強に宣戦。連合軍北京入城。孫文の広東蜂起失敗1901(光緒27)辛丑(しんちゅう)条約調印。ロシアが東清鉄道を完成1902(光緒28)ロシアと東三省還付条約を結ぶ1903(光緒29)黄興らが華興会を結成する1905(光緒31)孫文らが日本の東京で中国同盟会を結成。科挙制度廃止1906(光緒32)日本が南満州鉄道会社を設立。立憲制準備の上諭が出る。官制大改革1907(光緒33)中国同盟会の鎮南蜂起失敗1908(光緒34)最初の対日ボイコット。憲法大綱・議院選挙要綱公布。光緒帝、西太后死亡1910(宣統2)広東で新軍が蜂起を企図。北京に資政院を設置。四国借款団が成立1911(宣統3)黄興らの広州蜂起失敗。鉄道国有令を公布。四川に暴動が起こる。武昌蜂起、辛亥(しんがい)革命起こる。袁世凱(えんせいがい)内閣が成立1912(中華民国1)中華民国が成立。孫文が臨時大統領となる。宣統帝が退位して清朝が滅ぶ。太陽暦を採用 | ||||
1583 | ヌルハチが挙兵する(万暦11)(-東アジア-中国、清)-- | |||
ヌルハチ(1559~1626) 姓はアイシンギョロ(愛新覚羅)、名はヌルハチ(努児哈赤)。追尊して清の初代太祖。タクシ(塔克世)の子。建州女真のスクスフ部の首長の子として生まれた。十九歳のとき、家を出て、明の将軍の李成梁に従い、才覚を認められた。万暦十一年(1583)、ヌルハチの祖父と父が、李成梁に従って戦ったが、明軍に誤殺された。そのため建州左衛都指揮使を継いだ。李成梁のはからいで明の左都督・龍虎将軍となった。海西女真の内紛により力をつけ、万暦十七年(1589)には建州女真五部を統一した。その後、海西女真のハダ部・ホイファ部・ウラ部を次々と征服した。万暦四十四年(1616)、ヘトゥアラでハーン位に就き、国号を大金とした(後金、アイシン・グルン)。天命と建元し、軍事組織を八旗に編成した。天命三年(1618)、七大恨を挙げて明朝にそむいた。撫順の戦い、サルフの戦いで明軍に大勝し、海西女真最強のイェヘ部も平定した。天命六年(1621)には瀋陽・遼陽を落とし、天命十年(1625)には瀋陽に遷都して盛京と改名した。寧遠を攻撃して明の将軍の袁崇煥のために敗退し、そのとき受けた砲弾による負傷がもとで死去したという。 | ||||
1613 | ヌルハチが女真諸部をほぼ統一する(万暦41)(-東アジア-中国、清)-- | |||
1615 | 女真のヌルハチが満州八旗を編成(八旗制度確立)(万暦43)(-東アジア-中国、清、女真)-- | |||
1616 | 清朝、成立(1616~1912)(-東アジア-中国、清)-- | |||
1616 | 清・愛新覚羅氏・・太祖高皇帝(ヌルハチ(奴爾哈赤))(-東アジア-中国、清)-- | |||
1616 | ヌルハチが後金国を建てる(天命1)(-東アジア-中国、清、後金国)-- | |||
1616 | 清・愛新覚羅氏・・ 太祖(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1616 | 中国では明が衰え、満州に後金が独立した。#style(class=box_black_swm){{満州・・・非漢字国満州人満州語・・アルタイ語系文字}}(-東アジア-朝鮮:李氏朝鮮、後金:清)--李氏朝鮮時代 | |||
1616 | 中国では明が衰え、満州に後金が独立した。 満州・・・非漢字国満州人満州語・・アルタイ語系文字(-東アジア-朝鮮:李氏朝鮮、後金:清)--李氏朝鮮時代 | |||
1619 | サルフの戦い。ヌルハチ、明軍を破る(天命4)(-東アジア-中国、清)-- | |||
1619 | サルホの戦いで後金軍に敗れる(-東アジア-朝鮮:李氏朝鮮、後金:清)--李氏朝鮮時代 | |||
1626 | 清・愛新覚羅氏・・太宗(-東アジア-中国、清)-- | |||
1626 | 清・愛新覚羅氏・・ 太宗(-東アジア-中国、清)-- | |||
1626 | ホンタイジ(1592~1643) 名は知られていない。通称はホンタイジ(皇太極)。清の第二代太宗。在位1626~1643。太祖ヌルハチの八男。はじめ正白旗の旗主たる貝勒(ベイレ)となり、ダイシャン(代善)・アミン(阿敏)・マングルタイ(莽古爾泰)と並ぶ四大貝勒の末席を占めた。兵を率いて征戦におもむき、しばしば戦功があった。天命十一年(1626)、ヌルハチが没すると、後金のハーン位を継いだ。明制にならって三院・六部・都察院・理藩院を設けた。来帰した漢人武将やモンゴル諸王の軍によって自己の軍事力を強化し、三大貝勒の権力を抑制した。漢人官僚を登用し、人材と文化の吸収につとめ、漢土統治の基礎を築いた。また八旗の軍制を拡大して、蒙古八旗・漢軍八旗を新たに編成した。天聡九年(1635)、チャハル部を逐って内モンゴルを平定し、大元伝国の璽を入手し、朝鮮を従属させた。女真の称を満洲に改めた。翌年四月、大清皇帝の位につき、国号を大清(清、ダイチン・グルン)と改め、崇徳と改元した。崇徳五年(1640)、松錦の戦いで明軍主力に大打撃を与えた。明朝打倒をめざし、山海関に迫ったが、関を越えることなく翌年に没した。(-東アジア-中国、清)-中国史人物事典⇒歴代皇帝- | |||
1626 | 太宗文皇帝(崇徳帝、天聡帝、ホンタイジ(皇太極))(清(後金)-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1627 | 朝鮮に侵入する(天聡1)(-東アジア-中国、清)-- | |||
1627 | 1627丁卯胡乱(後金の朝鮮侵攻)(-東アジア-朝鮮:李氏朝鮮、後金:清)--李氏朝鮮時代 | |||
1627 | 丁卯胡乱.後金(後の清)鴨緑江を越え侵入(-東アジア-朝鮮:李氏朝鮮、後金:清)--李氏朝鮮時代 | |||
後金(後の清)のヌルハチホンタイジ(女真人・満州人)は明と同盟関係にある朝鮮に侵攻してきた。朝鮮軍は敗北を重ね、皇帝は江華島へ避難した。その後、後金に服従することで講和が成立、交易開始、後金軍は撤退した。 | ||||
1628 | 崇禎帝・即位 -1644(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1635 | チャハル部を討ち内モンゴルを平定する(天聡9)(-東アジア-中国、清)-- | |||
1636 | 清[1636~1912](-東アジア-中国、清)-- | |||
1636 | 国号を清と改める。朝鮮を属国とする(崇徳1)(-東アジア-中国、清)-- | |||
1636 | 清[1636~1912](-東アジア-中国、清)-中国史人物事典⇒歴代皇帝- | |||
1636 | 清のホンタイジが朝鮮に親征(丙子胡乱)、朝鮮国王仁祖、南漢山城に篭城、(後金、国号を清とする)(-東アジア-朝鮮:李氏朝鮮、後金:清)--李氏朝鮮時代 | |||
1636 | 1636年丙子胡乱後金は国号を清とし、清に服従することと明討伐の派遣軍3万の提供を要求してきた。朝鮮はこれを拒否、清は12万の大軍で侵攻してきた。朝鮮軍はなすすべもなく40日あまりで降伏した。朝鮮は明と断交すること、王子を人質に差し出すこと、莫大な賠償金を支払うなどの屈辱的な講和条約を結ばされた。また、朝鮮王の仁祖は、清の皇帝の前で三跪九叩頭の礼を行い、服従する誓いをさせられた。【三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとうのれい)】中国皇帝に臣下の礼をとるため、三度ひざまずき、九度頭を地にこすりつける儀式。(-東アジア-朝鮮:李氏朝鮮、後金:清)--李氏朝鮮時代 | |||
後金から清へ ヌルハチの建国したアイシン(後金)はしだいに周辺民族を制圧して、第2代のホンタイジの時の1636年に、中国風に国号を清に改め、さらに明が李自成の反乱で滅亡した後に北京に入り、李自成を討って1644年に中国全土を統一した。 | ||||
1638 | 六部、理藩院、都察院を設置(崇徳3)(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1639 | 鎖国の強化ポルトガル船来航禁止。以後、オランダ、中国(清)のみと交易を行う。(-東アジア-中国、清、オランダ)-- | |||
1643 | フリン(1638~1661) 福臨。清の三代順治帝。廟号は世祖。法名は行痴。号は痴道人、太和主人。在位1643~1661。太宗(ホンタイジ)の九男。崇徳八年(1643)、太宗が崩ずると、帝位についた。叔父の鄭親王ジルガラン・睿親王ドルゴンを輔政王とし、国政を総理させた。順治元年(1644)、呉三桂の先導により清軍が入関して北京を落とすと、北京に遷都した。ドルゴンが独裁を確立し、帝はその傀儡となった。このころ薙髪令を出して、漢人に弁髪を強要した。二年(1645)、予親王ドドに南征させて揚州を屠り、南京を落とした。福建に朱聿鍵を殺し、広州に朱聿鍔を滅ぼした。八年(1651)、ドルゴンが病没すると、帝は親政を開始し、ドルゴンの生前の罪を問うてその官爵を剥奪し、英親王アジゲを自殺させた。漢人官僚を重用し、吏治を整え、開墾を奨励し、『賦役全書』を編纂させた。西南に呉三桂を派遣して南明の永暦政権を討たせた。帝ははじめキリスト教を信じて、アダム・シャールを尊崇した。のちに仏教に傾倒し、高僧の玉林琇・木陳忞らを尊んだ。十七年(1660)、愛妃の棟鄂氏が病死すると、出家しようとしたが、群臣に止められた。翌年、病のため養心殿で崩じた。(-東アジア-中国、清)-中国史人物事典⇒歴代皇帝- | |||
1643 | フリン(1638~1661) 福臨。清の三代順治帝。廟号は世祖。法名は行痴。号は痴道人、太和主人。在位1643~1661。太宗(ホンタイジ)の九男。崇徳八年(1643)、太宗が崩ずると、帝位についた。叔父の鄭親王ジルガラン・睿親王ドルゴンを輔政王とし、国政を総理させた。順治元年(1644)、呉三桂の先導により清軍が入関して北京を落とすと、北京に遷都した。ドルゴンが独裁を確立し、帝はその傀儡となった。このころ薙髪令を出して、漢人に弁髪を強要した。二年(1645)、予親王ドドに南征させて揚州を屠り、南京を落とした。福建に朱聿鍵を殺し、広州に朱聿鍔を滅ぼした。八年(1651)、ドルゴンが病没すると、帝は親政を開始し、ドルゴンの生前の罪を問うてその官爵を剥奪し、英親王アジゲを自殺させた。漢人官僚を重用し、吏治を整え、開墾を奨励し、『賦役全書』を編纂させた。西南に呉三桂を派遣して南明の永暦政権を討たせた。帝ははじめキリスト教を信じて、アダム・シャールを尊崇した。のちに仏教に傾倒し、高僧の玉林琇・木陳忞らを尊んだ。十七年(1660)、愛妃の棟鄂氏が病死すると、出家しようとしたが、群臣に止められた。翌年、病のため養心殿で崩じた。(-東アジア-中国、清)-中国史人物事典⇒歴代皇帝- | |||
1643 | 清・愛新覚羅氏・・世祖章皇帝(順治帝、福臨)・即位 -1661(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1644 | 満州族の王朝。この時代は優秀な皇帝が多くいました。二代皇帝康煕帝の時代に始まり、その後雍正帝、乾隆帝と続く三代の皇帝が1世紀以上にわたる清朝の繁栄と平和をもたらしました。 しかし1790年代の後半から各地で続発する民衆反乱を皮切りに、清王朝の統制が利かなくなり、1840年のアヘン戦争で列強に徹底的に痛めつけられます。さらに1850年の太平天国の乱と続き、末代皇帝宣統帝(溥儀)の代・1912年、辛亥革命によって王朝時代の幕が下りました。 ~1912清(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1644 | 李自成が北京に入り、明滅亡。清軍が山海関を越える。北京に遷都(順治1)(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1645 | 清で弁髪・胡服を強制(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1645 | 清、南京を攻略。弁髪を強要する(薙髪(ちはつ)令)(順治2)(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1659 | 雲南を平定して中国統一をほぼ完成(順治16)(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1661 | 玄燁(1654~1722) 清の四代康熙帝。廟号は聖祖。在位1661~1722。順治帝(福臨)の三男。順治十八年(1661)、八歳で即位。翌年には南明最後の永暦帝を昆明で処刑し、康煕三年(1664)には大順軍(李自成)の残党も一掃した。八年(1669)、後見者のオーバイ(鰲拜)を罷免して親政をはじめた。十二年(1673)に三藩の乱が起こると、これを九年がかりで鎮圧した。海上では鄭氏海軍を破り、台湾を占領。二十八年(1689)、北方のロシアとネルチンスク条約を結んで、和平した。三度にわたって西北に親征して、ジュンガル部のガルダンを逐った。運河交通や黄河の治水に意を用いて治績をあげ、六回にわたって江南への巡幸をおこなった。文字の獄によって思想統制をおこなう一方、『全唐詩』『佩文韻府』『康熙字典』『大清会典』『古今図書集成』などを編纂させた。西洋の技術や自然科学にも造詣が深く、フェルビーストらを用いて暦法を制定させた。皇太子允 を四十七年(1708)に廃し、まもなく再び立て、また廃した。後継者をめぐる諸子の間の争闘は激しくなり、帝は皇太子の選択に悩んで、太子密建を創始した。六十一年(1722)、病のため暢春園で崩じた。一説に四男の胤禛(雍正帝)に毒殺されたともいう。康煕年間は清代でも乾隆年間とならぶ盛時とされ、康煕帝は中国の歴代王朝を通じて有数の名君とされる。(-東アジア-中国、清)-中国史人物事典⇒歴代皇帝- | |||
1661 | 清・愛新覚羅氏・・聖祖仁皇帝(康熙帝、玄燁)(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1661 | 清・愛新覚羅氏・・ 聖祖・康煕帝(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1661 | 康煕(こうき)帝即位。鄭成功(ていせいこう)が台湾に拠る(順治18)(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1662 | 均田均役法が初めて施行される(康煕1)(-東アジア-中国、清)-- | |||
1673 | 清で呉三柱らの三藩の乱起こる(~1681)(康煕12)(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1683 | 鄭氏が降伏し、台湾が清の領土となる(康煕22)(-東アジア-中国、清)-- | |||
1689 | ネルチンスク条約~清とロシアが国境を画定(康煕28)(-東アジア-中国、清、ロシア)-- | |||
1690 | 最初の大清会典ができる(以後4種)(康煕29)(-東アジア-中国、清)-- | |||
1710 | 清で『康煕字典』が完成(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1717 | 広東で地丁銀施行。以後各省に及ぶ(康煕55)(-東アジア-中国、清)-- | |||
地丁銀 中国,清朝の土地税。田賦ともいう。清朝の租税は,ほかに関税・塩税・雑税があり,清末には新税も増設されたが,これらはすべて間接税で,直接税は地丁銀だけであった。清朝は,明代の地銀(地賦)・丁銀(丁賦)2本立て租税を引きついだが,人頭税である丁銀(16~60歳の壮丁に課税)は,官僚層の免除特権の乱用,富裕地主の丁数ごまかし,貧困農民の未納増加などの諸要因から,その徴収が困難になった。そこで清朝は,1713年(康熙52)から盛世滋生人丁を新設して丁額・丁銀額を固定化し,16年広東省において丁銀を地銀の付加税として合併徴収することとしたのを最初として,20年代(雍正1‐7)に各省の地丁銀がつぎつぎに成立した。 | ||||
1720 | 広東で初めて公行を結成(康煕59)(-東アジア-中国、清)-- | |||
1720 | 公行 中国清代,広州外国貿易商人(行商)の組合。ふつう広東十三公行とよばれるが,行商の数は13とはかぎらず,20~50家の間を増減した。清朝は1685年(康熙24),それまで禁じていた海外貿易を許可し,広州に粤海関(えつかいかん)をおいて関税を徴収したが,翌86年行商に関税徴収を請け負わせる代償として輸出入品を独占させた。これが公行制度の始まりである。1720年行商16家が公行を結成し,取引を独占,価格の協定をはかったが,他の行商の反対で成功せず,26年有力な行商6家がえらばれて外国船との取引独占権をあたえられ,他の一般行商はこの6家(保商)の保証のもとで取引を行った。(-東アジア-中国、清)-- | |||
1722 | 胤禛(1678~1735) 清の五代雍正帝。廟号は世宗。在位1722~1735。康熙帝(玄燁)の四男。康煕三十七年(1698)に貝勒に封ぜられ、四十八年(1709)に雍親王となった。熾烈な後継者争いに勝ち抜き、六十一年(1722)に即位した。軍機処をもうけて、内閣に代わる国政の最高機関とした。土地税と人頭税を一本化して、税収を安定化させた。対外的には青海・チベットを征服し、露とキャフタ条約を結んで国境線と貿易関係を確定した。施政は厳格で、近臣や弟であっても処刑・処罰をおこなったという。為政者の義務を果たすために一日四時間しか眠らず、全国の官僚に内密の上奏文を提出させて、地方政治を監督する独特の「奏摺政治」を展開した。中国の独裁君主の典型とされており、その評価は褒貶二分されている。(-東アジア-中国、清)-中国史人物事典⇒歴代皇帝- | |||
1722 | 清・愛新覚羅氏・・世宗憲皇帝(雍正帝、胤禛)(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1722 | 清・愛新覚羅氏・・ 世宗・雍正帝(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1723 | キリスト教を厳禁(以後禁令がたびたび出される)(雍正1)(-東アジア-中国、清)-- | |||
1725 | 『古今図書集成』成る(雍正3)(-東アジア-中国、清)-- | |||
1727 | キャフタ条約~清とロシアが国境を画定(-東アジア-清、ロシア)-- | |||
1728 | 清がチベットを征服(-東アジア-チベット、清)-- | |||
1732 | このころ軍機処を設置(雍正11)(-東アジア-中国、清)-中国史人物事典⇒歴代皇帝- | |||
軍機処 中国,清朝の最高政務機関。正式には 理軍機処という。清初,皇帝を補佐する最高機関としては議政王大臣と内閣があったが,ジュンガル出兵に関する機密の保持のため,1730年(雍正8)に軍需房(のち軍機房,ついで軍需処と改称)が設置された。軍需房は内閣の分局にすぎなかったが,1732年に独立し,正式に軍機処と呼ばれることになった。このように雍正年間の軍機処は北方遊牧民族に対する軍事力行使のために臨時に設けられた小委員会にすぎなかったが,つづく乾隆朝になると内閣の実権を奪い,以来清代を通じて重要政務全般をつかさどる最高機関であった。 | ||||
弘暦(1711~1799) 清の六代乾隆帝。廟号は高宗。十回の遠征に成功したため、十全老人と号したという。在位1735~1795。雍正帝(胤禛)の四男。雍正十一年(1733)、和碩宝親王に封ぜられた。十三年(1735)、雍正帝が崩ずると、帝位についた。即位後、ジュンガル部のガルダン・ツェレンを討ち、大小ホージャの乱を平定して新疆をおさめた。チベットを安定させるため、「欽定西蔵章程」を公布して民政・軍事の権力を駐蔵大臣に委ねた。また雲南、ビルマ、台湾などに遠征し、これによって清朝の最大版図を形成した。寧波・厦門・雲台山を閉港し、西洋との交易を広州一港に制限した。英国の使節マカートニーの通商の要求もことごとく拒否した。文化面では『四庫全書』を編纂させ、一代のうちに完成させた。また多くの文化財を蒐集して紫禁城に集めた。しばしば巡遊をおこない、馬上朝廷の称もあった。土木工事を好み、多くの人力財力を消費した。帝個人はさまざまな濫費を好んだが、かれの治世は銀の入超に支えられて、前代に類をみない好景気の時代であり、清朝の最盛期であった。在位六十年で退位して嘉慶帝に譲り、太上皇帝となった。その後の三年間、院政を布いた。晩年は和 を信任して国政が乱れ、白蓮教の乱が起こった。『楽善堂詩文全集』。 | ||||
1735 | 清・愛新覚羅氏・・高宗純皇帝(乾隆帝、弘暦)が即位(-1795)(雍正13)(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1743 | 『大清一統志』成る(乾隆8)(-東アジア-中国、清)-- | |||
大清一統志 中国,清代の全国地誌。皇帝の命令によって編纂され,時期を異にして3種の版本が刊行された。最初の版本は康熙帝の命により徐乾学等によってつくられた356巻本で,1743年(乾隆8)に完成,翌年武英殿で刊刻された。第2の版本は,64年和坤(わこん)等に増訂が命じられ,20年後に完成,その後90年(乾隆55)に武英殿で刊刻された。乾隆29年勅撰本は,本来424巻であるが,今日流布の多い光緒24年,同27年の石印本は500巻に改編されている。 | ||||
1757 | 外国貿易を広東(カントン)一港に限定する(乾隆22)(-東アジア-中国、清)-- | |||
1782 | 『四庫全書』が完成(乾隆46)(-東アジア-中国、清)-- | |||
1782 | 四庫全書 中国最大の叢書。清朝の乾隆帝が,入手できる限りの書籍を集め,主要な3457部を一定の書式に従って筆写させ,自己の蔵書としたもの。経・史・子・集の四部に分類されて保管されたので四庫の名がある。乾隆帝は1741年(乾隆6)から集書を始め,72年に四庫全書館を置き,紀昀(きいん)らに命じて,勅撰本,内府蔵本,永楽大典本,各省採進本,私人進献本,通行本の6種よりなる収集原本をもとに,四庫に収める書と目録だけを作る書とに分けさせた。(-東アジア-中国、清)-- | |||
1793 | イギリスの使節マカートニーが北京にくる(乾隆58)(-東アジア-中国、清)-- | |||
1795 | 清・愛新覚羅氏・・仁宗睿皇帝(嘉慶帝、顒琰)(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1795 | 清・愛新覚羅氏・・ 仁宗・嘉慶帝(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1796 | 白蓮教徒の乱が起こる(~1804)(嘉慶1)(-東アジア-中国、清)-- | |||
白蓮教徒の乱 中国の宗教的秘密結社である白蓮教を母体とした反乱白蓮教徒は元末に紅巾の乱を起こしていたが,その後も組織は生き残り,清代には四川・湖北・陝西などの省境に流入した流民らに広まった。その後,嘉慶時代の弾圧に抗して1796年に蜂起し,清朝の正規軍を撃破したが,地方の義勇軍である団練によって1804年には鎮圧された。これにより清朝の軍事的弱体化が露呈するとともに,財政難が深刻化した。 | ||||
(1760~1820) 清の七代嘉慶帝。廟号は仁宗。在位1796~1820。乾隆帝(弘暦)の十五男。乾隆五十四年(1789)、嘉親王に封ぜられた。六十年(1795)、皇太子に立てられた。翌年、父帝に譲られて帝位についた。父が太上皇となり引き続き執政し、和 が国政を専断した。嘉慶四年(1799)、父太上皇が崩ずると、親政をはじめた。和 を逮捕して獄に下し、二十大罪を数えて、自殺を迫った。湖北・四川で起こった白蓮教徒の叛乱は五省に波及し、足かけ九年この鎮圧のために全力を尽くした。まもなく蔡牽・朱濆の乱が東南海上で起こり、北方で天理教の乱が起こって京師に迫った。乾隆中期以後、軍紀はゆるみ、軍費は増大し、官僚の汚職はきわまり、連年にわたって黄河が氾濫し、運河の交通も滞って、財政は悪化の一途をたどった。貿易収支も悪化して、嘉慶期には銀の出超となり、デフレによる賦税の実質増によって農民を苦しめた。二十五年(1820)、熱河の避暑山荘で崩じた。 | ||||
1796 | 清で白蓮教の乱(~1804)(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1809 | 広東の互市章程が定められる(嘉慶14)(-東アジア-中国、清)-- | |||
1813 | 天理教の乱が起こる(嘉慶18)(-東アジア-中国、清)-- | |||
1820 | 旻寧(1782~1850) 清の八代道光帝。廟号は宣宗。在位1820~1850。嘉慶帝( )の次男。嘉慶二十五年(1820)八月、帝位についた。道光六年(1826)、ジハーンギールがカシュガル・ヤルカンドを占領し、台湾では黄文淵が乱を起こした。このころ、天災や政治腐敗や重税が重なり、農民の叛乱や少数民族の反抗が相次いだ。十八年(1838)、林則徐を欽差大臣に任じて広東におもむかせ、アヘンの吸引と販売を厳禁させた。二十年(1840)、イギリスがアヘン戦争をしかけ、舟山島の定海を占領した。のちに英軍は、広州虎門の砲台を激戦の末落とし、鎮海・寧波・乍浦を陥落させ、南京を攻撃した。二十二年(1842)、和平派の耆英が欽差大臣となって、英との間に南京条約が結ばれ、香港の割譲、五港の開港、賠償金の支払いが約された。二十四年(1844)、米との間に望厦条約が、仏との間に黄埔条約が結ばれて、治外法権を認めさせられた。三十年(1850)、病のため崩じた。(-東アジア-中国、清)-中国史人物事典⇒歴代皇帝- | |||
1820 | 清・愛新覚羅氏・・宣宗成皇帝(道光帝、旻寧)(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1820 | 清・愛新覚羅氏・・ 宣宗・道光帝(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1820 | 宣宗成皇帝(道光帝、旻寧)(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1833 | このころ、清でアヘン貿易が拡大(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1839 | 6.3 林則徐の「虎門銷煙」(~25日)林則徐がイギリス船のアヘンを焼却する(道光19)(-東アジア-中国、清)-- | |||
1839 | 6.3 虎門銷煙 1830年代、イギリス、ポルトガルなどは武力を背景に中国南部に大量のアヘンを持ち込み、国民の健康を脅かし、莫大な金銀を国外に流出させ、国家や民衆を衰弱させた。清の道光帝は林則徐のアヘン服用禁止令の進言を受け入れ、彼を広州に派遣し、虎門で海外のアヘン商人たちからアヘン2万箱以上、1175tを押収した。押収したアヘンを処分するために2つの池が掘られた。長さと幅はともに45m、底に石板が敷かれ、周囲は杭で囲まれている。すぐ傍に暗渠があり、後方は排水口につながっている。アヘンを処分した際は、まず池に水をため、大量の塩を混ぜ入れてからアヘンを投入して塩分で溶かし、さらに生石灰で攪拌して化学反応によって爆発させ、成分分解させるという手段をとった。最後に残った残骸は河水で一つ残らず洗い流した。三週間後には、全てのアヘン処理が完了した。(1839年6月3日~25日)(-東アジア-中国、清)-中国史人物事典⇒歴代皇帝- | |||
1840 | 6.21 清・イギリス間にアヘン戦争が始まる(~1842)(道光20)(-東アジア-中国、清、イギリス)-- | |||
1842 | 南京条約→香港島をイギリスに割譲(-東アジア-中国、清、香港、イギリス)-- | |||
1850 | 奕 (1831~1861) 清の九代咸豊帝。廟号は文宗。在位1850~1861。道光帝(旻寧)の四男。道光三十年(1850)、道光帝が崩ずると、帝位についた。咸豊元年(1851)、太平天国の乱鎮圧のため兵を派遣したが、たびたび敗北した。三年(1853)、曾国藩ら漢族の郷紳を起用して団練を編成させ、蕭順らを任用して財政を改革させた。六年(1856)、英仏がアロー戦争を仕掛けると、対外妥協的態度を取った。八年(1858)、露との間にアイグン条約を結び、英仏米露との間にそれぞれ天津条約を結んだ。十年(1860)、英仏軍が北京に侵攻したため、帝は熱河に逃れた。弟の恭親王奕 に京師の留守を任せて英仏と折衝させ、北京条約を結ばせた。十一年(1861)、病のため熱河の行宮で崩じた。(-東アジア-中国、清)-中国史人物事典⇒歴代皇帝- | |||
1850 | 清・愛新覚羅氏・・文宗顕皇帝(咸豊帝、奕詝)(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1850 | 清・愛新覚羅氏・・ 文宗・咸豊帝(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1850 | 11.4 洪秀全、拝上帝会を率いて金田村にて蜂起、太平天国へ(-東アジア-中国、清)-- | |||
1851 | 太平天国の乱(~1864)(-東アジア-中国、清)-- | |||
太平天国 1851年(咸豊1)広西に樹立され,のち南京を首都天京として,清朝,また末期にはイギリス,フランス干渉軍と戦って64年(同治3)に滅んだ中国の民衆的政権。[太平天国の理想と挙兵経過] 母体は1843年(道光23)広東省花県の客家(ハツカ)の農民出の読書人洪秀全が創始した拝上帝教という宗教団体である。彼は科挙失敗後の病中に見た幻覚を,偶然手にしたプロテスタントの布教文書によって解釈し,みずからを堕落した中国を救う使命を真の神,天父上帝から与えられた者と確信した。 | ||||
1853 | 太平天国が南京(天京)を都とする。曽国藩(そうこくはん)が湘(しょう)軍を組織。初めて釐金(りきん)税をとる(咸豊3)(-東アジア-中国、清)-- | |||
1856 | 清、アロー戦争起こる(~1860)(咸豊6)(-東アジア-中国、清)-- | |||
1856 | 9/2太平天国内訌始まる(~11月)(-東アジア-中国、清)-- | |||
1856 | (-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1858 | 5.28 イギリス、フランスと天津条約を結ぶ(咸豊8)(-東アジア-中国、清、イギリス、フランス)-- | |||
1858 | 5.28 ロシアとアイグン条約を結ぶ。(咸豊8)(-東アジア-中国、清、ロシア)-- | |||
1860 | 英・仏軍北京を占領。(咸豊10)(-東アジア-中国、清、イギリス、フランス)-- | |||
1860 | 10. 英仏と北京条約を結ぶ。九竜の割譲。天津開港。(-東アジア-中国、清、イギリス、フランス)-- | |||
1860 | 11. ロシアと北京条約を結ぶ。ウスリー川以東を割譲(-東アジア-中国、清、ロシア)-- | |||
1861 | 載淳(1856~1875) 清の十代同治帝。廟号は穆宗。在位1861~1875。咸豊帝(奕 )の長男。咸豊十一年(1861)、六歳で帝位についた。蕭順ら八大臣が補佐し、祺祥と改元した。西太后や恭親王奕 が政変を起こして権力を握ると、同治と改元した。東太后(慈安太后)西太后(慈禧太后)が垂簾聴政にあたるという形式を取ったが、実質は西太后が権力を握った。かれの治世に太平天国の乱が鎮圧され、洋務運動が起こって諸改革が試みられた。同治十二年(1873)正月、親政を開始したが、なお西太后の専権下にあった。翌年、病のため崩じた。(-東アジア-中国、清)-中国史人物事典⇒歴代皇帝- | |||
1861 | 清・愛新覚羅氏・・穆宗毅皇帝(同治帝、載淳)(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1862 | このころ清で同治中興(洋務運動)(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1862 | 同治帝・即位 -1874(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1864 | 太平天国が崩壊(-東アジア-中国、清)-- | |||
1864 | 7.19 天京陥落、太平天国滅亡(-東アジア-中国、清)-- | |||
1868 | 7. 曽国藩、直隷総督就任(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1870 | 7. 李鴻章、直隷総督就任(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1871 | 6.3 天津で日清修好条規・通商章程調印(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1871 | 9.13 日清修好条規(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1873 | 2.23 同治新政(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1875 | 載 (1871~1908) 清の十一代光緒帝。廟号は徳宗。在位1875~1908。醇親王奕 の子。同治帝(載淳)が崩ずると、五歳で帝位についた。光緒十五年(1889)から親政したが、西太后に実権を握られて、対立を深めた。日清戦争後は革新思想に傾斜。光緒二十四年(1898)四月、康有為や梁啓超らと図って戊戌の変法を断行したが、保守派の反撃を受けて、わずか百日で失敗した。その後、西太后によって瀛台に幽閉された。翌年に義和団事件が起こり、二十六年(1900)に義和団が北京に入って外国公使館などを襲撃すると、八カ国連合軍が天津を占領して北京に迫った。帝は西太后らとともに西安に逃れた。翌年、辛丑条約が成立すると北京に帰った。三十四年(1908)、西太后の死の少し前に病没した。毒殺説もある。(-東アジア-中国、清)-中国史人物事典⇒歴代皇帝- | |||
1875 | 載 (1871~1908) 清の十一代光緒帝。廟号は徳宗。在位1875~1908。醇親王奕 の子。同治帝(載淳)が崩ずると、五歳で帝位についた。光緒十五年(1889)から親政したが、西太后に実権を握られて、対立を深めた。日清戦争後は革新思想に傾斜。光緒二十四年(1898)四月、康有為や梁啓超らと図って戊戌の変法を断行したが、保守派の反撃を受けて、わずか百日で失敗した。その後、西太后によって瀛台に幽閉された。翌年に義和団事件が起こり、二十六年(1900)に義和団が北京に入って外国公使館などを襲撃すると、八カ国連合軍が天津を占領して北京に迫った。帝は西太后らとともに西安に逃れた。翌年、辛丑条約が成立すると北京に帰った。三十四年(1908)、西太后の死の少し前に病没した。毒殺説もある。(-東アジア-中国、清)-中国史人物事典⇒歴代皇帝- | |||
1875 | 清・愛新覚羅氏・・徳宗・光緒帝(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1875 | 清の光緒帝即位、西太后が摂政(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1875 | 徳宗景皇帝(光緒帝、載湉)(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1875 | 光緒帝・即位 -1908(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1875 | 1.12 同治帝崩御、光緒帝即位(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1875 | 5.3 左宗棠、欽差大臣に任じられ、新彊問題にあたる(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1876 | 2.26 日朝修好条約(江華条約)調印(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1878 | 12. 新彊省を新設(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1879 | 4.4 日本、琉球を沖縄県とする(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1879 | 4.4 日本、琉球藩を配して沖縄県を設置、5月20日、清は日本に抗議(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1880 | 10.28 日本と、琉球問題に関する条約案を議定(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1882 | 7.22 朝鮮、壬午の変、日本の出兵に対抗し、8月7日、清も出兵(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1882 | 7.23 朝鮮、壬午の変(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1884 | 8.21 清仏戦争(~1885年4月)(-東アジア-清、フランス)-- | |||
1885 | 4. 清朝とのあいだに天津条約締結。(-東アジア-清、日本)-- | |||
1885 | 4.18 日清『天津条約』(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1885 | 4.18 日本と天津条約に調印、朝鮮を日中両国共同の「保護国」化(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1885 | 10.12 台湾省設置(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1885 | 12.22 日本初の伊藤博文内閣(第一次)誕生(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1889 | 3.4 清で光緒帝が親政(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1893 | 5.15 日本、横浜正金銀行上海支店を開設(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1894 | 日清戦争(~1895)(-日本-日本、清)-- | |||
1894 | 日清戦争日本海軍が豊島沖で清国艦隊を攻撃し、開戦。黄海海戦などでで日本が勝利し、清が和平を求めた。(-日本-日本、清)-- | |||
1894 | 2.8 東学党の乱(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1894 | 3. 朝鮮で東学党の乱(一次・二次甲午農民戦争)、農民が減税などを訴え起こした乱です。党派間のクーデターによる混乱や、外国との開国通商による物価高騰に苦しめられた農民が中心になって蜂起し、官軍と起こした内戦である。大院君派と閔妃派の対立が深まり、大院君、東学党の大幹部の全?準を食客に。大院君は儒教原理主義を押し立て、清の後ろ盾を頼る。しかし、日本にも色目。閔妃はロシアに色目を使うも、清に媚びる。閔妃が清に出兵要請。東学党二代目教祖雀時亮→排外的西洋文化が、古来文化をこわす。地方役人の賄賂に、地方農民が怒り乱となった。これを鎮圧させる為に閔妃は清に援軍を要請します。これを見た日本も日本の公使館を守るなどの理由で出兵。官・農民間の和議が成立して終結する。閔妃、失脚。しかしその後も、清軍と日本軍は、双方が朝鮮に駐屯を続け、ついに、日清戦争が勃発する。日清戦争で陸上戦闘の主戦場となるこの戦争は1895年、日本軍の勝利に終わり、朝鮮は日本の影響下におかれることになる。(-東アジア-中国、朝鮮、李氏朝鮮、日本、ロシア、清)--李氏朝鮮時代 | |||
1894 | 3.29 朝鮮、甲午農民戦争始まる、6月2日、日本が朝鮮に出兵(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1894 | 7.25 日清戦争、実質戦端開く、8月1日、両国宣戦布告(-日本-日本、清)-- | |||
1894 | 8. 日清戦争宣戦布告。(-東アジア-朝鮮、清)-- | |||
1894 | 8. 日清戦争宣戦布告。(-日本-日本、清)-- | |||
1894 | 8.1 中日甲午戦争、所謂日清戦争(~1895年4月)(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1894 | 11.24 孫中山、興中会結成(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1895 | 孫文が日本に亡命(-東アジア-清、日本)-- | |||
1895 | 孫文が日本に亡命(清-東アジア-中国、清)-- | |||
1895 | 3. 清朝全権大使・李鴻章来日。(-東アジア-清、日本)-- | |||
1895 | 4. 下関条約調印。(-東アジア-清、日本)-- | |||
1895 | 4. 三国干渉。日本政府、遼東半島還付に同意。(-東アジア-清、日本)-- | |||
1895 | 4.17 下関条約調印(賠償や台湾割譲)、日清戦争終了(-東アジア-清、日本)-- | |||
1895 | 4.23 ロシア・フランス・ドイツの三国干渉、日本は遼東半島還付へ(-東アジア-清、日本、ロシア・フランス・ドイツ)-- | |||
1895 | 4.23 三国干渉(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1895 | 5. 李鴻章、直隷総督辞職(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1895 | 5.1 康有為・梁啓超、公車上書(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1895 | 5.25 対日割譲に反対、台湾で反対運動高まり、台湾民主国を宣言(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1895 | 8.6 台湾総督府条例を制定(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1895 | 10.26 孫中山、広東で革命蜂起(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1895 | 12.8 袁世凱、新建陸軍(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1896 | 7.21 日清通商条約に調印(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1898 | 清で康有為の変法自強運動(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1898 | 清で戊戌の政変(保守派のクーデター)(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1898 | 4.24 日本の要求により、清、福建の不割譲を声明(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1898 | 6.9 イギリス、九龍租借(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1898 | 6.11 戊戌変法(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1898 | 9.21 戊戌政変、西太后摂政(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1899 | アメリカが中国の門戸開放・機会均等を求める(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1899 | 3. 山東にて義和団の乱起きる(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1900 | 北清事変(列強が清へ出兵~1901)(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1900 | 北清事変(列強が清へ出兵~1901)(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1900 | 6. 清朝北京において北清事変勃発。(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1900 | 6.21 清朝、八カ国連合軍に対して宣戦布告(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1900 | 8.14 連合軍、北京占領。両宮西遷(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1901 | 1.29 変法の上諭(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1901 | 9.7 辛丑和約(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1901 | 11.7 李鴻章死去、袁世凱が直隷総督兼北洋大臣に就任(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1902 | 1.30 日英同盟(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1903 | 6.29 『蘇報』事件(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1903 | 11.4 黄興・宋教仁・陳天華、華興会を結成(-東アジア-中国、清(後金))-- | |||
1905 | 孫文らが中国革命同盟会を結成(清-東アジア-中国、清)-- | |||
1905 | 孫文らが中国革命同盟会を結成(-東アジア-中国、清)-- | |||
1905 | 8.20 孫文ら、東京で中国同盟会を結成(-東アジア-中国、清)-- | |||
1905 | 8.20 同盟会成立(-東アジア-中国、清)-- | |||
1905 | 9.2 科挙廃止(-東アジア-中国、清)-- | |||
1905 | 9.5 ポーツマス条約(-東アジア-中国、清)-- | |||
1905 | 11.2 日本政府、清国留学生取締規則を公布(-東アジア-中国、清)-- | |||
1905 | 12.20 日本、韓国統監府設置(-東アジア-中国、清)-- | |||
1908 | 清・愛新覚羅氏・・宣統帝(廃帝、末帝、溥儀)・即位 -1912(-東アジア-中国、清)-- | |||
1908 | 清の西太后が死去(-東アジア-中国、清)-- | |||
1908 | 中国の西太后が死去(-東アジア-中国、清)-- | |||
溥儀(1906~1967) 清の十二代宣統帝。ラスト・エンペラー。在位1908~1912。醇親王載 の長男。母は栄禄の娘。光緒帝(載 )が崩ずると、西太后の意向により、三歳で即位。父の醇親王が後見した。宣統三年(1911)に辛亥革命が起こると、翌年に革命派と妥協した袁世凱によって退位させられた。宣統帝の号は保持しながらも、紫禁城に軟禁された。1917年、張勲の復辟運動によってわずか十二日間の復位。1924年、直隷派の馮玉祥によって紫禁城を追われ、北京の日本公使館に避難。翌年、天津の日本租界に移った。1932年には日本の保護のもと満洲国の執政となり、1934年満洲国皇帝となった。康徳と建元。しかし、完全な日本の傀儡であった。在位中、二度訪日。1945年、日本降伏後に退位を宣言。日本に亡命する途中、ソ連に逮捕された。1950年、中華人民共和国に引き渡され、撫順・ハルビンの刑務所に服役した。1959年、特赦で出所。一平民となり、植物園の庭師となった。看護婦をしていた婦人と結婚した。1964年、政治協商会議委員をつとめる。歴史学会会員。文革の初期に病死した。『わが半生』。 | ||||
1908 | 8.27 憲法大綱の発布(-東アジア-中国、清)-- | |||
1908 | 10.19 日本の警察当局、『民報』を発禁(-東アジア-中国、清)-- | |||
1908 | 11.14 光緒帝崩御、溥儀即位。翌日、西太后死去(-東アジア-中国、清)-- | |||
1909 | 1.2 袁世凱失脚(-東アジア-中国、清)-- | |||
1909 | 8.6 日本、安奉鉄道の一方的改築を通告、対日ボイコット運動広がる(-東アジア-中国、清)-- | |||
1910 | 韓国併合の歴史日清戦争では、清に朝鮮の独立を認めさせ、 | |||
1910 | 8.22 韓国併合に関する日韓条約を調印(-東アジア-中国、清)-- | |||
1910 | 8.29 日韓併合 発布(-東アジア-中国、清)-- | |||
1911 | 清、辛亥革命(-東アジア-中国、清)-- | |||
1911 | 10.10 武昌蜂起、辛亥革命(-東アジア-中国、清)-- | |||
1911 | 11.1 袁世凱、清朝内閣総理に就任(-東アジア-中国、清)-- | |||
1912 | 清朝滅亡、中華民国成立(-東アジア-中国、清、中華民国)-- |